その日、クロは、少しだけ迷って、小さな花束を買った。
それが僕の手に渡ってきたのは、夏が終わりそろそろ木枯らしが吹き始めた時期のころだった。
「おまえさ、前その人のこと気にしてただろ? そんでツテがあってチケットが安く手に入ったから買っといてやった」
気の好い康行がどこか得意そうな顔をして僕に手渡したのは、再来週に行われるという、あるオペラ歌手のコンサートのチケットだった。最終公演だと書いてある。
「二枚買っといたからさ、黒木と行ってこいよ。たまにはそういうとこに連れてってやるのも悪くないだろ」
黒木蘭。チケットにはしっかりと歌手の名前が書かれているのに、康行は何も気付いていないのだろうか。暫く黙り込んでいた僕に、康行が訝しそうに顔を顰めた。
「……何だよ、そんな変な顔して。あんま好きじゃなかったのか?」
「え? いや別にそういうんじゃないよ。俺はわりとこの人の声好きだったな」
ずっと前に、MDを通して聞いた声は、確かにきれいで、うつくしかった。あのMDを聴いてから、もう半年も経つのかと僕は何となく感慨深くなる。もう半年も経つのか。
音源を通したものと、直接鼓膜を揺さぶる、いわゆる生で聞く音はだいぶ違うから、心惹かれるものがあったのは確かだし、康行の好意としてこのチケットは素直に嬉しかった。嬉しかったのだろうと思う。だからこそ、心底ありがたく受け取りたいとも思った。だけど、と引っかかるのは、ありえないくらいに鈍い康行が気付いていないことだ。
「俺は、いいんだけどね。……ありがとう、康行」
礼をいうことだけは忘れずに、僕はそのチケットをみつめて嘆息した。
黒木蘭は、クロを生んだ。つまりは彼の実の母親だ。
「――そういうわけなんだけど、どうする? 行く?」
突然二枚のチケットが舞い込んできた経由を説明して、最後にそう尋ねた僕に、クロは案外けろりとした顔をして、「いいんですか?」と反対に首を傾げてきた。僕はこいつの頭の悪さに思わず額を押さえる。
「いいも悪いも、俺じゃないだろー。おまえの問題じゃんか、どっちかって言ったら」
「ああ、そうか。でも……」
でも、のあとから言葉を途切れさせて、クロは、きゅっと唇を引き締めて黙り込んだ。いつも笑っている顔が笑っていないときは、クロが何か難しいことを一人で考えているときだ。迷って、悩んでいるような真面目な顔付きに、僕は暫く黙り込んだ。
「……遠くから見るだけだし。行きたいんなら行ったほうがいいんじゃない?」
「でも」
無理に言葉を捜した僕に、何かに躊躇うようにクロはやっぱり黙り込んでしまう。
「行きたいの? 行きたくないの?」
「行きたい、です。……でも」
「いやもう"でも"とかはどうでもいいから」
同じ言葉を繰り返すクロに呆れて、僕は小さな溜め息を吐き出した。なぜなら僕は知っていたからだ。クロが好んで母親の歌が収められたCDを聴いていることを、出演するラジオ番組をこまめにチェックしていることを、僕は知っていた。クロは決して、その女に会いたいと言わない。けれどどうしようもなく気になるのは、クロと黒木蘭が肉親である以上、仕方のないことだと思う。会えるかもしれない、と持ちかけられたときに、決意したはずの半永久的な別離に揺らぎがかかるのも。すべては仕方のないことだ。
迷うようにクロの目が小さく揺れて、じっと僕を見つめた。
「……せっかく康行さんがくれたから、行きましょう」
「康行に気ぃ遣う必要はないんだよ。クロが行きたいか、行きたくないかなんだから」
「おれは、行きたいです」
「ほんとに遠くから見るだけで、話とか、そういうのはできないかもしれないけど」
「はい。それでいいんです。それのほうが、いい。だけど、もしかしたら、寶さんに嫌な思いをさせてしまうかもしれないから……」
クロは不自然に言葉を途切れさせて、またじっと黙り込んだ。
「俺は嫌な思いなんかしないよ」
思わず心から溜め息が漏れた。僕の心配はそこじゃない。クロがまた辛い思いをするんじゃないかとか、悲しい顔をするんじゃないかとか、問題はそこでしかないのに。
結局僕は他人で、第三者で、母親から痛めつけられたクロの傷を癒してはやれないし、痛みを分け合ってもやれない。
僕は手を伸ばして、クロの大きな掌を握りこんだ。図体に相応しく大きな掌は、決して誰かを傷付けるためには動かない。
「会いたい?」
クロは答えない。
僕はもっと強くクロの手を握った。
「……すこしだけ」
目を細めて眉を下げて、その上唇を歪めてクロが笑う。僕はあんまり悲しくなったので、手を強く握り締めたままクロの唇にキスをした。また伸びた前髪が、丁度僕の鼻先を擽る。くすぐったいと笑った僕に、クロも笑った。
「……髪、また切ってください」
クロは、キスが少しだけ上手になった。
会場に行く前に通りかかった花屋で、クロは少しだけ迷って、小さな花束を買った。小さな小さな花束は、地味な花たちで形成されている。どれも僕が名前を知らないような花だった。好きなのか、なんて尋ねなくても、答えは判りきっている。この小さな花たちを、彼の母親が好んでいることは誰が見ても明らかだった。
コンサートは時間にしてみればニ時間ちょっとだった。北から南まで全国十五箇所を駆けたコンサートの最終公演で、人の入りは想像していたよりもずっと多い。僕とクロは人の波に押されるようにして席につき、人の波に流されるようにして会場を出た。
「想像してたより人多かったな。窒息死するかと思った」
僕がクロにやっと口を利けたのは、会場を出て、広いロビーのような場所で缶コーヒーを片手にしたときだった。
「寶さん、平気?」
「何が」
「人ごみ、好きじゃなさそうだから。気分悪くなってませんか」
僕は曖昧に頷いて、缶の中身を空にしてしまう。コンサート中の穏やかさが嘘のように、熱気に溢れ返っていたあの時間のことはもう思い出したくもない。
黒木蘭の歌声は、子守唄に丁度いい。はじめに抱いたその印象は、直に歌声に触れても変わらなかった。僕は何度か眠りに誘われかけて、その度クロに笑われた。退屈だったわけじゃないんだと言い訳すると、クロは判り切ったような顔で頷く。
「いつも眠そうな顔してますもんね。家でCDかけてるとき。それで、結局すごく気持ちよさそうな顔で寝ちゃう」
したり顔で付け加えたクロの腰に膝蹴りでも食らわせてやろうかと考えていると、「充!」とクロを呼ぶ高い声が聞こえた。
「……姉さん」
僕は時々忘れてしまうけれど、クロにはちゃんとした名前がある。「岡崎充」それがクロの戸籍上の名前だ。少し前までは「黒木充」が彼の名前だったらしい。だけど僕にとってクロはクロなので、「充」という名前に何となく違和感を覚えてしまうのも仕方がないことだと思う。
「ああ、芳野さんもいらしてくださってたんですね。お久しぶりです。充がお世話になっております」
クロの義姉、岡崎裕美は丁寧な仕草で僕に向かって頭を下げる。相変わらずきびきびとした、しっかり者の女性だという印象を持った。すっかりだらけた気分だった僕は、慌てて気を引き締めてその動作を真似る。
「いえ、こちらこそ。ク……充君が色々と手伝ってくれるおかげで、俺も助かってます」
「わざわざ追いかけてきてくれなくてもよかったのに。姉さん、忙しいんだろ」
いいのよ、と顔を上げた裕美は笑って首を横に振った。あの観客の中から僕たちの姿を見つけ出すのは至難の業に等しい。彼らは仲のいい姉弟だから、事前にクロが連絡を入れたのだろう。
「今は丁度休憩時間だから、蘭さんも休んでるの。……これ、お土産代わりに持って帰りなさい。スタッフ弁当」
「いいの?」
クロはおかしそうに笑って、裕美の手から弁当を受け取った。わざわざ出向いた弟を手ぶらで帰させるのは姉として気が引けたに違いない。だけど、あげられるものが弁当くらいしかなかったんだろう。それがおかしくて、見ていた僕は少しだけ胸が温かくなった。
「あら、お花……買ってきてくれたの?」
ふいに裕美が視線をやった先には、クロの手に握られていた花束があった。小さなそれを見つけた裕美は、少しだけ悲しそうな顔をして、クロを見上げた。
「……お花、私から渡しておきましょうか」
クロは何かを考え込むように黙り込んで、結局「そうだね」と頷いた。直接会うことの叶わなかったその人に、何か言付けでも頼むつもりかと見ていると、クロは何も言わず花束を姉へ向かって差し出した。無性に手を握りしめてやりたい気分になる。僕はそれを必死に我慢した。――クロの横顔があんまり寂しそうに見えたから。
「裕美!」
クロの手から裕美の手へと花束が渡される直前、女性の甲高い声が裕美を呼んだ。近付いた足音に振り向いた裕美は、驚きと動揺を隠せない顔で足早にその人の元へと向かっていく。
「蘭さん、どうしたんですか。ちゃんと休憩しておかないと……」
「だって。飲み物を頼もうと思ったら裕美がどこにもいないんですもの。仕方ないから自分で買いに行くついでにあなたを探してたのよ」
それは、想像していたよりも、幼い喋り方をする女だった。声の口調もどこか拗ねているように聞こえて、年齢の割りに若く見える容貌をいっそう若々しく見せる。
息を呑み、その光景をただじっと見つめていた僕とクロへ、裕美の肩越しに黒木蘭が視線を向けた。黒木蘭は声を潜め、裕美に何かを囁いている。それに答えて、裕美も何かを小さな声で囁いた。――僕は少しだけ迷って、クロの横顔を見上げる。
クロは、不思議なことに、ひどく穏やかな顔をしていた。
穏やかすぎて、むしろ僕には表情が凍てついているようにも思えて仕方がなかった。
クロ、判ってるのか。言葉に出さず、横顔を見上げながら問いかける。今目の前にいるのは、おまえの母親なのに。おまえをあんな目に遭わせた女なのに。――判ってるのか。
裕美を通り越して、黒木蘭の足はこっちへ向かってくる。まっすぐにクロを見つめ、迷いのない足取りで近付く彼女に、僕はクロを引っ張って逃げ出そうかとも考えた。
なのにクロは、動こうとしなかった。
「はじめまして」
黒木蘭は、若々しい唇をゆっくりと笑みの形に上げて、動かないクロを見つめた。やさしい、笑い方だった。
「こんなに若い子がわざわざ来てくれてるなんて、うれしいわ」
僕は、一切の思考力が停止したように、呆然とその言葉を聞いていた。ただそれしか選べる手段がない。――ただの傍観者の僕には、ただそれだけしか。
「でも、こんなおばさんの歌なんて聴いてても楽しくないんじゃないかしら」
穏やかに微笑みながら、黒木蘭は頬に手を宛てた。あどけない仕草だった。その微笑みに応えて、クロも小さく笑った。吐き気がした。どうして笑うんだ。どうしてそんな顔で、笑ったり、なんか。同じ言葉が、何度も何度も思考を巡る。どうして。どうして。――この人は、何を、
「そんなことないです」
傍観者の僕の隣で、クロが手にしていた小さな花束を黒木蘭に差し出した。迷いながら選んだ、小さな小さな花束。可憐な花束を受け取った黒木蘭は、素直に喜び、小さく声をあげる。
「私の好きな花ばっかりね。どうもありがとう」
僕は、クロの言葉が、予想できるような気がした。
「……あなたの、」
――あなたの、
「あなたの歌を、ずっと、聴いていました」
――あなたの歌を、ずっと、聴いていました。
予想通り、クロはやっぱり微笑んだ。
何も知らない黒木蘭は、「ありがとう」といって笑った。罪なく、うれしそうに笑った。
――もう止めてくれと、叫びたくなった。喉を突いて飛び出そうになる衝動に、僕は固く指先を握り締める。もうこれ以上、傷付けるのは。クロを、――僕の好きな人を、これ以上傷付けるのは、止めてください。
「……寶さん、行きましょう」
やさしい声に促されて、僕は鈍い足を努力して動かした。
「充、」
「……裕美さん、ありがとう。――蘭さん、あなたに会えて、とても嬉しかった」
姉に呼び止められたクロは、一度だけ足を止めて振り返った。そして二人の女に向かって丁寧に頭を下げ、動けない僕の背をそっと押す。
僕は、はじめて人を憎いと思った。
それは同時に自分にも向かう棘だった。
なんて、ひどい。ひどい、やりかただろう。
なんて、他人を傷付ける、逃げ方だろう。
何かをひどく思い知って、僕は声もなく涙を溢れさせた。瞼の裏に残る黒木蘭の少女のような笑顔が、どす黒く、歪んで見えた。無邪気に、幸せそうに笑う女。ああ、あれは――僕の姿か。
クロが小さな声で「ごめんなさい」と謝ってきたのは、人気のない道をゆっくりと歩いていたときで、そろそろアパートが見えてくるころだった。それまでは、僕たち二人はずっと無言で歩いていた。僕は俯いて、無意味に涙を流していた。時折しゃくりあげる声がクロの耳に届くたび、クロは痛ましそうな顔をして、歩く速度をそっと緩めてくれる。
「……ごめんなさい。おれはやっぱり、あなたといっしょに行くべきじゃありませんでした」
夕暮れはとっくの昔に終わって、辺りは電灯の明るさしかない。暗い家路で、人気がないことを確認したクロは、僕に向かって手を伸ばした。それに応えられない僕の指先を強引に握り締め、それからクロはゆっくりと歩き出す。
「あなたに、あんなものを見せ付けるつもりはなかったんです。……本当に、ごめんなさい」
手を繋ぎながらクロが真面目な声でそんなことを言ったりするので、僕はまた、涙が溢れた。溢れて無意味な嗚咽しか零せない僕のてのひらを、クロはずっと握り続けた。
なんてひどいことをしたんだろう、僕は、なんてひどいことを。
「クロ、……知ってたの」
クロが躊躇った理由を、僕は勘違いしていた。
「母親が、自分のこと忘れてるって……知ってたの」
クロは、僕に見せ付けたくなかったのだ。
「……はい」
それは、ほんの少し前の僕が簡単に選び取ってしまった道。ひとつの出来事を忘れるために、すべてを忘れてしまった狡さと残酷さを、僕に思い知らせたくなかっただけだった。
「……ごめんなさい」
「そんなの、……俺の、ほうだっ……」
あのとき、辛かったのは、僕じゃない。
「俺は、まだ、誰にも謝ってな……」
言葉を継ぐと、苦しさで途切れた。
本当に辛かったのは、僕じゃない。僕が置いてきた人たちだ。僕に忘れ去られたものたちだ。
僕の勝手な行いを許してくれた康行は、家族は、たくさんの人々は、なんてやさしかったのだろう。僕は、なんて、ひどいことを、したのだろう。忘れることで、僕は、どんなにひどい傷を。
「康行にも、家族にも、……おまえにも、謝ってない、のに」
「謝らなくていいんです。おれには。……康行さんだって謝ってくれなんて言ってないし、きっと言わない」
黒木蘭に傷付けられたクロの傷は、昔の僕が知らない間に傷付けてしまった人たちのものと、全く同じだった。僕は、黒木蘭を、批難することができない。クロを傷付けないでくれと祈るように思ったのは本当なのに。
――だってあれは昔の自分じゃないか。昔の自分の姿じゃないか。
「あの人、綺麗に歌ったでしょ。綺麗に、笑ったでしょ。だからおれは、もういいんです。おれの記憶が残ったままなら、あの人はずっと苦しくて悲しいんです。だから、もういい。――穏やかになった分、あの人は歌い方を忘れてしまったかもしれないけど」
どういう意味だと涙交じりの視線を上げた僕に、クロはほんの少しだけ悲しい笑い方をした。
「あの人が一番評価されていた時期は、うちの中がぐちゃぐちゃになってた時期でした。父さんが女の人といなくなって、あの人もお酒に溺れるようになって、……それで、悲しいことも苦しいことも全部、あの人は歌うことで発散するしかなかったんだとおもうんです」
クロが話している間中、クロの掌は、僕の手の上にあった。震えを止めるように強く握り締めてくれていた掌に、震えていたのは、本当に自分のほうだったのだろうかと後になって僕は考えた。
「とても皮肉なことだけど、一番辛かった時期に、あの人は歌を評価されて有名になりました。忙しくて家にいる時間も減ったから、それだけはよかったのかもしれないけど、あの人は悲しいことを忘れた代わりに、歌い方も忘れてしまっただろうから。……あの人はたぶん、これから歌手としてどんどんだめになります」
「……そう、なのかな」
「判りませんでしたか? 今日は、散々だった。おれは、あの人のあんな歌声を今まで聞いたことがない」
冷静な顔をして、冷静に分析するふりをして紡いだ声は、少し震えていたかもしれないと、そのときの僕は気付かなかった。
忘れることは、何かを落としていくこと。
僕は空いている掌で乱暴に目尻を拭った。今傷付いているのは僕じゃないことを、やっと思い出したからだ。「そうだな」と頷いて、僕はまっすぐに顔を上げる。僕が泣いている場合じゃない。
せめて忘れなければ、逃げなければ。――黒木蘭は、歌手としてクロに愛されていたかもしれない。
「でも、芸術家っていうのは、そういうもんなのかもな。一番しんどいときに、一番いいものが作れるのかもしれない」
幸福だけでは何も生まれない。精神的な成長と技術的な成長がイコールで結びつくのなら、きっと芸術家というものはそういう生き物なのだろうと、ぼんやり思った。泣きすぎて鼻の奥が痛くて、普通を装う声が掠れた。
クロはやさしい顔をして「はい、」と小さく頷いた。
「それで……おれは、あの人の息子だけど、芸術家じゃなくてよかったなあっておもったんです」
「……なんで?」
「おれは幸せでも、何もなくさないから」
悲しいことが、苦しいことが、精神を痛め付けることが芸術家の仕事なら、僕はそんなものに一生なれなくていい。有名になんかなれなくていい。自分の一切を誇れなくてもいい。
「……だからおれは、ずっとあなたといっしょにいてもいいんだと、おもいました」
これ以上の幸福がどこにあるだろう。
「だから、よかった」
クロが隣で笑う。相変わらず馬鹿みたいに喋って馬鹿みたいに笑って馬鹿みたいに泣いたりする、クロが、僕の隣で静かに笑う。僕の傍にいることが幸福だと言って、静かに笑う。
クロが、黒木蘭のことを「あの人」と呼び続けていることに気付いていて、その他人行儀な呼称に胸が痛みはしたけれど、それでも僕は、幸福だった。
「もー……おまえ、また、泣かすなよ」
「えっ、ごめんなさい」
またじわりと溢れる涙に慌てるクロが、隣にいる。手を伸ばせば届く。これ以上の幸福が。
「せっかく止まってたのに……」
「おれのせいですか!?」
「おまえ以外に誰がいるんだよ……」
慌てるクロの横で、僕はぼろぼろと大量の涙を流した。だってこれは仕方がない。クロが泣かないのだから、仕方ない。これは僕のじゃない、クロの分だと決め付けて、僕は遠慮なく泣いた。ほとほと困り果てた顔をしたクロが、辺りの様子を伺いながら背を屈めて僕に口付ける。くすぐったい感触に笑おうとして、ひくつく喉からは嗚咽が流れた。いよいよ仕方がなくなったので、――僕は僕よりも高い位置にある頭を、抱え込むように抱きしめることにした。
人気のない狭い道で、僕たちはそうやって抱き締め合っていた。傍から見れば滑稽だろうと思うとおかしくて、漸く止まりかけた涙に、クロが安堵したように笑う。「よかった」と囁いた唇に自分の唇を押し付けると、それは涙の味がした。
今日、クロは、少しだけ迷って、小さな花束を買った。
それはあの人の元に、きちんと届いた。
僕はあの人に、いつかあの人に、
──クロを産んでくれてありがとうと、言えたらいいのにと、思った。
20050209