■佐世保市の民話・伝説


◆福石観音
福石観音は七一七年、行基が諸国巡りの際に開基した。ある日、東の浦の海中に、夜になる と光るものが現れるので行基は里の人々と海辺に出て、念仏を唱えながら海中を探させた ところ、大きな柳の丸太が見つかった。御仏のお告げに違いないと行基は丸太を三つに切っ て大きな十一面観音像を刻み、福石山に安置したという。


◆蛇島
宗家松浦丹後守が相神浦(こうのうら)飯盛山の城主松浦丹後守親(ちかし)と烏帽子岳 に狩りに行き、その帰りに佐世保城主遠藤但馬(たじま)守の館に寄った。但馬守は彼らを 歓迎し、酒宴を開き愛娘である姫に舞を踊らせた。丹後守は但馬守の娘に心を奪われ、妻に したいと申し出る。しかし姫は赤崎岳の城主赤崎伊予守の許婚と決まっていたので、但馬守 はこれを断った。諦めきれない丹後守は松浦肥前守に但馬守が叛意があると讒訴した。肥前 守は但馬守を討つため丹後守に兵を与え、佐世保城を攻めさせる。姫は深い恨みを抱きなが ら将冠岳の谷深く姿を消した。丹後守は姫を生け捕りにするため兵を向かわせる。しかし姫 は見つからず、かわりに何やら谷の奥から白い煙が立ち昇っていた。兵が訝りながら近づく と、姫が逃げ込んだとされる岩穴から真っ白な大蛇が口から白煙を吐きつつ海岸へと出、伊 予守の館へと向かっていった。この大蛇ににらまれたものは高熱を発して死んでしまうとい う。この島を(?)蛇島という。


◆眼鏡岩
むかし、このあたりに大きな鬼がいた。ある日、石盛岳を枕に昼寝をしていた鬼が、大きなあ くびとともに両足を伸ばしたところ、その足先で岩を突き抜いた。そのとき開いた穴が眼鏡 岩として今も残っている。


◆犬神と龍神(吉井町)
昔、猟師が猟をしようと愛犬を連れて五蔵岳にやって来た。仲間と落ち合うためいつもの 祠のところまで来て、前の木陰で休んでいたが、つい、うとうととして眠ってしまった。 ところが突然の地鳴りに起こされると、愛犬が自分に牙をむけ唸っている。いくら叱って も吠え続けるので、腹を立てて猟銃で撃ち殺してしまった。しかしふと振り返ると頭上の 木から大蛇がこちらを狙っている。間一髪で大蛇の牙をかわし、猟銃で撃ち腰の山刀でめ った切りにしたが、目がくらんで気絶してしまう。 かけつけた仲間の声で目を覚ました猟師は地面を鳴らして自分を目覚めさせてくれた祠の 神と、主人に大蛇の存在を教えてくれようとした愛犬に深く感謝した。猟師は仲間ととも に大蛇を焼いて祠を清め、愛犬の霊を祠のそばに「犬神」として祀り、大蛇の霊も「龍 神」として祀ったという。


◆河童のゴン太(吉井町)
佐々川の吉井と佐々の境付近に「愛宕淵」という淵がある。ここにはゴン太という河童が 住んでいて、色々と悪さをしていた。しかしある日、田んぼの畦塗りをしていたおじいさ んのお尻をなでていたずらしている時に手を切られて持って行かれ、泣いて謝って返して もらって以来、姿を見かけなくなった。実際は川の上流で生まれた子供の世話にかかりっ きりだった。ある日梅雨の大雨で川の水かさが増し、橋から一人の子供が流されてしま う。ゴン太は自分の赤子を残し、激流の中必死に泳いでいって、何度も流されながらも最 後には子供を助け出すことが出来た。しかし力を使い果たしたゴン太はそのまま息を引き 取ってしまう。村の人達はゴン太の亡骸を手厚く葬ったという。


◆柿食い小僧(吉井町)
むかし妙観寺という寺に了禅という和尚と智契という坊さんがいた。和尚さんは柿が好物 で、境内になった柿を毎年一人で食べてしまう。今年も残り二個となったとき、和尚は檀 家におつとめに出かけていき、その間に我慢できなくなった智契が食べてしまう。智契は 柿を食べてしまった言い訳を考えている間に今度は寺の宝である線香立ても割ってしま う。夕方、帰ってきた和尚に智契は「先程旅のお坊さんが来られ、『生あるものは…?』 と問答してきました」と言った。「それは『必ず滅す』と答えるべきじゃ」と和尚が答え るやいなや智契は割れた線香立てを差し出し、柿のことも加えて詫びた。和尚は怒るに怒 れずただ苦笑いをするしかなかったそうだ。


◆使っても減らぬお金(吉井町)
吉井の橋川内に信助、おぬいという百姓夫婦が住んでいた。おぬいは産の手伝いが上手で とても評判だった。ある年の夏の夕暮れ、一人の男が訪ねてきて「わたしは上吉田の中条 家に仕える者だが主人の奥様が産気づいているので手伝って欲しい」と言う。おぬいは夕 暮れの見知らぬ男というのもあって警戒していたが、上級士族の中条家の誘いを断るわけ にもいかず、行って無事お産を成功させました。主人は大変喜んでご馳走すると、「我が 家には代々使っても減らぬお金が三枚ある。御礼として一枚受け取って欲しい」と言って 一両小判を渡してきた。その夜は中条家に泊まったが、朝起きるとそこは大岩に囲まれた 平地で、枕元に昨日の一両小判がある以外まわりには何もなかった。 家に帰ったおぬいは信助に一両小判の話をすると、それ以来二人はこの小判を守りながら より一層働いた。信助夫婦はこの小判のおかげで一生幸せに暮らしたという。


◆沢がにの瀧のぼり(吉井町)
橋川内の次男坊長吉は十二歳になったことから大工の棟梁に弟子入りした。しかし長吉は とても不器用だったため簡単な仕事も出来ず、頭領にひどく叱られてしまう。恐れをなし た長吉は逃げ出してしまい、気がつくと潜龍が瀧まで来ていた。滝つぼに飛び込んで死ぬ ことを考えていると、滝つぼを登る沢がにを見つける。長吉は滝つぼの激しい水しぶきに 負けず頑張って滝つぼを登る姿に見入り、気がついたら沢がにが登り切るまでの丸五日、 水しか飲まずに滝つぼの前で過ごしていた。長吉は沢がにの頑張る姿に心を打たれ、自分 も負けてはなるものかと仕事に励み、やがて立派な大工になったという。


◆鏡(吉井町)
田舎では誰も鏡というものを知らなかった頃の話。福井村には和助とおはまという若夫婦 がいて、和助の父喜平と三人で仲良く暮らしていた。しかし喜平が病気でなくなり、和助 は大いに悲しんだ。しばらくして、気晴らしにでもと出かけた長崎で、光るものに気がつ いた。覗いてみると、そこには亡くなった父の顔がそこにあった。和助はなけなしの銭を はたいてそれを買い、大事に家の長持ちの中にしまって、暇があればそれを眺めるように していた。夫の不思議な行為をいぶかしんだおはまが長持ちの中を 覗いてみると、そこには若い女の顔が映っていた。腹を立てたおはまはが放り捨ててしま ったため、それは音を立てて割れてしまった。和助がそれを知って怒り、二人で口げんか をしていると、そこを通りすがった物知り爺さんが「それは鏡というものだ」と言うと、 二人は顔を見合わせ呆然としてしまった。


◆五蔵池の法華経島(吉井町)
文化年間(1804〜1815)のことだと伝わっている。平戸、魚の棚の捕鯨組の頭領に一人娘 がいた。一人っ子だったためこの娘に婿を迎えてやったところ、辺りでも評判の夫婦だっ たのにすぐに別れてしまった。不思議に思って話を聞くと、頭領の娘は夜眠っている間、 大きな鯨に姿を変えてしまうという。頭領夫婦は坊さんにお経を読んでもらったり、神官 にお払いをさせたりしたが、娘はどんどん元気がなくなり無口になってしまった。ある日 旅の坊さんが訪ねてきて、「鯨の霊がさまよっているので、法華経を読んで慰めなされ」 と言う。頭領は、捕鯨仲間内では捕らぬと決めていた子持ちの鯨を、不漁の年は仕方なく 捕っていたのを思い出した。この霊はきっとそれに違いないと思い、深く反省した。坊さ んに言われたとおり法華経を唱え、また浜で拾ったたくさんの貝殻に法華経の経文を一字 ずつ書き込んだ。貝殻をどこに奉納したらよいか尋ねると、「東の方に形のよい山があっ て、その麓に大雨が降ると池が出来る平野がある。そこの水はやがて海に帰るのでそこが いい」と言った。頭領親子はその山を探し求め、ついに坊さんの話通りの池にたどり着く ことができた。その池の真ん中にある小島に貝殻は埋められ、「大乗妙典塔 平戸魚棚住 近藤庄七書之納」と刻まれ、背面には「かりの声また鹿もなく秋ぞかも」の句が残されて いる。


◆つめのあと(吉井町)
親孝行な息子がいた。父が老衰でなくなり、今年が初盆であった。「盆には亡くなった人 が帰ってくると言うが、帰ってきたなら供え物のなすびに爪痕ば残していってくれ」と言 って畑でとれた立派ななすびを二本お供えしていた。盆が過ぎ精霊流しの時になすびを見 ると、なんと爪の痕がくっきりとついていた。吉井では今も立派ななすびがよくとれる。


◆がまんの善助(吉井町)
むかし吉田村では古川庵(今の古川寺)に寺子屋を置き、下級武士の子供や朸頭(さすが しら)や本百姓(ほんひゃくしょう)などの一部の子供が通っていた。水呑百姓の子善助 は素直で頭も良く誰にも好かれる性格だったので庄屋の松田利左衛門はあちこちに相談し て善助が寺子屋に通えるようにしてやった。善助は最初はみんなと仲良く学んでいたが、 次第に水飲み百姓のくせに他人よりも学問が優れてできる善助にねたみを抱くようにな り、武士の子の正造を大将に、皆で善助をいじめるようになった。善助の父の弥市は身分 の都合上ただ我慢しろとしか言えなかったが、ある日いじめられている善助を見た福田仁 左衛門が見かねて、善助を八天岳(はってんだけ)に登らせ、そこに住む老人に強くして もらうように頼んだ。老人は善助に棒術と柔術を教え、善助はその厳しい修行に耐え抜い た。その間、寺子屋でのいじめもひたすら耐え抜いた。やがて善助は寺子屋の子供が殴り かかってきても全てかわせるようになり、悪口も笑って聞き流せるようになった。そのう ちいじめはなくなり、寺子屋で優秀な成績をおさめた善助は松田利左衛門の願いにより特 別に朸頭にとりたてられるようになった。

※参考 徳川時代の平戸松浦藩の地方行政のしくみ

藩主ー郡代ー代官ー村方三役ー庄屋・朸頭・百姓代ー本百姓・水呑百姓

庄屋………年貢の取り立て、村内の治安維持、治水・勧業などの行政事務を役目とした。
朸頭………一集落より一人選ばれ、庄屋の補助役として諸般の行政事務を処理し、年貢や諸懸 物(賦税)の取り立てや各種のお触れを行い、勧業増産の奨励にあたり、神社、寺院の再 建の時は奉行としての責任も負った。また、区域の裁判権も持っていた。
百姓代……田地の検地帳に所有田地が登録されている百姓で、田地十石以上の本百姓よりよ り選ばれ、庄屋や朸頭の行動の監視役で百姓の代表。
本百姓……
水呑百姓
検地帳に田畑十石以上登録されている自作農を本百姓、十石未満の小 百姓を水呑百姓という。


◆正平寺(吉井町)
山の手地区にある正平寺という地名はかつてここにあった正平寺という寺の名残であると いう。その寺のお坊さんは禁じられているにもかかわらず妻を娶っていたので、殿様が成 敗するための役人を遣わした。お坊さんは隠れ場所を必死で探した結果、ご本尊の下の箱 の中に嫁と二人で息を殺して潜んでいた。やがて役人が来て、色々と探し回ったけども見 つからず、残すはご本尊の下の箱だけとなった。役人が箱を槍で突き刺すと、全く手応え がない。二度突き刺すと、今度は何かしら手応えがある。三度突き刺すと、槍には真っ赤 な血が付いていた。箱を開けると既に息絶えたお坊さんと嫁の姿があった。お坊さんは一 度目と二度目は着物で槍の血を拭うことが出来たが、三度目はもう息絶えてしまって拭え なかったのだ。哀れに思った村人は二人を正平寺の裏山の墓地に弔った。正平寺は後に余 所から坊さんが来たが長続きせず、いつしか移転し、跡地は畑になったという。


◆姫落とし(吉井町)
戦国時代の頃、北松浦半島は松浦党の一族が支配していたが、三十ほどの城の武将が一族 の頭領を目指して互いに争い合っていた。最も強いとされていた平戸城の松浦隆信は、次 に強いとされた直谷城の志佐純量(すみかず)を支配しようとするも、反発されてしま う。隆信は自分の娘婿で純量の叔父である志佐純元を直谷城の城主とするため直谷城へ進 軍し、城を取り囲んだ。劣勢の純量側は籠城するも井戸を敵に奪われ兵達は徐々に降伏し ていった。純量は一人娘の雪姫だけでも逃がしたいと思い、台風の機に城の北にある断崖 絶壁から逃がそうとした。鎧を入れる箱に雪姫を入れ、長い布を何本もつないで下へ下ろ そうとしたが、急な雷に誤って箱を下に落としてしまった。 四ヶ月後、純量は有馬勢の援軍とともに純元が住んでいた直谷城を攻めて取り返した。純 量が雪姫を落とした崖に行くと、純元が建てたと思われる雪姫の墓があった。純量は叔父 の純元に感謝し、肉親同士戦わねばならないこの戦国の世が早く終わるよう祈りながら雪 姫を懇ろに供養したという。


◆庚申さま(吉井町)
庚申講とは庚申様(猿田彦大神《さるたひこのおおかみ》)を祀るお祭りで、毎年「かの えさる」の日に行ってきました。吉井地区でも毎年行っていましたが、ある年見慣れない 赤い顔の男が参加していた。みんなは彼を快く迎え、一緒に飲んで騒いでいると、「来年 はうちで行おう。山奥の一軒家に住んでいるから、来年夏そばの白い花が山に咲いたら来 て下さい。」と彼は告げた。来年村のみんなが訪ねていくと、千年に一度しか生えないと いう「なば」を村人にご馳走し、「これを食べて千年長生きし、末永く庚申講を守り続け て欲しい」と言った。 村人は「あの赤い顔の男はきっと猿田彦大神に違いない」と口々に噂したという。


◆お礼の木の葉(吉井町)
吉田村のおろく婆さんは、ある日親類に会いに行った日の帰り道、草むらで陣痛で苦しそ うにしている女の人に出くわす。お婆さんは近くにあったその女の家まで連れて行き、お 産の手伝いをしていった。 家に帰って寝ると、夢にその女が現れて「明日もお願いします」と言う。それで明日も行 って何やら身の回りの世話をしてやると、数日後また夢に出てきて、「助けて頂いてあり がとうございました。人間は石をぶつけたりするので嫌いでしたが、あなたは違うようで す。御礼の品を家のところに置いておくので取りに来て下さい。」と言う。お婆さんが翌 日訪ねると家は既に無く、きれいな色の葉が数枚あるだけだった。お婆さんがその木の葉 を神棚に捧げると何事も上手くいき、お金も貯まって幸せに暮らせた。お婆さんは村のみ んなと話し合って、その家のあった場所に祠を建て、お稲荷様を祀ったという。


◆妙観寺さま(吉井町)
むかし妙観寺峠に妙観寺という寺があった。ここの和尚が飼っている猫は夜になるとどこ かへ出て行き、昼は昼寝ばかりしていた。和尚さんも「きっと夜は鼠捕りに精を出してい るのだろう」と気にも留めていなかったが、最近妙におつとめ用の法衣の裾が汚れている のが気になった。ある夜、うとうとしていると法衣がひとりでに動いていく。よく見ると 飼っている猫が持って行っているようだった。猫を追っていくとどうやら猫の集会があっ ているらしく、妙観寺の猫はそこで法衣を着て皆から「妙観寺さま」と呼ばれているよう だった。そんなことを知ってからも、和尚は猫を咎めるでもなく、檀家さんには「よく働 く猫」と褒めていた。これを聞いて和尚の心の広さに感服した猫はそれから真面目に鼠を 捕るようになった。村人達は夜鼠捕りに励み昼は寝ているこの猫を親しみを込めて「妙観 寺さま」と呼ぶようになったという。


◆大蛇と念仏(吉井町)
むかし五蔵岳の麓にたいそう信心深いお婆さんが住んでいた。このお婆さんは働き者で、 ある日五蔵岳の山の中へ焚き物を拾いに行った。せっかく来たのだから、とどんどん奥ま で拾いに行くと、そこでお婆さんは昼寝をしている大蛇に出くわした。逃げようとするも 体は震え、つまずいて大きな音を立ててしまう。その音で目が覚めた大蛇は昼寝を邪魔し たお婆さんに襲いかかった。お婆さんは必死で知っている限りのお経を唱えると、近くの 大岩が急に崩れ落ち、大蛇は下敷きになってしまった。命からがら逃げ出したお婆さんは 仏様に感謝し、ますます信心深くなったという。


◆美甲と智甲(吉井町)
しいの木瀬の河童、権太の娘である美甲と、その娘の智甲が前岳長淵に住み着いて五年、 その年は日照り続きで佐々川の水量も少なく、また心ない者が魚を捕るために川に毒を流 したため彼女たちが食べる魚も貝も死んでしまった。ひもじさに耐えられなくなった二人 は前岳の百姓和助の鶏小屋に鶏を盗みに行くが、番犬に捕まってしまう。和助は番犬から 二人を解放してやると、「鶏は捕ってはいけない。食べ物はいつでもあげるから」と言っ て二人に食べ物を与えた。しばらくは和助の世話になっていたが、久しぶりに大雨が降っ てからは食べ物にも恵まれ、和助の元を訪ねることはなくなった。それから何年か後、和 助の子供の耕助が川で溺れてしまう。助けを呼ぶがあたりには誰もおらず、どうしてよい のかわからないでいると美甲と智甲が川の中から現れ、耕助を近くの岩に捕まらせてやっ たという。


◆二十六夜さま(吉井町)
吉井と松浦の境界にある高法知岳(たかぼうちだけ)では信仰の山として頂上に神様が祀 られているが、その内の一つに八天狗様という相撲好きの神様が祀られてある。村人達は 毎年七月二十六日になると相撲の取り組みを奉納する祭りを行ってきたが、この日の月は 何とも不思議だという。月が複数見えたり急に形を変えたり、奇妙な色をしていたりする そうだ。


◆定水庵の夜盗(吉井町)
上橋川内八幡神社の北佐々川岸に小さな御堂がある。ここには朝鮮半島から持ってきた金 の仏像が安置されているが、ある夜この金の仏像を盗もうと夜盗がやって来た。暗い中仏 像を背負い、夜明けになるまで歩いたので「もう大丈夫だ」と思ったら、なんと目の前に あの御堂がある。盗人は恐ろしくなって仏像を返すと逃げていってしまった。


◆兎の失敗(宮町)
昔、今では尻喰と呼ばれている地に一匹の兎がいた。兎が草を食べていると、庄屋の犬が通りがかった。兎は犬から逃げきる自身があったので悪戯心で、「君たち犬は兎の肉が好物だろう。」と言って自分を食べるよう犬に持ちかけるが、犬は「私は庄屋に飼われている犬で、そこらの野良犬とは違う。今はちゃんとした食事にもありつけるので、無理に殺生をしてまで喰おうとは思わないよ」と答えた。兎は「そんなことを言って、私を捕らえる自信がないのだろう」と馬鹿にすると、犬は怒って追いかけてくる。兎は前足が短く後ろ足が長いため、上り坂は得意だった。近くの山に逃げると、簡単に犬を引き離すことができた。 後日、山頂で兎を待ち伏せていた犬は「兎を喰う気はないがおまえは犬の誇りを傷つけた。本当は今にも噛み殺したいが、、今詫びを言うなら許してやろう」と言う。しかし前回のことで自分はどんな場所でも犬より速く走れると思いこんでる兎はまた犬を馬鹿にして逃げていく。しかし今度は下り坂のため兎は転んでしまって上手く走れない。ついには犬に食べられてしまった。


◆河童(がわとんぼ)と石仏
昔、宮村川にはがわとんぼ(河童)が多く住んでいた。彼らは尻子玉(宮村では痔子玉と言った)をとって川に引き入れて死亡させることが多いので村人は困り果てていた。当時波佐見村に澁江様というがわとんぼの元締めがいたので村人が頼みに行くと、澁江様は宮村に行きがわとんぼを集め、一緒にご馳走を食べようと持ちかけた。澁江様はがわとんぼには青竹の輪切りを、自分は柔らかい筍を食べていると、そのことに気付かないがわとんぼ達は「あんな硬いものを豆腐でも食べるかのように召し上がるなんて」と感心した。澁江様は二本の石塔を建て、「これが腐るまで尻子玉をとってはいけない。」と告げた。先程のことで澁江様を尊敬しきっているがわとんぼ達はこれを承諾し、以来子供達の尻子玉をとられることはなくなった。今でも時々がわとんぼが石塔が腐れたかどうか調べに来るので、石塔の下には苔がつかないつるつるとした丸い部分があるという。


◆水無しの池物語
有田の里、白河の地には昔から一匹の大蛇が住んでいた。近頃急に暴れ出し、昼夜構わず牛馬を襲うので農作業ができない、と村人は領主である後藤左衛門高宗に頼み込んだ。高宗は考えた末、弓の名人であった北九州若木村の鎮西八郎為朝を呼び寄せ、大蛇退治を頼む。為朝公は千余騎を引き連れて要所を固め、大蛇を待ち続けるが、為朝の計画を事前に察知した大蛇は姿を見せない。そこで、月夜にやぐらの上に女を立たせ、近くで女の黒髪を焼いてその臭いで大蛇を呼び寄せようと試みた。おとりの女には、かつて無実の罪で高宗が追放した家臣、松尾弾正之助の娘である万寿姫が松尾家復興のため名乗り出た。この作戦で大蛇をおびき出すことに成功した為朝公は大蛇の右目を矢でうち抜いた。大蛇は水無池に逃げ込むも、同じ作戦でまたおびき寄せられ、今度は左の目を奪われてしまう。最後は白河の地にある竜門の岩窟に逃げ込むも、梅野村の盲目の座頭の短刀で仕留められた。


◆葉山のお銀だぬきと長田山のお米ぎつね
昔、葉山という山にお銀という狸がいた。長田山という山にはお米という狐がいた。二人が出会うと、どちらが化け上手か化け比べをしようという話となった。まずお銀が化けると、見事な芸者姿できれいな三味線を奏でる。お米は勝てる気がしなかったので、二日後に大名行列が来るのを思い出すと「二日後大名行列に化けるから見に来て欲しい」と言う。二日後大名行列が通り、お銀はあまりの見事さに感心して手を叩き、お銀さんだと勘違いして大名行列を褒めちぎった。「無礼者!」という声がかかり、お銀と、こっそり近くに隠れていたお米は捕まってしまう。お米が事情を話すと、殿様は「人を化かすのは仕方ないことだが、人や友達をだましたり、嘘を言うのはよくない」と諭したそうだ。


◆一里島
ある月の明るい夜、大将格の松浦島の提案で、島たちは町に行って酒を飲もうという話になった。島たちは皇后岬をまわって佐世保湾に入ると、飲んだり歌ったり踊ったりで大騒ぎをした。あんまり騒いでたので月が西の方に沈みかけ、夜が明けそうなのにも気付かなかったが、松浦島が何とか気付いてみんなをせき立てるように帰らせた。ところが一番若い一里島が酔いつぶれてどうやっても目が覚めず、みんなは可哀想に思いながらも一里島を残して去っていった。
それで、一里島は今も佐世保湾の中に一人残されているのだそうだ。また、その時から百あった島が一つ減ったので九十九島と言うようになったという話だそうだ。



◆ガワッパ(相浦町)
ある夏の夕暮れ、ある村人が大野川の飛び石を渡って田原の方へ行こうとしていると、川上から金の杯が流れてきた。思わず手が出そうななったが、以前からこの川ではガワッパが出ると聞いていたので、これもおそらくガワッパに違いないと思い、手にしていた刀で金の杯に斬りつけた。すると案の定、杯はガワッパの姿になり、斬られた片腕を残して逃げていった。村人はその腕を持ち帰り、家のタンスの中で大事にしまうことにした。すると毎日夜になると、戸がそっと叩かれ、「腕ば返してくれ、腕ば返してくれ」と声がする。村人は”相浦谷の子どもの尻子玉は抜かないこと、口約束では信用できないから大野川の大岩に誓いの言葉を書くこと”を条件に返してやった。
ガワッパはしばらくは辛抱していたが、やはり子どもの尻子玉が食べたくてしょうがない。「この誓いの言葉さえなければ…」と思い、削って誓いを消そうと試みた。しかし削る方向が悪かったのか、一層彫りが深くなり、より消えなくなったという。
それからは、相浦谷では水に溺れて死ぬ子は少なくなったそうだ。