瞼を閉じればいつでもそこには、赤い花が焼きついていた。
朝の始まりは、いつもその、赤い花弁がはらはら散っていく、まどろみから始まった。それは常に、長いまどろみだった。だからここ数日は、常に寝坊気味だ。
駅まで駆けるはめになる数分後を想像して、鳴り続けたアラームにため息をついたって、時間は戻ってきてはくれないので仕方なく起き上がるしかない。
時間というものは砂に似ていて、必死で掴んでも隙間からぼろぼろと小気味よく流れていく。
指と指の隙間を作っていたのは、自分自身の惰性や傲慢だった。
部屋の扉を閉め、外に出てしまうと、僕の唇は一瞬にして色を失い、瞼は半分ほど落ちる。シャッターを下ろして、何かから自分を守るように。
そのくせ外の空気を吸った瞬間には、頬を震わせて唇の端を持ち上げることを、筋肉が命じた。
ありがたいと思った。義務という神経に突き動かされてくれる腕や足や唇が。
呼吸などしたくもないのに動いてくれる肺や心臓が。
仕事はきっちりとこなしているくせに、部屋は散かり放題で、洗濯物は、たぶんもう一週間ほど溜っている。急ぎの日は行きにクリーニング屋に寄り、帰りに受け取る。そんなことが習慣化されるようになっていた。
半年ほど前に、同居人が出て行ってしまったからだ。
暗い部屋でひとりきり、どうしてだろうと考えるのは、瞼に焼きついた、赤い花のことだった。いつからこの赤い花は、自分の脳裏に焼きついてしまったのか。
考えても考えても、いつからこの記憶がはじまったのか、どうしても思い出せない。
そうして、脳裏の赤い花が全て散って消えてしまったあと、このままでは幸福になれないと虚ろな口調で呟き、ある日突然消えてしまった彼のことを、考えた。
あまりにも唐突すぎた呟きに、僕は言葉をなくしたのだと思う。
どうしてそんなことも判らなかったのかと非難がましくみあげてきた、あの視線を、僕はいつも思い出した。
僕の何かが彼をひどく傷付けて――それはきっと長い時間をかけて、修復も間に合わないくらいに深く、彼の心を傷付けていた、その事実に、たぶん僕は長い間気づかなかった。
人と人の関係に、本来細やかな気遣いが必要であることを、僕は彼に限って忘れていたのだろうと思う。
朝の交差点で、彼を偶然見つけたのは、その事実に気付いてからまた幾つかの時間が経ったころだった。
その日は重たい雲が空に張りついて、朝から憂鬱な気分だったことを覚えている。その日も満員電車の中で、僕は、赤い花のことを考え続けた。思考の隙間に滑り込んできたその赤い花弁は、一瞬にして僕を現実から引き離す。
ただ機械のように足を動き、思考は別世界にいた僕を、何メートルか離れた場所にいた彼だけが、現実に引き戻した。
道路の向こう側に僕を見つけた彼は、驚いたように、あからさまに目を丸めていた。元々職場の近い間柄だ。
いつか出会うことはあるだろうと思っていても、彼も自分もそれを避けていたように、この半年間、彼の影すら見つけることはできなかったのに。
彼の着ているスーツはきちんと皺伸ばしされていて、寂れた様子は僅かにも見当たらなかった。僕はそっと安堵した。唐突に住む家を出て行っても、彼はきちんと生活できているらしい。色々と問い掛けたいことはあったけれど、反対側で信号を待っている彼に届く声は、ここにない。
僕たちは暫く、唖然として見詰め合っていた。流れていた時間が、その瞬間確かに止まったのを、僕は感じていた。動けないくせに、心臓だけが早鐘を打つ。
信号が変わる直前、彼は少し切ないように眉を下げて、それでも唇を薄く開いて、笑った。笑って、彼はきっと、言った。「ありがとう」と。或いは「さようなら」と。
僕は薄く膜の張る眼球でその唇の動きを認めて、歩き出した。――ああ、雨が。きっともうすぐ降る、だから。
赤い花が散る。
ぐるぐると、同じ言葉だけが、頭の中を巡っていた。
ありがとう。さようなら。ありがとう。ありがとう。
詫びるよりももっと、責めるよりももっと先に、彼に言わなければならなかった言葉があることに、僕はそのとき漸く気付いた。
ありがとう。
この言葉しか、最後には残らないことに、漸く気付いた。
君の心は長い時間をかけて、擦り切れてしまった。擦り切れてしまうことに気付かないまま、君の目の中に映る自分だけを、僕は愛し続けていた。
心が擦り切れるくらい愛してくれてありがとう。
なのに最後に微笑んでくれてありがとう。
最後に僕を、僕を心から傷付けてくれて、本当に、ありがとう。
いつのまにか雲は晴れて、ビルとビルの間に光さえ差し込んでいた。
もう、空は、青かった。
彼と見つめ合ったことが、まるで夢のように。
振り返って目を凝らしても、もう彼の背中は、どこにも見つけられなかった。
そうして僕は、ゆっくりと思い出す。
四年前のあの春の日――卒業式で彼の胸に咲いていた、赤い花を、僕が戯れにちぎって、てのひらで遊んだことを。
それを彼が、いとおしむような、やさしい目をして、見つめてくれていたことを。
それを今は、懐かしいだなんて、到底言えはしないけれど。
――きっと、うまくやるよ。
今度はきっと、上手にやるよ。
誰にともなく呟いて、歩き出した僕は、もう二度と彼を探したりなんかしなかった。
――その日から僕は、赤い花を見る度に、嘔吐したくなるほど切なくなる。
だけど僕は赤い花が、きっと一生、とても、好きだ。
20100630