う そ つ き



「あ、あった……!」
「あったね」
 無感動に頷いて見せた友人を横目に睨み付ける。しかし喜びに口元が思わず緩んでしまいそうになるのを止められず、敦はにやにやと笑いながら友人の背をバシバシと叩いた。
「痛いって…」
「良かったな由成! 合格だってよ!」
 嬉しくて堪らなかった。
 そして二人して同じ大学に合格が決まった今、少なくともあと四年は付き合い続けることも確定した。学部の違いはあっても、これまでつかず離れずでやって来たのだから、今更離れることはないだろうと思う。
 ――嬉しかった。
 見れば由成も、背を叩かれる痛みに顔を顰めながらも、口元に笑みを浮かべて、やさしく敦を見つめていた。
「――本当によかった」
 その笑みを見た敦は――
 どうしてか無性に、泣きたくなった。

 もしもそのときが来たら。

(俺が言うから、)

(必ず言うから。)






 子供の頃から嘘を吐くことは得意だった。
 嘘と呼ぶほど大仰なものじゃないかもしれない。例えば否定しながらも頷いてみせたり、楽しくもないのに笑って見せたり、好きでもないのに馴れ合ったり、そういうことがひどく得意だった。だけどそれはきっとうそつきなのだろう。結局自分は調子が良いのだ。
 長いものには巻かれよう。そんな風に、この歳にして悟っているのは、幼い頃から体育会系の空気の中で育ったからかもしれない。大した罪悪感も持たず、そんなことをやって退けている自分はうそつきに違いがなかった。
「――楠田って、あの楠田だろ?」
「何おまえ知ってんの?」
 ざわざわと幾つかの声が交差する教室で、目の前で交わされる会話に何となく嫌気が差して、工藤敦は軽い溜息を吐いた。近隣の三つの小学校からそれぞれやって来た新入生たちが、まだ慣れない教室で身を寄せるように顔見知りたちと固まっている。敦も例に漏れず、同じ小学校出身の友人たちと行動を共にしていた。
 しかし入学から一週間も経てば、別々の小学校からやって来たという小さな隔たりは消えてしまう。それぞれが出身小学校など関係なしに気の合う友人を見付け、顔見知りも増えてきた頃、最近の話題はあるクラスメートのことだった。
「超有名。だってあいつんとこスゲェもん」
「スゲェって何? 金持ち?」
「それもあるけど。親父さんが外で女作って、出来た子供引き取って一緒に暮らしてるんだって」
「それが楠田?」
「いや、あいつの兄貴…になるのかな、血ィ繋がってないみたいだけど」
「は? それどーゆーこと?」
 もー良いじゃんよ、人んちのことなんかどうでも、そう口を開きかけた敦を、ガラリと開いた扉から現れた人物が止めた。冷たくもなく暖かくもない独特の気配。――敦の背後にその人は佇んでいるのに、振り返らなくても誰かは判った。見ればさっきまで下世話な話に花を咲かせていた友人たちは、ピタリと凍り付いている。
(――あーあ…)
 やっちまったな、と幾分苦い思いで顔を顰める。フォローの言葉など見付けられるはずもない。怒るだろうか、それとも無視だろうかと敦は半ばやけくそで傍観を決め込んだ。
「中島、」
「な、何!?」
「担任が呼んでた。プリント提出のことみたいだよ。急いだ方が良い」
 しかしその人は憤りの欠片も表情に浮かべず、教室に戻って来る際に頼まれたらしい伝言を淡々とクラスメートに告げると、そのまま自分の机へ戻って行った。
「――聞こえてなかったのかな?」
「さあ。でも何も反応なかったし、聞こえてなかったんじゃねーの」
(――ばかだ、ばかじゃないのかこいつら)
 敦は思わず顔を覆いたくなった。聞こえていないはずがないじゃないか。あんな大声で、あんな話を。小声で話されていることでも、それが自分に関わる話であれば不思議と耳に入ってしまうものだというのに。
「中島、早いとこ行った方が良いんじゃね? ホームルームで皆の前で注意されるよかマシだろ」
 噂を垂れ流している中心人物を茶化しながら教室から追い出す。これで、彼に関する下らない話は終わりだと少しだけ安堵しながら――敦は、伺うように見ていた。
 作り物のように綺麗な顔をしたクラスメイトを。
(怒ってくれれば、いいのに)
 そう思うと、無性に悲しくなった。



 中学校という名の今までとは違う組織で、敦が組み込まれたのは一年一組という覚えやすいゾロ目のクラスだった。全部で九クラスある学年で、恐らく同級全員と知り合うのは不可能だと思う。だから敦は感謝していた。一年一組には特別な少年がいたのだ。
「楠田って部活入んねーの?」
「……どうだろう。あんまり興味もないし。そんな部員が適当に入っても迷惑かけるだけだから。のんびり考えるよ」
 楠田由成は飛び抜けて異質だった。何が異質かと言えば、少しだけ耳にした彼の噂話も敦の常識に照らし合わせれば勿論異質だったし、何よりも彼の纏う雰囲気そのものが異質だったのだ。
「じゃあテニス部入んね? 俺テニスやってんだよ、ちっちゃいころからさ」
「楽しい?」
「楽しくないと続けてねーって。超キツいけどな。俺の親父スパルタだったし。しかも親父の友達とかも一緒に扱いてくるから。学校の部活のがマシ。……けど楽しいって」
「…考えとくよ」
 そう言って少しだけ微笑む。敦はこんな風に笑って見せる少年をこれまで見たことがなかった。同じ年代の少年たちは、大概大口を開けて馬鹿のように笑うのだ。勿論笑い上戸を自覚している敦もそうで、しかし彼が時折見せる笑みは、まるで繊細な壊れもののようだった。だからだろうか、彼は女子や教師からの受けは抜群に良かったが、男子からの評価はいまいちで、クラス内では敬遠されている節がある。
 付き合い難いというわけではない。話しかければ答えてくれるし、笑いもする。逆に由成は酷く人を気遣う性質で、軽はずみに人を傷付けることなど絶対にしない。敦にとって由成の言葉はどれも耳障りがよかった。人伝に聞いた噂話なんてどうでも良い。そんなものは――本人の口から語られなければ、意味がないのだ。
「――工藤は、」
「ん?」
 いつからか、部活がなければ由成を追い掛けるようにして登下校を共にするようになった。放課後に約束を取り付けて、部活が終わるのを待たせたこともあった。今日買い物行きてーんだ、付き合って?そう頼めば由成は一つ返事で頷いてくれる。
「…損な性格してる」
「俺?」
「世話焼き」
「かもな、俺長男だもん」
 そう言うと由成は「それ関係あるの、」と笑った。
「じゃあ俺次男だからかな、工藤に迷惑かけてるの、」
「迷惑なんかかけてねーじゃん。むしろ迷惑かけてんの俺だし。おまえセンス良いから買い物んとき、つい頼っちまうんだよな」
「それは良いよ、楽しいから」
 校区が違っていた由成とは家も少し離れていて、分かれ道は直ぐに来てしまう。ほんの五分ちょっとの道のりを、殊更ゆっくりと歩いていた。――どうか彼も同じ気持ちであるように。
「おまえあのゲーム持ってるって言ってたっけ?」
「あるよ。来る?」
「じゃあ今度の日曜行ってい? 部活休みだからさ」
「うん、」
 小さな約束を取りつけて別れた。小さな小さな、なんでもない約束。それなのに、はじめて彼の住む家に行けることを、どうしてか酷く楽しみにしていた。




 彼に関する噂はたくさんあって、しかもそれが殆ど信憑性の高いものであるから性質が悪い。彼の家は大地主だか何やらで地元では有名らしく、先祖代々で経営しているという会社の名前は敦でも聞き覚えがあるものだったから、有名なのも成程と合点がいった。つまり由成は御曹司であり、また楠田家は醜聞にも事欠かない、というのが友人の話だった。
 ――歳の離れた兄がいる。血は繋がっていなくて、
 ――兄が愛人の子で、
 ――彼自身は母親が外で作った子供だから、
 他にも由成はなぜか小学校高学年まで学校に通っていなかっただとか、それまでは口も利けない子供だったとか、由成に関する話はうんざりするほど耳にした。それを面白おかしく何度も口にするクラスメイトがいることにもそろそろ辟易している。
 しかし同時に、そうやって由成の噂を垂れ流す友人たちを強く制止することができない自分にも嫌気が差していた。あのときも、もう少し早く自分が彼らを止めていれば、由成があんな話を聞くこともなかったのに。
「――ここ、おまえんち?」
 約束の日曜日、もちろん道が判らない敦を、由成はいつもの分かれ道まで迎えに来た。それから自転車を飛ばすこと数分、辿り着いたのは、確かに大きな一軒家だった。
「うん。…俺の家っていうか、恭さ……兄さんの家なんだけど」
 しかし噂に聞いていた大富豪の屋敷、というイメージには当て嵌まらなかった。どちらかと言えば古風で、築古年とまでは行かないにしても、ずっしりとした重みのある古い家だ。
「兄ちゃんといっしょに住んでんの?」
 これは噂話には含まれていなかったことだ。内心驚きつつ、それでも敦は平静を装って尋ねた。
「うん、二人暮らし」
「へー。大変じゃねえ? 男二人って料理とか出来なさそう」
「料理は上手いんだよ、あのひと。掃除は下手だけど」
 兄のことを「あのひと」などと呼ぶだろうか。血が繋がっていないとそれが普通なのだろうか、それにしては由成の「あのひと」という言葉の響きは暖かくて――その、僅かな違和感に首を捻りながらも、敦は由成に続いて敷居を跨いだ。
「そっちが工藤?」
 恭さんただいま、由成がそう声を掛けると、奥からのっそりと――まるでそう、世界中の不幸を一気に集めた場所から這い出て来たようにのっそりと、家主らしき人物が出迎えてくれた。ひどく顔色が悪く見える。
「うん。少し騒がしくなるかもしれないけど大丈夫?」
「構わねェよ。あともーちょいしたらコッチも騒がしくなるからな」
 不機嫌そうな顔付きでギロリと睨まれて――いるように、敦には思えた――ビビっている敦を余所に、由成は兄と朗らかな会話を交わしている。
「誰か来るの?」
「雄高以下略」
「――大丈夫?」
「……死にはしねェよ」
 そう言って疲れた表情で淡く笑った家主は、再び敦に視線を向けると、いらっしゃい、と改めて挨拶した。
「俺の知り合いも今から来ることになってんだ、だからあんま構ってやれねェけど、ゆっくりしてけよ」
「は、……はい、どうもすいません、お邪魔します」
 早口で告げた敦に、家主はからから笑うと、まるで幼い子供にするかのように敦の髪をくしゃくしゃ撫でた。
「俺シャワー浴びてくるわ……アイツらが来たら勝手に上がるだろうから、おまえらは気にしないで遊んでろ」
 そう言い残すと彼は現れたとき同様、のっそりと奥へと消えていく。心なしか足元がふらついているように見えるのは、気のせいだろうか。
「――今のが兄ちゃん?」
「うん」
「機嫌悪そうだったな。俺来てよかったの?」
「――…あれ、どちらかと言えば機嫌が良い方だよ」
 困ったような表情で控えめに由成が告げる。あれで機嫌が良い方なら、機嫌が悪いときは一体――と怖い想像は、敢えてしないことにした。
「仕事も終わったばっかりだし、機嫌は良いんだ。…あれは疲れてるだけだから気にしないで良いよ」
「仕事って?」
 由成の部屋に向かいながら尋ねると、小説家、と短い答えが返って来る。到底そうは見えなかったが、人は見かけによらないものらしい。すげぇな、と感心すると、否定もせずに由成は頷いた。
「――恭さんは、すごいひとだって…俺も思うよ」
 そう呟いた由成の表情が、あんまりやさしかったから――ああきっと彼にとって兄は、特別なひとなんだろうと敦は思った。



「――ごめん騒がしくて」
「いや全然良いんだけど、良いんだけどな。……すげェなおまえんち」
 ゲーム機のコントローラーを握る手もそこそこに、扉を隔てた場所――恐らくリビングだろう、そこから漏れ聞こえる酔っ払いたちの騒ぎ声に二人は耳を澄ませていた。
「まだ明るいのにな、すげェよな大人って。……つーか兄ちゃん疲れてんじゃなかったのか?」
「――うん」
 恭さん大丈夫かなあ、と閉められた扉を見遣ってのんびりと由成が呟く。
「下手に見に行くと絡まれるからなあ……」
「…おまえ意外と苦労してんのな」
 しみじみと敦が呟くと、由成は複雑な表情をしてみせたものの否定はしなかった。
「今日、工藤が来てなかったら俺も問答無用で引っ張り出されてたと思うから…」
 友達が来ているという事実は、由成にとって良い隠蓑だったらしい。
「工藤、腹空いてない?」
「ん、ちょっと」
「――じゃあ何か持って来るよ」
「うわ、良いって! 絡まれるんだろ!?」
 あの騒がしい酔っ払いたちに一度絡まれれば、解放されるのはいつになるか判らない。決意を固めて立ち上がろうとする由成を、敦は必死に留める。そのとき、扉が静かに開いた。
「ヨシ、つまみ要るか、」
 開いた扉から顔を出したのは、家主とは違う男だった。手にしたトレイには、つまみとは全く呼べないような菓子とジュースが乗せられている。
「ごめん、ありがとう。今丁度何か取りに行こうと思ってたんだ」
「ごめんとありがとうは同時に使うモンじゃない。――これで腹が膨れれば良いがな。他にも何か要るか、」
「良いよ、自分で取りに行く」
「止めとけ。アイツら皆おまえの友達に興味津々だ、絡まれるぞ。今日は酔っ払いが五人もいるからな、すごいことになる」
「――……」
 からかい半分の男の言葉に、由成は押し黙った。きっとその悲惨な状況が、容易に想像出来たのだろう。
「工藤、どうする? 腹減ってるよな?」
「え、いーよ別に。何なら外に食いに行っても良いしさ」
 昼飯を一度抜いたくらいでどうということもない。もう少し時間が下がればさすがに空腹に耐え切れなくなるかもしれないが、そのときまでは男が持って来てくれた菓子類で充分だろう。
「外に出かけるときは恭一に声かけておけよ、」
「うん」
 トレイを受け取りながら由成が頷く。扉を閉める前に、男は敦に視線を合わせて小さく笑った。
「悪ィな、リビング占領してて。今度来たときは美味いメシ食わせてやるから」
 ――恭一が。ちゃっかりそう付け加えて、男は部屋から去って行く。
「……あのひと兄ちゃんの友達?」
「そう、雄高さん。恭さんの幼馴染なんだって。――雄高さんが来たってことは、恭さんもう酔い潰れてるんだな…」
 雄高、という男から受け取ったトレイを運んで来た由成は、乗せられたグラスの片方にジュースを注ぐと敦に差し出す。
「おまえさ、自分の兄ちゃんのこと「恭さん」って呼ぶのな。珍しいよなそーゆーの」
 別段他意があったわけではない。自然と口から零れてしまった言葉を、言ってからしまったと思う。気にしただろうか、と恐る恐る由成を伺うと、由成は意外とけろりとした顔で頷いて見せた。
「うん、あんまり兄さんって感じしないから、あのひと。兄さんって呼ぶよりは、恭さんって呼ぶ方が――しっくり来る、のかな、」
 自分のことなのに、そう言えば何でだろう、と不思議そうに首を傾げている。孕んでいた緊張をふっと解いて、敦は笑った。
「兄貴ってよりは友達感覚?」
「――どうだろう、親とも違う気がするし。やっぱり、」
 神様かな。――由成の唇は、確かにそう動いた。
「神様?」
「そう」
 あんなに恐ろしく眼付きの悪い神様がいて堪るものか、そう思ったけれど――敦は、笑い飛ばすことが出来なかった。
「――大切?」
「うん」
 由成の言葉は誰よりも真摯で、それ故に軽い気持ちで聞くわけにはいかないような、そんな気がしていた。だから――。
「……いいなあ、そーゆーのって」
「なんで?」
「照れもせずに家族のこと大切とかって言えるのってすごくね? 俺弟いるけどさ、んな素直に大切とか言えねーもん。可愛くねえし。――楠田って、」
 ――いいなあ。
「――ま、いいや。続きやろーぜ」
 中途半端に途切れた言葉を誤魔化すようにコントローラーを握り直す。由成は不思議そうに首を傾げていたものの、異論を唱えることはせずにテレビ画面に向き直った。


 それから二、三時間ゲームに興じているとさすがに腹が減ってくる。相談の結果、近所のファーストフード店に出掛けようということで話が纏まった。玄関を向かう途中、リビングの前で立ち止まると由成は大きく一呼吸し、扉を開けた。
「恭さん、ご飯食べに出て来るから――」
「やっと出てきやがったか由成!」
 扉を開けた瞬間、部屋に充満しているむっとしたアルコールの匂いに顔を顰める。しかし文句を言う暇もなく、酔っ払いたちはそれぞれ由成に絡んで来た。
「――吉井さん、酒臭いから」
「良いじゃんか久々に会ったんだからよぅ」
 うち一人、相当酒癖が悪いと思われる男が、べろんべろんになりながらふにゃりと由成に抱き着いてくる。それをいとも簡単に振り解きながら、由成の視線は兄を探していた。
「遊んでくれよう由成ィ…」
「うんあとでね、今友達来てるから。――恭さん、行って来るけど良い?」
「あァ、遅くならねェうちに帰って来いよ」
 恭一はといえば、こちらも矢張り上機嫌でソファに踏ん反り返っている。まだ正気かと敦が安心したのも束の間で、彼が足元に転がっている何かを踏み付けているのを目にした瞬間仰天した。由成も同じように足元に転がる何かに気付いたらしく、慌しく部屋に戻ると大きなバスタオルを抱えて戻ってくる。
「恭さん、踏んじゃだめだよ。可哀想だから」
「可哀想も何もあるか、一番盛り上がってるときに寝こけやがって」
 足元に転がっている何かは――先程部屋に菓子を持って来てくれた、雄高という男だった。すやすやと健やかな寝息を立てて、文字通り熟睡している。恭一の足を払い退けると、由成は床に転がっている雄高の身体にバスタオルを被せた。
「そうじゃなくて、後が怖いだろう、雄高さんの場合。怒られたって知らないよ」
 嗜めた由成に、恭一は子供染みた仕草で鼻を鳴らすと、さっさと行けとばかりに掌を上下に揺らして由成を追い払う動きを見せた。それに大仰な溜息をひとつ吐いて、由成は逆らわずに腰を上げた。
「行こう、工藤」
「良いのか? 大丈夫なのアレ」
 恐々と敦は尋ねる。寝入った男を機嫌良く踏みつけている酔っ払いの図は、どう考えても異様だった。
「良いんだ。――雄高さん、酔っ払うとすぐ寝ちゃう癖があるから。別に具合が悪いわけじゃないと思う」
 酔うと所構わず寝てしまうということだろうか。それはそれで――物凄い酒癖の悪さである。
「……あれ普通のことなのか?」
「うん」
 敦にしてみれば、酔い潰れた大の大人の姿など、自分の父親や親戚の親父くらいでしか見たことがない。それも年に数回程度で、歳の離れた兄でもいればまた違ったのだろうが、それでも昼間から酔い潰れている男たちというのはある意味新鮮な光景だった。しかし由成にとってはそれも日常茶飯事のことだったらしい。
「――そっか、だからか」
 ふいに、引っ掛かっていた「何か」が零れ落ちるように、さらりと溶けた。
「何が?」
 訝しげに由成が首を傾げる。何でもないと返して、敦は殊更ゆっくりと歩き出した。
 由成がどうして自分たちと馴染まないのか、その理由が判った気がしたのだ。
「変なこと聞いていい?」
「何?」
「おまえさ、――小学校、途中まで来てなかったってホント?」
 突然の敦の問いかけに、由成は幾分か戸惑った表情をしてみせたものの、やや沈黙を落としたあとコクリと頷いてみせた。
「行ってない。……何年生かな、――学校には四年生くらいから行き出した気がする。多分」
 あんまり覚えてないけど、そう由成は呟いた。
「そっか、」
 だからなのか。
「俺、それまで喋らなくて」
 続けて由成は、酷く静かな声音で、まるで独り言のように呟いた。
「本当に良く覚えてないから、どう言ったら良いのか判らないんだけど。――喋らなくて、だから多分学校にも行けなくて。喋れるようになって、恭さんと住み出してから学校には通い始めたから」
 だからなのかと、強く思う。
 同じ年代の子供たちと馴染む前に、彼は大人に馴染むことを覚えてしまった。
 だから、少しだけ異質なのだ。
「――ごめんな。変なこと聞いて」
 しかし導いたアンサーは、敦の胸をどうしてか痛ませた。
 由成は笑いながら、気にしてないよと首を振る。どんな噂話にも、どんな中傷にも彼は決して負けたりしない。それは強さからか、それとも敦が思っていた以上に、由成が大人だからか。
 それでもきっと、子供らしく泣くことだって、はしゃぐことだってあるのだろう。自分と同じように。
 ――友達に。
 なりたい、と。
 この奇妙に大人びた少年と歳相応に付き合えるような、普通の友達になりたい。
 唐突に、心から思った。


(――疲れるからね)
 敦は狡い自分にそう言い訳する。
(本気で怒るのは――)
 目の前で交わされるのは、楠田由成その人の話題だった。少し前に行なわれた学力テストで、由成が上位に食い込んでいたという話題を筆頭にして、また下世話な話が始まったのだ。もちろん由成がテストに向けて最大限の努力をしていたことを敦は知っているし、由成の努力に便乗して自分も頑張った。おかげで思ったより良い成績を残せたことは、この際黙っておく。
 何でも出来るヤツは厭味だとか、挙句には有り得もしないカンニングの疑惑まで出て来て、敦は閉口した。どうして他人の悪口でここまで話に花が咲くのだろう。本人たちは軽い気持ちで口にしていることでも、それを本人が聞けばどう思うか、そこまで考えが至らないのだ。幼いというのは罪悪だなんて生意気なことを思う。
(……そんなに大きな声で話したら)
 由成は窓際の自分の席で、窓に額を預けて目を閉じている。眠っているのだろうかと思う。だからか、クラスメイトの声は次第に遠慮がなくなっていった。
「そういや俺、アイツの兄貴見たよ。楠田と一緒だった」
「どこで? どんなんだった?」
「え、なんか悪そうな感じ。超眼付き悪いし、怖かった」
 それには些か同意したい。確かに由成の兄、恭一の顔付きはものすごく怖い。しかし後々、彼は眼付きが悪いだけで、普通に、いや恐らく普通以上に優しい人だと知っている敦は、そっと顔を顰めた。由成の家に、勉強合宿などと名付けて泊まりに行ったとき、恭一は仕事の合間を縫って、甲斐甲斐しく二人分の夜食を用意してくれたのだ。ただただ畏まるばかりの敦に、学生の本分は勉強だからと笑ってみせて。
「兄貴も色々噂あるしな。高校んときとか。相当評判悪かったみてェ」
「人殺してそうな顔してたしな」
 どっと笑い沸いた。だから誰も気付かなかった。由成が静かに席を立ったことに――敦以外は。
(――聞こえちまう)
 聞こえていたのだろう。当然だと思う。しかし由成は以前と同じように全く無関心な顔をして、教室の隅にあるゴミ箱へ向かって歩き出した。そこまで来て、大きな声で笑っていた少年たちはピタリと口を噤んだ。あからさますぎる沈黙は逆に痛いだけだった。
 由成はゴミ箱のビニールを新しく入れ換えると、ゴミで膨らんだ袋を片手に教室を出て行く。
 どうして自分は、こんな離れた場所にいるのだろう。もうこんな下らない話には、心底嫌気が差しているのに、どうしてこんな奴らに付き合っているのだろう。
「――あのさ、中島。あんまこーゆーこと言いたくねェんだけど」
 敦は立ち上がると、主に由成の情報を垂れ流していた友人の顔を一瞥した。
「あいつの事情判ってんならさ、ちょっとは気ィ使ってやれないの。おまえ俺なんかより付き合い長いんじゃん、楠田と。なら判るだろ」
 ――あいつが全然悪いやつじゃないって、それくらい判ってやれねえの。
 少しだけ悲しい気分で、そう言った。ほんの少し異質なだけで躍起になったように淘汰する、そうしなければ不安なのだ。もしも淘汰される対象が自分になったらと、心のどこかで怯えている。多分自分も、そうだった。
「――何言ってんだよ、工藤」
 中島は顔を歪め、まるで非難するかのような目で敦を睨み付けた。
「おまえ一度もそんなこと言ったことなかったじゃんか。何いまさらかばってんの、あいつのこと」
「もー、飽きた。だって俺楠田スキだもん」
 は、と間抜けな顔をした友人たちを取り残して、敦は由成を追うために教室を出た。由成は割合のんびり歩く性質だから、そう急がなくても追いつくことは出来るだろう。しかし敦は駆けた。恐らく由成はゴミ袋片手に焼却炉へ向かっているはずだ。
 予想通り、由成にすぐ追いつくことが出来た敦は、僅かに息を弾ませて、
「何してんの。ホームルーム、始まるぜ」
 尋ねると、由成はきょとんとした顔で敦を見返した。
「え。……日直だったの忘れてたから」
 これ捨てようと思って、そう告げながら由成はゴミ袋を掲げてみせた。その瞬間、身体中から力が抜ける。文字通り脱力して、敦はその場に座り込んでしまう。
「……そのためだけに教室から出てきたのかよ、おまえ」
「……急がないと先生が来るなって思って」
「だっておまえ、――聞こえてたんだろ」
 しゃがみ込んだまま尋ねると、由成は困ったような顔をして、それでも小さく頷いた。
「聞こえてたんなら、なんで怒んねんだよ――」
 てっきりゴミを言い訳にして、教室を飛び出してしまったのかと思っていた。しかし当の本人はけろりとした顔で、本当に焼却炉へ向かうためだけに歩いていたのだ。そうだ、こいつはこういうヤツだった。
「うん、でも本当のことだから。さすがに人は殺してないと思うけど……」
「違うよ、そーゆーことじゃなくて。恭一さん、全然怖くねーじゃん、イイひとじゃんか。おまえだって……なんで腹立たねーの」
 由成は困った表情のまま少しだけ笑って、敦の腕を掴んで立ち上がらせる。早く行こう、本当にホームルームが始まるから。そう促されて、敦もとぼとぼと歩き始める。
「見かけで判断するのもしょうがないかなって。本当は、恭さんのこと色々言われるのはあんまり好きじゃないけど。でも……あのひと本当に見かけ怖いから」
「や、そりゃそうだけど……」
 うっかり同意してしまった敦に笑って、辿り着いた焼却炉に由成はゴミ袋を投げ入れた。
「だから、俺が何言ったってしょうがないことだし。工藤が判ってくれてるだけで充分だと思うから」
 静かに告げた由成の言葉に、胸が詰まる気がした。
「――なんで怒んねーの」
「……だから」
「違う、違うくて。――なんでおまえは俺を怒んねーの」
 工藤が判ってくれてるだけで充分だと思うから。ただそれだけの言葉に泣き出しそうになっている自分がおかしかった。どうしてそんなに寂しい言葉を平然といえるのだろうと、悲しくなった。
「俺、判ってて、おまえも恭一さんも悪い人じゃねーって判ってて、それでも黙ってたのに、なんでおまえは怒んねーの」
 何も言わずに話を聞いていた。嫌気が差していたのも辟易していたのも本当のことなのに、それでも何も言わずに黙っていた。だからこんな自分は彼らと同罪だと思う。自分は何も語らないだけで、うそつきだ。
「――だって工藤、いつも俺を見てただろう」
 恭一だって由成だって、本当はやさしい人間だということを知っている。噂なんかじゃ測れない、あたたかいひとたちだと言うことを知っている。それを、大きな声で言えなかった。なのに、こんなうそつきな自分を、由成は黙って受け入れる。敦が由成以外の人間と一緒にいるとき、彼らがどんな話をしているか知らないはずはないのに、由成は責めたりしないのだ。
(――怒ってくれたら)
「中島が俺のことを話してるとき、工藤がいつも俺の方を見てたから、気遣ってくれてるんだなって――俺、それが嬉しかったよ」
(怒ってくれたら、良いのに)
「……工藤はやさしいから、何か言ったら中島が厭な気分になるんじゃないかって思ってたんだろう。だから、俺が怒ることなんて何もない」
 由成に怒って欲しかった。どうして何も言ってくれないのか、どうしてかばってくれないのか、自分たちは友達なのにと、そう責めてほしかった。もしも一度でも、彼がそうやって責めてくれたら。
 少しは罪悪感もなくなったのに。
「――ちくしょう」
 知らず、噛み締めるように呟いていた。誰に対して畜生なのか、何が畜生なのか、自分でも判断が出来ないまま。
「――俺は絶対、おまえの友達になるからな!」
 焼却炉にゴミを捨て終え、すたすたと教室へと向かって歩き始めていた由成の背中にそう叫ぶ。由成は足を止めて振り返ると、何を言い出したのか訳が判らない――そんな顔をして、呆然と敦を見詰めていた。
「……何?」
「しかもただの友達じゃねえからな! 親友の前に超が三つくらいつくヤツ!」
 由成は相変わらず唖然として、そして緩く首を傾げて呟いた。
「――超超超親友?」
 そう言ってから由成は小さく笑みを作った。僅かな笑みがそのうち大きくなって、おかしくて堪らないと言うように声を上げて笑い出す。
「――面白いよな、工藤は」
「くっそ、笑ってんなよ。マジだからな、覚悟しとけよ」
「うん」
 恐らくこれが由成の「爆笑」なのだろう。それにしては控えめだったにしても、こいつでも声を立てて大笑いすることがあるのかと新鮮な気持ちになる。
「だから、早く教室に帰ろう」
「あ?」
「先生、多分もう来てる」
 由成のその言葉に、二人は顔を見合わせるとほぼ同時に教室まで全速力で駆け出す。少し追い抜かれれば負けるものかと追い抜き返す、それを繰り返した短い距離の間中、胸がくすぐったい気がしていた。




 三年という月日は、短かったように感じる。誰かが、中学に上がった頃から時の流れが早くなるのだと言っていたが、それは真実だと敦はしみじみ思っていた。
 卒業式の合唱というものは厄介だ。あれはまさに、生徒教員父兄を泣かせるためだけに存在する。例に漏れず歌いながら敦も思わず号泣してしまい、由成にそっと笑われながら慰められた。
 推薦枠を何とかもぎ取った自分たちが高校合格を知らされたのは随分前で、その分他の同級生たちに比べれば、のんびりと迎えた卒業式だった。しかも進路を決めてしまってから知った話だったが、由成とは希望する高校が同じだったのだ。これから三年間同じ学校に通うことが判っているのだから、別れも何もあったものじゃない。
「敦、これからどうする?」
「ン、別に予定もねえもん。帰ろっかな。おまえどーすんの」
 汚れのひとつもない卒業証書を片手に、校門までの最後の道のりを歩く。在校生が作った盛大なアーチを潜るのが、どことなく照れ臭かった。
「恭さんがこれからご飯食べに連れてってくれるんだけど、敦も誘ったらどうかって言ってて」
「俺も? いいの、ソレついてっても」
「うん、敦に予定がなかったら、だけど。暇ならおいでよ」
 いや全然暇だけどさと口篭もりながら、それでも敦は迷った。由成が義兄の恭一に向ける想いに、この三年間で何となく気付かされてしまった身としては、ここは遠慮するべきなのかもしれない。
「俺の好きな中華の店なんだ。美味しいよ」
「――…エビチリ?」
「エビチリ」
「行く」
 他愛ない会話をかわして笑い合う、その時間の心地好さは三年経っても変わらなかった。自分では超がいっこくらいつく親友に格上げされたのではないかと思うのだが、果たして由成がそう思っているのかどうかは定かではない。
 親密さが増した分、数え切れないくらいの喧嘩も繰り返した。深く付き合ってみれば由成は案外頑固で、一度拗ねてしまうと手に負えない節がある。そのくせ敦が気まずさから無視したりしてみると、決まって寂しそうなオーラをそれとなく醸し出すものだから、更に手に負えない。
 自分が由成にとって親友格であるのかどうかは判らないが、ただひとつだけ判ったことがある。今なら自信を持って言えることが、ひとつだけ。
「三年間お疲れ様」
 おどけて告げた言葉に、由成が小さく笑った。
「うん。――これからもよろしく」
 そんな風に。
 由成が年齢相応に喧嘩したり、笑ったり、頼ったり、励まし合ったりするのは、間違いなく自分なのだ。同年代の中で由成相手に喧嘩が出来るのは、恐らく自分だけだろうと敦は自負している。そして同じように、敦が誰よりも頼って心を許せる一番の友人は、やはり由成だった。由成の穏やかな雰囲気は、何よりも自分を安心させる。
 自分が与えられていたように、何かを由成に返せただろうか。
 自分が思う楽しさや喜びを、同じように由成は感じてくれていただろうか。
(――もし、そんなふうにおまえが思ってなくても)
「恭さん、外で待ってるから。行こう」
「――……うん」
 咄嗟に返事を返し遅れた敦に、由成は怪訝そうに首を傾げた。
「何?」
「や、何でもねえ」
 笑って首を振ってから、早く行こうぜと急かすように肩を叩く。暫く訝しんでいた由成も、校門付近に佇んでいる恭一の姿を見つけるなり、足早に駆けて行った。
 その少し後ろから由成を追い掛けながら、敦は決めた。――いつか必ず、そのときが来たら。
(俺が言うから)
(必ず言うから)




「――こんな風に長い付き合いになるとは思ってなかったけど」
 記憶の中の由成と、目の前で微笑む由成の姿がぼんやりと重なる。あの頃に比べれば、自分も彼も顔付きや体格は随分変わっているだろう。お互い声変わりも終えた。随分と背も高くなった。変化し成長していった日々を残らず一緒に過ごした。なのに、何ひとつ変わらないのだ。
「あのとき敦が追い掛けてくれて、俺、本当に嬉しくて――」
 どこかはにかむように、畏まって告げる彼は、何ひとつ変わらないのだ。――背中を追い掛けたあの日。そして三年前、中学の卒業式に鮮やかな造花が飾られたアーチで肩を並べて歩いた。あのときから何ひとつ。
「……敦に会えてよかった」
 そしてこれからも変わらないのだろう。これから四年間、同じ大学に進むことが決まった今そう思う。きっと四年後、共に大学卒業を迎えたそのときでさえ、自分は同じことを思うのだ。変わらない。彼はずっと、変わらない。
「ばか、何言ってんだよ由成。そんな改まって」
 遠くで合格を喜ぶ学生の歓声が聞こえる。泣きたいくらいに嬉しいのは自分も同じだった。けれど、その喜びは大学に合格したと言うそれだけの事実じゃない。
 三年前、卒業式の後、恭一の車の中で口ずさんだ歌がリフレインする。いつか必ず。そう心に決めていた。あんな照れ臭い台詞は、一生に一度しかいえない。それでもいつか、必ず彼に告げようと思っていた。
(――出会えた幸せ)
「それ、俺が言おうと思ってたのに――」
 君に会えてよかった。会えて、本当に嬉しかった。
 そう繰り返し心の中で告げながら、俯いて、敦はほんの少しだけ泣いた。
 由成の言葉はいつだって真っ直ぐで真摯で、ひどく心を揺さぶるから。
 どんなにうそつきな自分でも、彼にだけは嘘なんか吐けやしない。