それは、決して自分が捻くれているせいではないはずだった。このどこから溢れてきたのか判らない人出の多さに苛付くのも、ありえない人口密度に吐き気を催すのも、もはや清々しいとしか言えそうにない不快感である。それら全てを総合した感情を持て余すのは、決して自分の性根が腐っているせいではないはずだと、恭一は信じていた。
久し振りに乗った電車は当たり前のような混雑具合で、湿った熱気はただでさえ人ごみ嫌いの恭一の頭を痛くさせたし、身動きひとつ取れない状況は苛立たしさを増させていくだけだった。だがそれも、すべては自分の気まぐれが原因しているのだと、恭一はおぼろげに確信しつつある。まず、帰宅ラッシュの時間帯に電車へ乗り込んだのがいけなかった。次に、今日が何の日であるか、というよりも、今日という日に日本がどんな騒ぎになるかを、迂闊なことに恭一は全く思考していなかったのである。
震動のたびに覚束ない足元に舌打ちすると、すぐそばに佇んでいた女が、上目遣いに険しい視線を向ける。あんたにじゃねェよ、と口には出さずに呟いて、押し付けられたドアに視線を遣ると、仰々しいほどの街の灯りが過ぎ去っては網膜に焼きついて点滅した。街は、どこもかしこも当たり前のように華々しく彩られている。こんな日に、敢えて外出を選んだのは、自分である。ならばきっと、自分だけを恨むのが真っ当な判断であり、当然だろう。だが恭一は、心中でクリスマスを呪った。クリスマスイブというめでたくも何ともない今日を呪った。せめて今日がクリスマスイブでもなければ、人出の何パーセントかは抑えられていたかもしれないと、淡い夢を抱いたのである。
ドアが開いた途端、人々が勢いよく外へ向かって流れていく。その流れに押され、意志とは反対の方向に傾いていく身体に、やばいと冷や汗をかきかけた瞬間、強い力に腕を掴まれ傾いた身体を引き戻される。寸でのところで留まった恭一の肩越しに、ゆっくりとドアが閉まっていった。
「恭さん」
聞き覚えのある声が頭上から落ちて、恭一は思わず驚愕に目を見開き、自分よりも幾分高い位置にあるその顔を見上げた。
「……由成」
「やっぱり。人違いだったらどうしようかと思った」
腕を掴んだ掌からゆっくりと力を抜き、由成は恭一を引き止めていた手を戻した。いつから傍にいたというのだろう。全く気付きもしなかった。ただひたすらに呆け、見上げていた恭一を余所に、由成は「珍しいね、」と首を傾げる。
「あんたがこんなところにいるなんて。何か用があったのか」
「おまえこそなんでこんなとこいるんだよ」
「なんでって……サラリーマンだからじゃないのか」
帰宅ラッシュに巻き込まれるのも当たり前だとちいさく笑った由成は、周囲を一瞥すると、人が多いねと同じ感想を口にした。
「この時間なら人が多いのは当然だけど、今日はいつもよりずっと多い。みんなどこに行くんだろうね」
「どこってそりゃあ…」
家路に着くものもいれば、これから向かう先に心を弾ませているものもいるのだろう。それをいちいち口にすることは面倒で、恭一は、
「…イブだからな」
とだけ呟いた。微かに笑った由成の吐息が間近に触れて、やたらと落ち着かない気分になる。
向き合って見つめ合うことなど早々ないせいだろう。だから恭一は、敢えて俯き、視線を反らした。そして見えない何かに向かって、ちくしょうと胸のうちだけで呟いた。
「書店受け取りなんかじゃなくて宅配にしたらよかったのに」
「うるせぇな、うっかりしてたんだよ。たまにゃ出歩くのもいいかと思って……」
「……だからなんでこんな日に」
「だからうっかりつってんだろ」
電車で鉢合わせたのは丁度出先からの帰りがけで、一度社に戻る予定だった由成は、恭一が書店で用事を済ませている間に会社に直帰の連絡を入れていた。いいのか、と尋ねた恭一に、どうせ急がなきゃいけない仕事もないから、と由成は笑う。そんなものかと単純に納得していると、由成は「すこし付き合ってくれないか」と首を傾いだ。
「どこに」
「ケーキ。予約してるんだ」
あっさりと言い切った由成にほんの一瞬絶句して、恭一は鼻を鳴らす。呆れた顔をしていたのだろう。それを見た由成は困ったように笑った。
「あんたに荷物を持ってくれなんて言わないよ」
「当たり前じゃねェか。誰がんなもん持つかよ」
「旭へのプレゼントは宅配にしてもらってるから、ケーキだけでいいんだ。近所だから付き合ってくれ」
来年の春に漸く三歳になる娘へプレゼントを用意するのはまだいいとして、男ふたりが連れ立ってケーキ屋へ向かう姿を想像しただけで頭が痛くなるような気がした。けれど誘った由成の顔が、どことなく楽しげな顔をしていたせいで、それ以上呆れた言葉も、拒絶する言葉も放つことができなくなる。
「……おまえが一番、はしゃいでんじゃねェか」
空々しいイルミネーションに囲まれながら、決して少なくはない人通りの街を歩く。最中に低く呟いた恭一に、由成はやはり静かに笑った。
「そうかな。……そうかもしれない。俺はいつももらう側だったから」
毎日のように舞い込む玩具のチラシにも、ここぞとばかりに騒ぎ立てる街並みにも、人々にも、辟易する。飽き飽きする。日本は仏教徒の国なのにと、まともな信仰を持たない恭一が嘆くのは、やはり性根が歪んでいるせいかもしれない。
「旭は甘いものが好きだから、一番大きなケーキにしたんだ」
「ガキってのは何だって喜んで食うんだよ」
「うん。だけど、瑞佳さんも甘いものは好きだ。俺も好き。……うちじゃ、辛党なのはあんただけだね」
辟易して、飽き飽きして、嫌気が差す。なのに、うつくしい、と恭一は思った。このうつくしい街に、雪が降ればいい。それはきっと劇的にすべてを彩ってくれるだろう。劇的にすべてを幸福にしてくれるだろう。
「俺がケーキの箱を持って帰ったら、きっと旭が訊くんだ。それはなに、って。俺がケーキだよって答えたら、あの子は多分すごく喜ぶ。ケーキを食べれるまでずっと落ち着けなくて、部屋中をうろうろするくらい」
たどたどしくも言葉を覚え始めた子どもの顔を、恭一はぼんやりと思い浮かべる。まだ彼女の持つ語彙は貧しく、パパ、ママ、それから恭一のことを、覚束ない口調で「きょうちゃん」と呼ぶ。最初は何を言われているのか判らなかったが、父親が「恭さん」と呼ぶのを自分なりに消化した結果だろう。はじめてその子にそう呼ばれたとき、恭一はすこし呆れ、そしてすぐに諦めて笑った。
「そういうのを考えるのは、楽しいよ。プレゼントはもらうよりも贈るほうがずっと嬉しいんだ。祝われるよりも、祝うほうが、ずっと」
「……格好悪ィな」
「そうだね」
由成は少しだけ笑い、辿り着いた店の手前で足を止めた。店の前に置かれたサンタクロースが、口をパクパクと動かし、機械的な声で何かを言っている。恐らくは歓迎と祝福の言葉であろうそれも、擦り切れたテープの音質がひどい状態でよく聞き取れなかった。
「あんたも、同じだった?」
ふいに落とされた囁きに、恭一は小さな微笑みで俯いた。何も、ない。自分がしてやれることなど、今はもう何もなかった。――ああそうだ、だけど嬉しかった。いつもこの自分が必ず一番におめでとうと告げた。一番に、何かを与えた。あの子はその度にはにかんだ。あの日々は、本当に、嬉しかった。
「俺はここで待ってるからよ。さっさと買って来い」
「寒いよ」
「男二人でケーキ屋に入るほうが何倍も寒ィだろ」
不満げな由成の背中を見送った恭一は、暇を持て余すように店の前に置かれたサンタクロースの置物をじっと見つめた。カラン、と扉が開く音を聞きながら、サンタクロースの口元を見つめていると、どうやら英語で何かを告げているらしいことが何とか判る。どちらにしろ英語は判らないと聞き取りを放棄しかけた瞬間、あるひとつの言葉が、強烈に鼓膜を震わせた。
――メリークリスマス
馬鹿のひとつ覚えのように繰り返す。メリークリスマス。メリークリスマス。何がそれほど嬉しいのかと、問い質したくなるくらい、まっすぐに。鼓膜を絶え間なくふるわせて、いっそ滑稽にさえなる。
汚い音で繰り返される言葉に、思わず恭一は微笑んだ。
うつくしい、と思った。
そうして世界を愛せている自分の心根が、それと同じくうつくしいものであるように、祈った。
それでも恭一が年甲斐もなく浮かれている自分を認めることはなかった。自宅が近付き始めた帰路の途中で日本は仏教徒の国なのにと呟くと、由成は容赦なく呆れてみせる。
「まだそんなこと言ってるのか」
「だっておかしいじゃねェか。てめェだってまだ貴美子さんの墓に手ェ合わせるだろう。そんでクリスマスだの何だの騒ぐ自分に疑問は持たねェのか?」
「ないよ。俺はあんたみたいにいちいち難しく考えないんだ。そもそもあんただってそんなに仏教を信仰してるわけじゃないだろう」
確かにそれはそうである。仏壇に手を合わせはするし、機会があれば念仏も唱えてみるものの、それほど熱心にやりはしない。今やそれが日本人の大半である。
「輪廻だの何だのっていうあれがどうにも性に合わねェんだよ」
まず業だとかいうものがあるのが気に食わない。生まれついて持っている業などあるはずがないのだ。ただでさえ生きていくことはしんどいのに、そんなものを元から背負っているというのなら、馬鹿馬鹿しくてやってらいれない。
「お坊さんの話、……説法っていうのかな、ああいうのもちゃんと聞いてると面白いよ。理屈には適ってる」
「そりゃおまえが素直すぎるんだよ。変な壷とか買わされんじゃねェぞ、そんなことになったら指差して笑ってやるからな」
そうして業は永劫に続くのである。来世は幸福になりましょうと念仏を唱え生きている間に徳を高めなければならない。三年先のことでさえ判らないのに、どうして来世のことまで考えなければならないのだと、恭一の意見はそこに帰結した。
「……俺は、ありもしない来世のことなんか考えたくもねェな」
由成は笑って、そうだね、と静かに頷いた。そして、だけど、と囁くように続けた。
「だけど、俺はあんたとなら信じたいんだ」
住宅地に入り、もう街のような騒々しさはそこにはない。けれど各々の家が思いのままに飾ったイルミネーションは、普段よりはずっと明るく帰路を輝かせている。伴って、窓から漏れる家の灯りが、暗い道をそっと照らし出した。やはりそれは、美しかった。この世で一番にうつくしい灯りは、生活の灯りなのだと聞いたことがある。それは真実かもしれない。
「あんたとなら、俺はありもしない来世も信じていい。……信じたい」
それは、星の輝きよりもはかなく、太陽の光よりも健気で、美しいものだった。
「クリスマスに、わざわざ仏教のことを真面目に考えるあんたがいいんだ」
「……物好きだな」
「恭さんもね」
ふいに、可笑しくなった。由成の言う通りだ。どうしてクリスマスに、わざわざこんな話をしているのだろう。そう思うと可笑しくなって、自然と笑みを浮かべていた。そして、僅かに俯いた。
きりもなく続いていくことは幸福かもしれないと、ほんの少しだけ思った。
隣り合わせの肩が触れるか触れないかの距離で、少しの沈黙の後に由成はそっと口を開く。
「恭さん」
「――ん」
容易に言葉を返せば胸のうちがわを見透かされそうで、恭一は敢えて短い返事を選ぶ。それを知ってか知らずか、由成は、ひどく小さな声で囁いた。
「キスしようか」
空気を震わせず落とした恭一の笑みは、けれど確かに眼前に白い吐息を散らした。ああ、やっぱりだ。やっぱり、判ってるのか。――おまえは全部、判ってるのか。
「誰かに見られたらどうすんだよ。楠田の息子はホモだって噂立てられるぞ」
「嘘じゃない」
「嘘じゃなくたって面白可笑しい話に変わりはねェだろうが」
真っ直ぐに頷くこともできず、応えることもできない唇は、感情とは反対のことばを吐き出してしまう。先に由成が足を止め、少し遅れて恭一も立ち止まる。振り返った恭一の目に映った由成は、不思議なくらい穏やかな顔をしていた。
「そうじゃない。キスしようかって言ったのは、嘘じゃないって言ってるんだ」
そして真摯に告げられれば、降参して笑うしかない。伸びた手が肩に置かれ、やさしい力で引き寄せられる。好きにしてもいいと、降伏して瞼を落とした後に、冷たい唇がそっと重なった。
「……由成」
吐息に混ぜて名前を呼ぶと、応えるように背中に腕が回る。抱擁の中の口付けは限りなくやさしかった。限りなく、甘かった。
――信じてもいい。
押し付けられる唇の感触だけを頼りに、祈るように思った。もう少しだけと欲張ることを自分に許して、その身体を抱き返す。閉ざした視界で、吐息と感触だけを、頼りに。
瞼の裏に、うつくしくも滑稽なイルミネーションが浮かんでは消えた。
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