灯 火 .



「恭さん、あれ、」
 細い指先が示した方向に揺らめくささやかな光が見えた。上下に、時には左右に揺れる小さな灯り。
「なんだおまえ、知らねェのか――」
 彼は小さく驚いたように目を丸め、直ぐに蛍だよと教えてくれた。
「――今まで見たことなかったか」
「うん。もっと小さくて……煙草の火に――似ているのかと思ってた」
 名前しか知らなかった青白い小さな光は、由成の頬を通り過ぎる。気が付けば、目を凝らさなくとも蛍の光は周囲に散らばるように輝いていた。
「煙草の火なんかよりも綺麗だろう」
 色が違う。
 大きさが違う。
 力強さが違う。
 たどたどしい言葉を精一杯告げると、恭一は暗闇の中でやさしく笑っていた。
「もっと川に近付けばたくさん見れるぞ。行くか、」
 頷くと、暗いからと手を引かれ、川のせせらぎが聞こえる方角へと連れて行かれる。
 一歩進む毎に光の数が確実に増えていくように感じた。
 無数の光が晧晧と輝いている。時には弱く時には強く。何かの合図のように青白い光は輝きを放つ。
 小さな星だと思った。
 命の光だと。
 そう言うと、恭一は煙草を咥えた唇からふっと煙を吐き出して、愉快そうに笑った。
「詩人だな、ヨシ」
 どうやら自分の表現を気に入ったらしい。粗忽に見えて案外趣のあるものを好むこの人は、「命のひかり、」と由成の言葉を繰り返して小さく笑んだ。
 蛍の光とは違う、オレンジ色の小さな小さな火が、恭一の声に合わせて揺れている。
 由成は煙草の光も嫌いではない。
 煙草の味なんて少しも判らないけれど、この人が放つ小さな小さな光だと思えば、美しく見えた。
 恭一は短くなった煙草を道端に投げ捨てようとして、一瞬動きを止める。少しの空白の後、それを掌で握り込むと、火の消えた吸殻をポケットへと忍ばせた。
「恭さん、熱くないの」
 ぎょっとして尋ねると、恭一は至って普通の顔で「慣れ、」と言った。慣れれば煙草の火も熱く感じなくなるということだろうか。
 やっぱり大人は良く判らない。
 首を傾いだ由成に、恭一は苦笑を織り交ぜて笑う。
「特技なんだよ。皆が皆出来るってわけじゃねェ、普通は火傷するからな。おまえは真似するなよ。――ここに吸殻捨てて帰るわけにも行かねェだろうが」
 恭一はぶっきらぼうな声で言い捨てると、由成の手を引いた。
「……もう帰るの、」
 瞬間、思わずここから離れ難い気持ちが勝って、由成は引かれる手の力に抗った。恭一はわざわざ車を小一時間飛ばしてここに連れてきてくれたのだ。それを有り難いとは思うものの、やはり数分で帰ってしまうのは勿体無い気がする。
 もうこの光は由成と恭一が住む土地では見ることが出来ない。恭一が幼かった頃には数が少ないながらも姿を見せていたらしいが、今はその名残もなかった。水が汚れすぎてるんだろ、と車の中で詰まらなそうに恭一が言っていた。
「おまえな、俺はまだ仕事が残ってんだぞ――」
 恭一の声は微かに苦笑を含んでいる。
「……うん」
 ごめんなさい、そう呟いた由成は肩を落として、手を引かれるまま歩き出した。
 唐突に握っていた手を離される。
「十分だけだからな。呼んだら戻って来い」
「――良いの」
 離された手を所在なく握り込んだり開かせたりしながら由成は尋ねる。
 その仕草に恭一は笑って、ポケットから煙草の箱を引き出した。
「俺の気分転換に付き合わせちまったからな。少しくらいは我侭聞いてやる。あんまり川に近付くなよ」
 恭一の言葉に素直に頷いた由成は、再び川へ向かって歩き出した。暗闇に目は慣れたとは言え、それでも言われた通り川に近付きすぎないように注意しながら光の線を追う。
 昔から、暗闇の中で輝く光が好きだった。昼間の太陽の光とは違う輝きが好きで好きでたまらない。自分が夏の夜店を好むのも、また夜景を好むのもその所為かもしれなかった。
 振り返ると、新しい煙草を咥えた恭一の姿がぼんやり見える。
 目を凝らせば彼の姿を容易に捕えることは出来た。それでも直ぐに彼のいる場所を知ることが出来るのは、オレンジ色の小さな火が晧晧と輝いていたからだ。
 小さな小さな灯り。
「――恭さん、」
 なんて頼りないものだろう。そう思うと突然恐くなって、由成は細い声で恭一を呼んだ。
「恭さん、帰ろう」
「なんだ。飽きたか」
 煙草の灯りを頼りに恭一の方へと戻る。由成を迎えた恭一は、歩幅を緩めてひどくゆっくりと歩き出した。由成の歩みに合わせてくれているのだろう。こうでもして貰わなければ、足の長さが違う上にのんびり歩く性質の由成は、恭一にとても追いつかない。
「――あとどれくらい」
 暗闇に慣れた眼で背中を見つめていると、恭一が小さな声で呟いた。
「あとどれくらい、蛍を見れるんだろうなあ……」
「そんなに数、減ってるの」
「多分。ここだって昔はもっと数がいた」
 この人の「昔」というのは一体何年前の話だろう。まさか何十年も前の話ではあるまい。ここ数年で恭一の目にも明らかなくらい数が減っているのだとしたら、確かにそれは少しだけ切ない。
 車へと向かう獣道の最中に、こっちの水は甘い、と恭一が唄う。
「――それ何、」
 見上げて尋ねると、恭一は驚いたような顔をして由成を見返した。
「これも知らねェのか? 蛍の歌だ」
「……スーパーが閉店するときに流れてる」
「違う」
 あっちは蛍雪だと言われても、蛍雪の意味が良く判らない。
「こっちの水は甘い、あっちの水は苦いって言って蛍を誘う歌だよ」
「……蛍に味が判るのか、」
「…………そうだな。そこは人間には判んねェよな」
 恭一はおかしそうに笑って、由成の頭を押さえ付けるようにして髪を撫でた。
「苦いも甘いも、蛍になってみなきゃ判んねェな」
「なれるの?」
「なれるか馬鹿」
 煙草の火はまだ恭一の口元で揺れている。
 小さな灯かりはまだ当分消えはしないだろう。
 そのことが、なぜかひどく由成を安心させた。


 あなたは覚えているだろうか。
 甘い甘いと誘った、遠くに蛍の灯かりが見えた。
 いつかはなくなっていくんだろうと、寂しそうに言った貴方の口元で、オレンジ色の灯かりが動いていた。
 あれは、命の灯だと、俺は言った。





「――なんでそんなに機嫌良いの」
 帰宅して真っ直ぐにリビングに向かった由成は、そこにいるはずの恭一の姿を見付けることが出来ず、縁側へと足を伸ばした。猛暑の続く八月でも、縁側の戸を思い切り開け放って風通しを良くしてやれば、夜は多少涼しくなる。過剰な冷房を嫌う恭一は、この時期好んで縁側に座り込んでいるのだ。
 暑がりのくせに妙に古風なところのある恭一は、由成の予想を裏切らず縁側に腰掛けていた。片方の手にはグラスが握られている。機嫌が良いのは程好く回ったアルコールのせいか。
 由成を見上げて、恭一は笑って「おかえり、」と言った。
「買って来たか」
「買って来たよ。花火とビールで良いんだろう」
「ご苦労さん」
 バイトが終わる頃合を見計らって由成の携帯を鳴らしたのは、「酒、花火、ファミリーセット」という短いメールだった。送り主は勿論恭一だ。要はこれを買って来いと言うことなのだろうと見当を付けて、疲れた身体を引き摺ってコンビニに寄ったのだ。哀しいかなこの身長では由成を未成年だと疑うこともしてくれず、店員は素直にアルコールを売ってくれた。
「――随分涼しそうだね」
 自分が汗水流して働いている間に、この人はのんびりと寛いでいたのかと思うと少し口惜しくなる。
「それ、父さんがくれた着物?」
「ああ、おまえの分もあるぜ」
 恭一が着ているのは、いつものだらしないよれよれのシャツではなかった。
 濃紺の品が良い夏着物は風通しが良さそうで、大きめに開いた胸元がひどく涼しげだ。
 父の庸介が、恭一と由成の二人分の着物を用意してくれていると聞いたのはつい先日のことだ。聞けば着物を新しく仕立てることになり、折角だから息子二人にも贈ってやろうということになったらしい。夏着物に加え、袴や羽織りさえも用意しているというのだから、今度実家に帰ったときはそれらを着ることになりそうだ。
「着換えるか?」
「いいよ。……着換えるんなら先に風呂に入りたい」
 カラカラとサンダルを揺らしながら尋ねた恭一に、由成は疲れた顔で首を振った。とにかく暑い。風通しの良さそうな恭一の着物が羨ましくはあるが、その前に汗を流してしまいたかった。着物というものは、いまいち由成には馴染みがない。逆に恭一は和服に着慣れている感がある。どうしてと尋ねると、恭一は懐かしそうに目を眇めて笑った。
「お袋の親父――俺のじいちゃんだな。そいつが着物の仕立て屋だったらしい。だから昔ッから甚平だの浴衣だの単衣だのは見慣れてたんだ。仕立て屋はとうに廃業しちまったが、それでもお袋が着物好きで」
 昔は家着みたいなもんだったんだ――グラスに僅か残ったアルコールを飲み干しながら、恭一は告げた。
「覚えてねェか? おまえも小せェころは家で着せられてたんだぜ。楠田は和装が多いから」
 その頃の記憶はあまり残っていない。覚えていないと首を振ると、恭一は「そうだろうな、」と可笑しそうに笑った。
「おまえはあんまり覚えてないんだったな。――覚えてたって、楽しい記憶じゃねェか」
「恭さんと夜店に行ったときに着せられたのは覚えてるよ」
 着物を着た記憶など、恭一のお下がりを着せられて夏祭りに出向いたのが最後だ。
 そう告げると恭一は声を上げて笑った。今日は本当に機嫌が良いようだ。何が楽しいのかは知らないが、やけにはしゃいでいる感がする。
 久し振りに腕を通した着物が嬉しかったのかもしれないと、ふと思う。この家で着物を過ごした過去があるのなら、それを思い出して懐かしくなっていても不思議ではない。恭一にとってこの家は特別だ。
「それじゃあ始めるか」
 恭一は、由成からコンビニのビニール袋を奪い取った。煙草の火付けに使うライターを手繰り寄せながら、袋を開けて花火を取り出す。同時に缶ビールを開けることも忘れない。もう結構の量を呑んでいるようなのに、まだ呑むのかと呆れながら、由成は隣に腰を落ち着かせた。
「――なんで急に花火?」
「おまえ帰って来るのが遅ェんだよ」
 わざわざ遠回りをしてまでコンビニに寄って帰ったというのに、この言葉では報われない。
「もう終わっちまった」
 思わず顔を顰めた由成に、早速取り出した手持ち花火に火を点けながら、独り言のように恭一が答える。
 何が、と尋ねる前に、鮮やかに散った火花が由成の言葉を奪った。
 恭一の指先が握った棒の先に、オレンジ色の眩い光が音を立てて燃えている。視線を奪われたのは一瞬で、微かな火薬の匂いを嗅ぎながら由成は改めて恭一の顔を見た。
「――何が?」
「花火大会」
 パチパチと爆ぜる花火は直ぐに終わってしまう。燃え尽きた滓をぽいと庭先に投げ捨てると、恭一は再び袋の中から新しい花火を探った。
「ああ……」
 今日だったのか。そういえばバイト先でも打ち上がる花火の音が薄らと聞こえていた気がする。
 まるで眼中になかったが、今日は確かこの辺りでは一番最初に行なわれる花火大会の日だったのだ。この家の縁側からは、割合綺麗に花火を見ることが出来る。花火大会の夜は出掛けもせず、決まってこの縁側で寛ぐのが恒例行事だった。
「……忘れてた」
「だろうな。今年も綺麗に見えたぜ、残念だったな」
 花火の打ち上がる夜空の下、仕上がったばかりの着物を着たこの人は、花火を眺めながらアルコール片手に涼んでいたのだろう。何て贅沢だとそっと笑いながら、今はもう何の光も見えない空へと由成は視線を投げた。
 のんびりと夜空に咲く炎の花を二人で眺めることなど、毎年繰り返してきた何でもない出来事なのに、去年の夏は一緒に花火を見ることが出来なかった。花火を見るどころか、自分はこの人の傍にいることを許されていなかったのだ。
 どこか切ない気持ちを振り切りながら、由成も同じように花火に手を伸ばす。
「花火、ひとりで見てたのか、」
 火を分けてもらいながら尋ねると、恭一はすぐに首を振る。
「いや、さっきまで雄高が来て――」
 予想通りの答えだ。
「雄高さん、もしかして飲んだの? 飲酒運転は……」
「アイツは呑んでねェよ。そもそも呑んだら寝こけて朝まで起きやしねェだろう、アイツは」
 指先で花火をくるりと回し、火の残像で円を描きながら恭一が眉を顰める。
 量の問題ではない。飲酒運転をして帰るくらいなら、もういっそ泊まって行ってくれた方がマシだ。
「二人でファミリーパックは多かったか」
 中々量の減らない花火を一瞥して、恭一が苦く呟く。
「一番小さいサイズを買って来たんだけど、やっぱり多かったね。……無理に今日中に終わらせなくても良いだろう、明日もあるんだから」
「半端に残っちまったら締めって感じがしねェんだよな。ラストの線香花火が」
「――じゃあ線香花火も半分残して、明日用に」
 注文の多い人だ。
 手にした花火を終えると、由成は袋の中から取り出した線香花火を二分する。明日と言わずとも、今夏中にあと一度くらいは花火を楽しむ機会はあるだろう。とりあえずの線香花火は確保した。
「音くらいは聞こえたか」
「うん。そういえば――お客さんも、浴衣を着てる人がいたかな」
 いよいよ夏だという気がしてくる。気温は既に平気で猛暑並の温度を指しているが、浴衣を着た女性と擦れ違い、空に打ち上がる花火の音を聞けば、胸に迫るものが違って感じた。夏だと、どこか嬉しく思う。夏には嬉しい記憶が多い。
「恭さん、覚えてるか」
 新しく火をつけた花火が、パチパチと手元で弾けた。長く見つめていれば、目に沁みて痛くなるような強い炎だ。太陽の炎に似ているなと、ぼんやり思う。
「蛍を見に連れて行ってくれた」
「――幾つのときだ。おまえがまだ小学生だった頃の話だろ」
 薄く笑って頷いた恭一は、柱に背を預けると近くに放り投げていた煙草の箱を、指で手繰り寄せる。
「夏祭りのときもそうだったけど、あのときもあんた仕事が煮詰まってて、気分転換にって俺が引っ張りだされたんだ」
「……悪かったよ」
 口を尖らせた恭一は、花火にはもう飽きてしまったらしく、煙草の煙を燻らせながら、由成の手元で燃える花火を眺めている。
 拗ねてしまったような恭一の声に、由成はおかしそうに笑った。
「嬉しかったよ。夏休みになったらあんたは必ず、言い訳をしてでも、俺をどこかに連れて行ってくれた」
「あんな近場で嬉しいも何もねェだろうよ。夏休みの出先にしちゃあ、手軽すぎる」
「いいんだ。嬉しかった。――綺麗なものをたくさん見れた」
 夏祭りの夜店の灯りも蛍の火も、夏の海の眩しさも、どれも鮮やかに甦る記憶だ。距離など関係はなく、恭一はそのときそのとき最大限に綺麗なものを、由成に教えてくれた。それを感謝せずに、どうしろと言うのだろう。
「俺は煙草の煙は好きじゃないけど、煙草の火は好きだ」
 段々と弾ける音が小さくなって、花火が燃え尽きる。燃え滓が完全に消えたのを確認してから地面に落とす。もう花火は終いにしようと振り返れば、恭一がくつくつと声を殺して笑っているのが見えた。
「――相変わらず訳判ンねェな、おまえの言うことは」
 口元で、小さな灯りが揺れていた。
「好きだよ」
 オレンジ色の小さなそれは、それでも健気な光を放って周囲を僅かに映し出している。綺麗だ、と思う。
「それはあんたの火だ」
 花火の炎よりも、蛍の光よりも、何よりも自分を安堵させる。どんな光よりも鮮やかに自分を導く。
「――だから、好きなんだ」
 何年か前に思った通りの言葉をそのまま告げると、恭一はやはり楽しそうに笑って、
「命の灯か」
 そう呟いた。
「そんな大層なもんじゃねェだろうよ。――俺以上に物書きに向いてるんじゃないのか、おまえ。詩人になれるぞ」
 茶化してしまった恭一に苦笑しながらも、由成は地面に散らばった花火の燃え滓を一箇所に集めると、改めて恭一の隣に腰を降ろす。涼しい風が頬を撫でた。きもちがいい、そう思った由成の胸のうちを読むように、
「――いい夜だ」
 空を見上げて、恭一が薄く笑った。
 そうだねと頷いて、由成はまた訪れる夏に思いを馳せた。夜は穏やかなくせに昼間は気が狂いそうなくらいの輝きで照る太陽に、また手を焼かされる。厄介な時期だと思うのに、どうしてか夏が嫌いではない。それもこれも、やさしい思い出たちのおかげだろうか。
 夏だなあ、そうのんびり呟くと、何を今更と笑われる。仕方がない。こうやってしみじみ季節を感じることなんて、忙しい日々の中ではそう多くはないのだから。
 そう思った瞬間、何かを唐突に理解した気がして、由成はああ、と思う。
「恭さん、」
「なんだ」
 片手に缶ビールを持った恭一が、プルを起こそうと手をかけながら面倒臭そうに返した。
「寂しかったのか」
 プルに伸びた指先がピクリと止まり、恭一はそのまま由成を鋭く睨む。何言ってやがると、恭一の心情をそのまま描いた不機嫌な顔にも、しかし由成は怯まない。
「あんた、寂しかったのか。俺がいないのが」
 思えば夏休みに入ったというのに、由成は学校とバイト先を行き来する日々だった。朝から夕方まで学校でラケットを握り、夕方からはバイトに赴くのが最近の定期的なスケジュールだった。それは部員数が少ないが故に引き受けざるを得なかった副部長という名の責任のためでもあり、また最近部活が心から楽しくなってきたことも事実だ。そればかりか、始めたばかりのバイトが人出不足のため、ほとんど毎日店に狩り出されている。だから、ここ数日は、恭一とまともに口をきいた覚えがなかった。
 それでも恭一が締め切りに追われている間は、例え由成の時間が空いていても、三日四日顔を合わせないことなど珍しくはない。だから思いつくことすらしなかった、恭一が寂しがっているかもしれない、事実に近いその予想を。
 恭一は起こしかけたプルを一旦戻し、徐に缶を上下に振ったかと思うと、いきなり由成の顔面めがけてプルを起こした。
「恭さん、何し……」
 問いかけは最後まで口にすることができず、シェイクされた泡が勢いよく顔面に吹きかけらる。閉じ遅れた瞼の裏に炭酸が沁みて少し痛い。
「――……」
「生意気なこと言うからだ」
 呆れて声も出ない由成に、ばぁか、と面白がるように罵る恭一の声が降った。まったくこのひとのすることは、いちいち子供染みていてよくない。すなわちそれは、図星だったということかと納得して、由成は濡れた顔を胸元からたくし上げたシャツで拭いた。
「……ビール臭い」
「いい匂いになれてよかったな。――あァ、一本無駄にしちまった」
 噴き出た泡に奪われて、半分以上がなくなってしまった缶を左右に揺らし、それでも恭一は未練がましくそれに口をつけた。どこをどうしてもビールの匂いが染み付いてしまった自分の身体に眉を寄せながら、恭一の上下する喉仏を、ぼんやりと眺める。ビールはとてもうまい飲み物とは思えないが、恭一がビールを煽っている姿を見ていると、それがまことに旨そうなものに思えてくるから不思議だ。
「自分で無駄にしたんだろう」
 文句を言われる筋合いはないと、悔し紛れにまだ恭一の指の間で燃えている煙草を奪う。おい、と制止する恭一の声を無視して、それを咥えてみても、何の味もしない。
「肺に入れなきゃ意味ねェんだよ」
 そんなことをしたら噎せそうだ、と直感的に思う。自分には無用のものだ。煙草の火の色も匂いも嫌いではないが、煙だけは好きになれそうにない。既にだいぶ短くなってしまったそれを地面に放り投げても、恭一は何も言わなかった。
 初めて唇に挟んだ異物の名残が、何となくまだ残っているような気がして、由成は無意識に唇を撫でた。別に咀嚼したわけでも飲み込んだわけでもないのに、独特の感覚が舌の上に残っている。これは何だろうと考えて、辿り着いた答えに納得した。
「恭さんの味がする」
 煙草の味は、恭一の唇の味だ。
 そうかなるほど、道理で馴染みの深い味のような気がしたと得心のいった由成を余所に、恭一は飲み込んだはずのビールにひどく噎せると、何ともいえない顔をして由成を凝視した。
「お、まえ、何言って……」
 だから煙草が、唇の味が、と答えかけて、恭一のあまりに崩れた表情に由成は笑う。そんなに動揺しなくてもいいのに。
「……俺は今、ビールの味かな」
 噎せた唇がビールに濡れて、ああ綺麗だと思う。間抜けな顔を晒していても、自分の目に映るこのひとはやっぱり綺麗だ。
「確かめてみる?」
「……風呂入って流して来い」
 恭一はたったそれだけの言葉を口にすると、ふいっと顔を背けてしまう。長めの後ろ髪に見え隠れするうなじがたまたま目について、由成はどうしようもなく、胸の内側に火が点いたのを自覚した。
 日焼けのしない肌が赤く染まって見えるのは、さっきの痛いくらいに烈しい火花の名残だろうか、それとも酔いのせいだろうか。――それとも、
「恭さん、」
 恭一は聞こえない振りをして返事を返さない。アルコールが回って暑くなってきたのか、胸元を開いてパタパタと風を送っている。それがまた、よくない。
 暑い日には全裸に近い格好で家の中を歩き回ってくれるのもどうかと思うが、これはこれで危うい色気染みたものが漂っている気がして、非常に困る。
 思い出してしまった唇の味、上下した喉仏、開いた胸元、いつもよりも潤んで見える白い肌。それだけで、この身体は容易く火が点く。
 今ここで抱き締めたいけれど、だめだろうか。俺今汗臭いからなあ、ビール臭いからなあ――一瞬だけ迷う。
「恭さん、――キスしてもいい?」
 だからせめてそれだけはと尋ねると、いきなり振り返った顔がぶつかるようにして唇を重ねてくる。痛いくらいに押しつけられた唇は、ビールと煙草の味がして、恭一らしいぶっきらぼうなキスに、由成はやはり笑った。
「俺、風呂入って来ようか」
「……待たせるんじゃねェよ」
 ちくしょうと、罵るように告げた小さな声が、自分と同じように濡れていた気がする。だからそれを免罪符にして、由成は恭一の身体をそっと引き寄せた。


 止まりそうにない衝動の中で、あの人の肌があんまり熱くて、だけど熱いのは、多分、自分も同じなのだろう。
 一度火が点けば到底消えそうにはない炎が、ここにある。
 この火が今、あなたにも燃え移っているだろうか。
 あの人は、好きなだけ燃やし尽くせと、笑った。




::TOP






キリバンおしかったねリクエスト、「和服の恭一」でございました。


ありがとうございました!