更におとなのひとたち-時は巡る- 金魚番外編


「――まあ珍しい」
 随分とやつれた顔でその子が家の扉を叩いたのは、恐らく数年ぶりだった。
 最後に顔を見せに来たのはいつだったかしら、のんびり構えていた陽子の耳に、ひどくか細く、またひどく弱々しい声が届く。
「おばさん、なんか食わせてくれ」
 出迎えた陽子に向けて、恭一は弱々しいながらも冗談交じりの笑顔で笑っていた。
 
 
「いきなり「なんか食わせてくれ」、じゃないでしょう」
「うっかりしてたんだ。ここ暫く締め切りに追われてて、気が付いたら冷蔵庫空っぽだった」
 他に何か言うことはないの、咎めるように続けると、恭一はけろりとした表情で当然のことのように答えた。
 余っていた冷や飯と冷蔵庫に入っている有り合わせの野菜で、取り敢えず出してやったのは具沢山のおじやとコンソメスープだ。おじやを見て、恭一は「病人じゃねェぞ、」と顔を顰めて見せたが、数日ろくなものを食っていないと言うのだから、いきなり胃に脂っこいものでも詰め込んでは良くないだろう。嫌がられるのは承知の上だ。陽子なりに考えた胃に優しいメニューなのだから仕方ない。
「冷蔵庫が空っぽになるまで仕事に夢中になるのは恭ちゃんの悪いくせよ。良い歳して、そんなくせそろそろ直しなさい」
「くせだの何だの言ってる場合じゃねェっての。こっちは生活かかってんだから」
 しかし文句を言いながらも口にした器の中身が空になる頃には、色の悪かった頬もすっかり赤味が差して、顔付きは随分和らいでいた。
「おかわりは?」
「要る」
 遠慮なく差し出された器を受け取って、たっぷりおじやを注いでからそれを返してやると、恭一は邪気のない顔で笑った。
「人に作ってもらったメシは旨いよな」
「由成君がいないからって不精してるからよ」
 恭一と同居していた義弟の由成が、先月長く暮らしていた馴染み深い家を出て、実家である楠田家に戻ったことは長男から聞いている。そのときに薄々予感はしていたものの、見事予想通りになってしまった事態に、陽子は憂いを帯びた溜息を落とした。
 全くこの子は成長しない。
「自分のためにはご飯作らないっていうのは、一番よくないことよ」
「しょうがねェだろ、普段出歩かねんだからうっかり買い物忘れても。買い物は由成担当だったんだから。雄高みてェに独り暮らしでマメに飯作ってるヤツの方が珍しいくらいだって」
「そんなの言い訳になってないわよ。栄養失調で倒れるなんてことだけは止めて頂戴ね。そんなことになったらおばさん、椛さんに顔向け出来ないわ」
「勘弁してくれよ」
 恭一は笑いながら匙を口に運ぶ。いつ見ても良い食いっぷりだ。決して小食ではないこの子が数日も食事を摂らない状況など中々想像出来ないが、何でもかんでも手を抜くということを恭一が知らないのは昔からだ。
「お仕事、そんなに大変なの?」
「雄高ほどじゃねェよ。大変なのは締め切り前だけだ。しかも自業自得の節があるからな」
「判ってるんならきちんとなさい」
「判ってるって」
 判っていると軽い口調で言ってのける辺りが信用ならないのがこの子だと、陽子は再び溜息を吐く。それから黙々と飯にかぶりついていた恭一は、三杯目のお椀を空にしたところで漸く匙を置いた。
「ごっそさん」
「もういいの?」
「もう腹いっぱいだって。おばさん、ありがとな」
「恭ちゃん、待ちなさい」
 一度軽く頭を下げ、そのまま帰ろうしているのか腰を上げかけた恭一を押し留め、陽子はリビングのソファを指差した。
「少し寝ていきなさい。眼の下の隈、すごいことになってるわよ」
「……そんなにか?」
「病人かと思っちゃったわ。どれくらい寝てないの」
 どれくらいだったか、と曖昧に首を傾げ、指折り数える恭一の姿に目眩さえ感じる。
「……いいから寝ていきなさい。あとでちゃんと起こしてあげるから」
 寝不足のまま帰らせて、事故でも起こされては堪らない。穏やかで、しかし有無を言わせない陽子の言葉に、恭一は渋々と言ったように頷いた。

 押さえ込むようにして横にさせた恭一は、すぐに静かな寝息を聞かせる。暫くは小声で文句を言っていたくせに、瞬時に寝入ってしまった寝顔だけは穏やかで、陽子は恭一を起こさないようにそっとタオルケットを身体に被せた。
 大きくなったものだと、ぼんやり思う。
 日々子どもたちの成長を見つめていた自分には実感として感じられなくても、こうしてふと流れた時間を思い返せば、もう十年も二十年も経ったのかと驚愕すらしてしまった。自分も歳を取るはずだ。
 椛を喪ったばかりの頃、恭一の悲しみと絶望は誰かが拭ってやれるようなものではなく、陽子はただひとりの傍観者として、ちいさなその肩を眺めていた。
 ――恭ちゃん、あなたにそっくりよ。
 葬儀のその日にも、真新しい高校の制服に身を包んだ勝気なあの子は、真っ直ぐに顔を上げて、母の死を悼む客人に丁寧に頭を下げていた。
 下ろし立ての制服を、敢えて恭一が高校入学前に着て見せたのは、母にその制服姿を見せたかったという悲痛な願い故だろう。
 その想いに陽子はどれだけ胸を打たれただろう。そして同時に、椛がどれほど無念だっただろうかと、もはや知ることは出来ないその人の想いに、涙を流した。
 陽子が椛と出会ったのは、恭一や長男の雄高が丁度保育園に入園した頃で、互いの息子たちはまだおむつをしていた。
 それが今では三十路近い息子たちが付かず離れずで友人関係を保っているわ、今でも飯をたかりに来るわで、人生とは判らないものだとしみじみ思う。
 椛の息子である恭一が、自分を頼ってくるのは嬉しかった。
 恭一にとって母親が大切であるように、自分にとっても彼女は大切な友人だったのだ。
 ――そう、妹のようだったあの子は。
 本当に、大切だった。
 
 
 
 息子と同い年の「恭ちゃん」という男の子が、どうやら息子を事の他気に入っているらしい、ということは、帳面に記された保育士の文から知ることはできていた。陽子の腕に抱かれた息子が、まだ園に残る友達に手を振りながらたどたどしい言葉遣いで、「きょう」と繰り返していたから、仲は良いのだろうと思う。
 しかし息子が手を振る方向、集った子供たちのどの子が「恭ちゃん」なのかは、残念ながら知る由はなかった。
「梶原さん、すみません」
 息子を連れて園を出ようとしていた陽子を、保母のひとりが引き留めた。今春からこの保育園に勤め出したばかりの新人保育士は、丁寧に頭を下げる。
「どうしたんですか?」
「雄高くん、今日おともだちに噛み付かれちゃって――私が目を離したせいです。すみません」
 律儀な保育士は、そう言って深々と頭を下げる。
 陽子はまあ、と驚き、しかし直ぐに首を振った。
「そういうこともあるんでしょうね。喧嘩しちゃったのかしら」
 ねえ雄高――そう言って息子を伺いみると、幼いながらも言葉を理解しているらしい雄高は、どことなく憮然とした表情をしていた。
「喧嘩とか、そういうのじゃなくて。お母さんに聞いてたんですけど、雄高くんに噛みついちゃった子って噛みぐせがあるみたいなんです。だから気を付けてたんですけど――」
「あらあら。大変」
 噛みぐせがある子供は少なくない。そういう雄高も、幸いなことに人を噛むことはなかったが、つい最近までぬいぐるみやらおもちゃやらを手当たり次第に噛みまくっていた。
「男の子なんだからだいじょうぶ。一度や二度噛まれたくらいで死ぬわけじゃないですから」
 陽子は朗らかに笑って、それでも頭を下げ続ける保育士の顔を上げさせた。別段目くじらを立てることでもない。仕事熱心で責任感のある保育士がいることを頼もしく思えるほどだ。
「雄高、どこ噛まれたの――?」
 のんびりと尋ねると、息子は黙って右腕を差し出した。袖を捲り上げて見てみると、二の腕辺りに見事な噛み跡がついている。なるほど、これでは痛かろう。
「雄高、泣きました?」
「いや、それが全然。びっくりしました。雄高くん、痛いのに強いんですね」
 そうだろう。
 おかしくなって、陽子は声を立てて笑った。
 雄高は酷く痛みに強い子供だ。まだ危なっかしい足取りで散歩をさせていたときに、足を滑らせたのかバランスを崩したのか、見事に頭からコンクリートに突っ込んでも、ほんの少し顔を歪めただけで泣きはしなかったものだから、さすがにそのときは陽子も仰天した。
「――この子、こけても泣かないんですよ」
 陽子は至って気楽に笑いながら、良い子、と息子の頭を撫でた。
「だから噛まれても大丈夫。それよりもその子の噛みぐせ、早く直してあげないといけませんね」
「そうですね」
 難しそうな顔で保母が頷いた。
 そのとき遥か下方、足元で、何かが陽子の服をぐいと引っ張る感触がする。
 気が付いて視線を足元へと落とすと、小さな小さな子供が、丸い目を不思議そうに見開いて陽子を見上げていた。
「あら――」
「恭ちゃん、どうしたの? ママは?」
 陽子が言葉を発する前に、保育士がしゃがみ込んで子供に視線を合わせた。
 恭ちゃん、この子がか。字面では良く見かけたその子供を、陽子は思わずしみじみと眺めてしまう。
 子供特有の邪気のなさで見上げてくるその子は、中々利発そうな顔付きをしている。
 保育士の質問を聞いているのかいないのか、彼はじっと陽子を見つめると、徐に指を差して呟いた。
「ゆた」
「うん、雄高くんはここだね。ママは? さっきお迎えに来てたでしょう」
「ゆーた」
 問いかけには答えず、恐らく息子の名前を繰り返した子供は、陽子の服をぐいぐいと引っ張った。
 遊び足りないのかもしれない。
「雄高、もうちょっと遊んでくる?」
 腕に抱えた我が子に尋ねれば、息子はこくりと頷いてみせた。
 遊んでおいで、と雄高を地面に下ろそうとした瞬間、遠くで「恭一!」と叫ぶ声が聞こえてくる。
「恭一どこ――ああ、もうあんなとこ行っちゃって!」
 片手に保育鞄を抱えた女性は、保育園の施設の扉から真っ直ぐにこちらへと駆けてくる。どうやらこの女性が恭ちゃんとやらの母親らしいと、直ぐに判った。
「あんたほんっと逃げ足だけは早いんだから。すみませんご迷惑おかけしちゃって。――恭一、帰るよ」
 その女性は保育士と陽子の両方に頭を下げると、息子の手を引いた。
「江上さん、こちら梶原さんです。雄高くんのお母さんの」
 母親の手を嫌がって暴れる息子を四苦八苦しながら押さえ付ける女性に、保育士は苦笑混じりに陽子を紹介した。
「雄高くん? ――ああ! ゆーたくん!」
 女性は陽子と雄高を交互に見遣り、何やら納得のいった表情になると、徐に勢い良く頭を下げた。
「ごめんなさい、うちの馬鹿が噛み付いちゃったみたいで。ほらあんたも頭下げな」
「う」
 彼女は息子を押さえ付けたまま、無理矢理その頭を下げさせると、
「なんだか知らないけどいつまで経っても噛みぐせだけは直らなくて。気に入ったモン片っ端から噛みついちゃうんだからこの馬鹿は。だから家の中のおもちゃとかほとんど噛み跡ついちゃってるんですよ。本当にごめんなさい、恭一ゆーた君のこと大好きみたいで、って全然言い訳にならないんですけど」
 一気に捲くし立てた。
 随分と元気が良い。
「いいえ、さっきもその話先生としていたんですけどね――」
 自然零れた笑みをそのままに、陽子はおっとりと首を振った。
「――幸いウチの子は痛いのに強いから、平気ですよ。噛まれても泣かなかったらしいし。……雄高、恭ちゃん雄高のこと好きなんだって」
 良かったね――そう言って息子へと笑いかけると、やはりどこか憮然とした表情で息子は頷いた。言葉の意味が判っているのかいないのか怪しい。
「子供のことですから。親がどうこう言ったってどうしようもないことでしょう。気になさらないでください」
「すみません、本当に。ちゃんと教育しますから」
 その女性の言葉の端々から、心底恐縮している様子が伺えた。それと同時に母子で交わされる会話が微笑ましい。
 ここまで勢い良く謝られてしまえば、元々怒る気などなかったとしても、好感を持つしかない。
 顔を上げた彼女は、まだ幼さの残る少女の顔で笑っていた。
 そのひとの名を、――椛と言った。


「恭一が「ゆーた」って言うもんだから、てっきりそれが名前だと思っててねえ。まさか帳面の「雄高君」と「ゆーた」が同じ子だとは思わなかったんだよ」
 そう言って気持ち良く笑って見せた椛の視線の先には、すやすやと穏やかな寝息を立てる恭一が眠っている。
 ついさっきまで息子と喧嘩混じりで遊んでいたのが嘘のようだ。
 同じように息子の雄高も、さすがに遊び疲れたのか、春日の差す縁側に恭一の隣で丸まって眠っている。
 穏やかな日曜日、陽子は思いつきで息子を伴うと椛の家へ訪れた。突然の来訪に驚いた椛は、しかし二人を快く招き入れた。一番に喜び、そして楽しんだのは子供たちかもしれない。その子供たちも、今は眠りの中だ。
「恭ちゃんの噛みぐせ、まだ直らないみたい?」
「直らないねえ。いちいち叱ってるんだけどね。これでも回数は減ったんだよ、一時は噛み付いて叱られて、叱られて噛み付いてたから――」
 穏やかな顔付きで笑いながら、椛は静かに珈琲を啜った。
 少女らしさを残している椛は、去年十代を終えたばかりだ。その若さで母親になったことも陽子をひどく驚かせたが、一番に驚いたのは彼女がシングルマザーだったことだ。
 まだ幼い顔で笑うのに、椛はひどくしっかりしている。そのせいで、彼女が自分よりも年下であることを、陽子はよく忘れかけた。
「庸介さんは?」
「うん、よく来てくれてるよ。恭一、あのひとにも良く噛みつくんだ。やっぱ好きなんだね、父親が」
 どこかさみしい表情で、椛は笑う。
 恭一の実父である庸介に、未だ面識はない。椛が言うには酷く忙しい人らしいから、椛の友人でしかない陽子が顔を見たことがないのも当然なのだろう。
「噛みつくことが悪いことっていうのが、いまいち判ってないのかもしれないわね」
「やっぱそうなのかな。ちゃんと叱ってるんだけどねえ」
「そのうち直るわよ。雄高に噛み付いてるうちに」
 冗談を織り交ぜた陽子の言葉に、椛の翳りは嘘のように消え、軽やかな笑い声を聞かせた。
「何度噛みつかれたってへこたれないわよ、うちの子は」
「そういうわけにもいかないよ。……判り難い愛情表現だよねえ……」
 誰に似たんだか。そう言って、椛は楽しげに笑った。
 恭一は、多分椛に似ているのだろう。これからどんどん似てくるはずだと陽子は思う。
 しかし椛は決して判り難い愛情表現を持つ女ではなかった。むしろ判りやすいと言う方が妥当だろう。
 決して帰ってはこない男の帰りを待ち続けている。
 その忍耐強さは椛の若さとは随分不釣合いで、陽子はひどく不思議に思う。
「やっぱり結婚はしないのね」
「うん。それはもう、判ってたことだから。あの人、結婚するし」
 あまりにもあっさりと告げられた言葉に、一瞬言葉を失う。うそでしょう、そう声を震わせながら尋ね返せば、椛は持ち前のあっさりした口調で「ほんと」と答えた。
「結婚って――……誰と?」
「知らない」
 ――身分違いの恋なんて、今の時代ありえないって思ってたけどね。
 少し前、恭一の実父の話を聞かされたときに、椛は笑ってそう言った。
「あの人も、かわいそうなひとだよ。相手の女の人もね。――世の中うまくいかないねえ」
 椛はそんな風に、軽い口調で言って退けたけれど――。
 きっと辛かったのだろうと思う。
 そうやって笑って言えるようになるまで、どれほど葛藤し、うまくいかない世の中を憎んだか。憎み妬みという単語からほど遠く見えるこの人にも、存在しないはずはない感情だ。
「そういうふうに無理矢理寄り添ったって上手くいかないもんだろう。好いて寄り添ったって上手くいかないことだってあるんだからね」
 可哀想に。そう言って、椛は僅かに目を伏せた。しかし可哀想なのは一体誰だと、陽子は内心首を傾いだ。
 椛はどんな辛さもやるせなさも、そのひとかけらも他人に見せはしない。しかし想像が易い理不尽な辛さは陽子にも理解出来た。今時ありえないと本人さえも言う、身分違いの恋に苛まれ、恭一は妾腹の子だと罵られる――そんな日々が辛くないはずはない。
「だから、あたしは平気。あのひとと一緒になったって、幸せになれる可能性のが少ないじゃない。だからいいんだよ。恭一は――少し、可哀想だけどねえ」
 縁側で光を受けて眠る息子に、椛は優しい眼を向けた。
「――椛さん、…それじゃああんまり、欲がないわ」
 痺れを切らして新しい伴侶を探そうともせず、罵られながら、日陰の生活を強いられながら、それでも椛はただひとりの男を待ち続ける。
 見ている方が辛くなるくらいだ。
「そうでもないよ」
 ――どうしてそんなにあのひとが良いのかって、そんなのあたしにも判らないんだけどねえ…。
 野暮と知りながらも、陽子は一度だけ、別の男性を探すように勧めたことがある。まだ椛は若いのだ。たったひとりの男に縛られて、切ない人生を送るよりも、もっと相応しい人生があるんじゃないかと思う。
 しかし椛は困ったように笑いながら、首を横に振った。
 ――想ってるだけでしあわせなんだって、そう思えるひとに出会えたから。もう想い続けるしかないじゃない。これ以上の恋なんて、きっとないよ。
 そんな椛を見ていると、あまりにも欲がなさすぎると、陽子は少しだけ悲しい気持ちになる。
「あたしにも欲はあるよ。……恭一を生んだことが、欲のひとつ」
「そんなの……欲なんて、」
「欲だよ。あたし、どうしてもあのひとの子供が欲しかった。妊娠したってわかったとき、誰に反対されても絶対産もうって思った。あのひとを困らせるって判ってても――産みたかった」
 そんなものは――欲とは呼べない。
 矢張り悲しい気持ちになって、陽子は口を噤んだ。
 子供を産みたいという気持ちは、陽子にも良く判る。何しろ自分は今、二人目の子供を身篭っているのだ。未だ見ぬ我が子を愛しいと思う、その感情は誰から与えられたものでもなく、正真正銘自分の中から沸き出でたものだ。
 それを欲などと呼ぶとしたら、世界中の人間たちはほとんど欲深いことになってしまう。
「あたし、欲深いんだよ、陽子さん」
 椛の声に、どこか悲愴な響きが含まれていることに気付いて陽子は顔を上げる。
「――あたし、恭一の名前に、呪いをかけたんだ」
 真っ直ぐに息子の寝顔へと向けられた視線は、しかしどこか痛みを帯びている。
「……呪い、なんて……」
「あの子は、庸介さんの最初の子供なんだって――この先なんて言われても、あの子は間違いなく庸介さんの、いちばん最初の子供なんだって、あたしそう言いたかった」
 これから先、何度罵倒されることだろう。
 心ない言葉たちに何度傷付けられることだろう。
「庸介さんが結婚して、相手との間に子供が生まれて、その子が楠田を継いでも――この子がいちばん最初に生まれた庸介さんの子供なんだって……言いたくて……」
 椛の声は、徐々に弱く掠れていく。 
 椛の言葉通り、それがもしも本当に呪いになり得るのなら。
 ――なんて静かな願いだろう。
「何言ってるの。――そんなの呪いなんかじゃないわ」
 なんてひそやかな、また、ささやかな願いだろう。
「当然じゃない。そんなの、……それくらい、思ったって当然じゃない……」
 それを欲だと呼ぶのなら。
 世界中の全てが欲で出来ていることになる。
「それくらい思ったって、誰があなたを責めるっていうの。誰も責めないわよ。――もしも責めるひとがいたら私が叱ってあげるから」
 やるせなさと怒りとで胸が詰まる。まだこんなに若く、そして幼い女性をここまで諦観させてしまったものたちを、理不尽だと思う。
 陽子の力強い言葉に、椛の表情はふっと気が抜けたように崩れた。
「……ありがとう」
 世界中の全てが欲で出来ている。それは真実なのかもしれず、もしかしたら世界中の全ては欲で構成されていて、欲がなくては動き出さないものこそが世界なのかもしれなかった。
 しかしそれだけではないことを、自分と、そして椛は知っている。
 世界中の母親が知っている。
 例えば母親が子供を思う、その気持ちが欲と呼べようか。
 欲ではない。
 完全なる純粋でもない。
 ――これを名付けるとしたら、呪いという言葉が一番に適切なのかもしれなくとも。
「陽子さん、ありがとうね。あたし、今までこんなこと、誰にも話したことなくて、」
 椛が告げる言葉が、途切れ途切れに詰まる。
 はっとして顔を見れば、歳相応に幼い表情をした椛がきゅっと唇を噛み締めていた。
「今まで、妹のこととか、恭一のこととか――自分のこととか、そういうのでいっぱいで、こういうふうにゆっくり話せるひとって、いなかったから、」
 ――ありがとう。
 そう言って、椛は涙を流して泣いた。
 椛は既に両親を亡くしている。それからは妹と二人きりで暮らしていたというのだから、苦労は一言や二言では語り尽くせないだろう。
 もしも今まで、その苦労も辛さも零せる余裕がなく、懸命にただ生きてきたというのなら。
 その懸命でひたすらな人生に、突如現れた癒しが庸介という名の男で、その子供を産むことが椛の唯一の幸福だったというのなら。
 ――こんなに切ない話はない。
「椛さん、あのね、」
 話しているうちに昂ぶった感情を抑えようとしている椛に、陽子は声を落として告げた。
「私なんてのろくて鈍くて、うちのひとに怒られてばかりいるし、なんにもできないけど。――椛さんの話を聞くことは、できると思うの」
 堪えるには辛すぎる涙なら、たまに流してくれてもいい、受け止めるものがないのなら自ら名乗り出てもいい。
「一緒にお茶を飲んだり、ご飯を食べたり、――そうね、お買い物に出かけたりもできるでしょう」
 偶然で出会った。
 同じ歳の息子を持つ、ただそれだけの偶然で出会っただけの、年下の友人を、
「……そういうことしかできないけれど。そういう役立たずの私でも、いるのといないのとじゃ、大きな違いだと思うの。だから傍にいさせてね」
 まるで妹のように大切にしたいと思った。
「あなた、まだ若すぎるわ。――そんな辛さをひとりで抱えるには、若すぎる」
 強いようでいてひどく脆い、そんな部分は誰にだってある。自分も同様に、椛にも存在して然るべきだ。
「……だから、傍にいさせてね」
 どれほどに潔く、どれほどに強く見える女にも、脆さは存在する。
 その脆さを、いつかは彼女が守った息子が受け止めてくれるだろう。
 彼女の息子が、母親を守れるようになるその時まで、彼女が独りで戦うには世間は辛すぎる。
 だから傍にいさせてねと、陽子は欲のない純粋な感情で、祈った。



 恭一はまだ眠っている。
 随分と疲れていたのだろう。
 ――全くこの子は、と親心に似た気持ちで、陽子は苦笑を零した。
 自分から見れば恭一も雄高も、まだまだ加減を知らないほんの子供である。その子供が立派に手に職を持って稼いでいるというのだから驚きだ。
 ――椛さん。
 自分も彼女も歳若かった頃、まだ幼い息子たちを目で追いながら何度となく語り合った。
 傍にいた時期はそれほど長くはなく、また、多くはなかったけれど――
 逝ってしまった遠い面影を思い出して胸を痛ませているのは恭一だけではない。
 あの葬儀の日。
 誰に似たのか表情を余り崩さない長男が、目を赤くして涙を堪えているのを見たとき、悲しみはいっそう強さを増した。
(泣かなかったのね)
(あの子の前で、泣かなかったのね、雄高――)
 幼馴染みの涙を受け止めることが自分の役割だと知っていた息子は、誰にも自分の涙を見せず、きっと自分の部屋の中でひとり泣いていたのだろう。
 ――あなたはこんなに想われていたのよ。
 椛のために、幼馴染みのために、自分の涙を殺した息子を誇らしいと思う。嬉しいと思う。
 思い出せばまだ胸を痛ませる、そんなひとと出会えた自分を、嬉しく思う。
 まだ続いているものたちが、目の前にあるのだ。
 あのひとの命が喪われていようとも、終わってなどいない。
 自分と椛が紡いだ友情を、息子たちは変わらず継いでくれている。
 まだ、続いていく。
 ――そうね。変わらないものなんて、たくさんあるわ。
 椛がひとりの男を待ち続けたように、曖昧で、しかし確かに変わらないものなんて、その辺にたくさん転がっている。
 世の中もまだまだ捨てたものじゃない。

 ――あなたの息子は、元気でいます。

 恭一の寝顔を見つめながら、陽子はそっと微笑んだ。




「いつか」「狭間で見る夢」へ続きます
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