■西彼杵郡の民話・伝説


◆草住さまのバチ
その昔、ある商人が高田川に沿った草道を通っていた。道中、小便を我慢できなくなった商人は近くの茅藪の中で用を足す。するとその日の番から寝小便が止まらなくなり、原因を考えてみるとどうも昼の小便らしい。来た道を戻って例の茅藪の中を見てみると、草住さまがあった。商人は草住様に小便をかけてしまったから罰があたったのだと知り、お詫びに草住様の周りの草を刈り、御神酒とお供え物を奉り、手を合わせてお詫びをした。するとその日から商人の寝小便は止み、いつしか「草住様にお参りすると小便しかぶりが治る」と噂が流れ、お参りする人が絶えなかったという。


◆くるまきのいたずらダヌキ
昔から川平に抜ける細い山道には栗の木が続いており、秋には実が撒かれたように落ちるので皆その山道を「くるまき」と呼んでいた。そこには悪戯好きの狸の親子が住んでいて、特に平木場に住む孫七さんは小心者でお人好しなため、いつも狸に騙されていた。ある日仕事帰りに酒を飲んできた孫七さんは帰りの山道でいつものように悪戯に遭う。日頃は怖がる孫七さんも、その日は酒の力もあって「狸を捕まえよう」と考えた。一方狸は何度も孫七さんを騙すのに成功していたので、今回は臆病な子狸一匹に任せることにしたが、なんと孫七さんに捕まえられて家に連れて行かれてしまう。孫七さんは家の中に子狸を縛り付けたまま寝てしまうが、夢の中に狸の親が現れて、「何でも言うことを聞くから子供を返して欲しい」と言う。孫七さんは今後村人に悪戯をしないことと、自分に嫁を連れてくることを条件に出した。翌朝、夢のことを思い出した孫七さんは子狸を外へ帰してやった。
その年の秋、孫七さんの元には隣村からとても美人の嫁がやって来た。また、それ以来狸の悪戯に遭う者は一人もいなくなったという。


◆アオと松兵衛
昔、松兵衛という百姓と、畑を耕すためのアオという名の馬を飼っていた。アオはたいそう立派でよく働くので、松兵衛はアオをたいそうかわいがっていた。しかしある年の秋、馬の伝染病が村中で流行り、アオもそのせいで命を落としてしまった。松兵衛はとても悲しみ、何日も涙を流した。村人は集まって話し合いをし、「これは天罰に違いない、神様を拝まないことにはどうにもならないだろう」と言って、村を見下ろす松の木の下に、馬を祀るお堂を建てることにした。それからは伝染病はぱったり止み、あたりでは以前のように馬を引く人々の姿が見られるようになった。
このようなことがあってから九月十八日を祀り日に決め、毎年供養をしてきた。これが馬頭観音のはじまりだという。


◆唾呑城(つのみじょう)のみはり姫
今から五百年ほど前、大村藩主大村純忠の藩下にあった長与村は地頭の長与太郎衛門純一が治めていた。純一はとても横暴で、親族の間でも悩みの種だったが、そんなことは気にも留めず、常々城山の浜城に籠もりながら純忠への謀反の機会をうかがっていた。純一には加世という娘がいたが、親族も友達もおらず、いつも長与の自然を眺めて暮らしていたので村人は加世のことを"みはり姫"と呼ぶようになっていた。ある日、純一の謀反の思いを知った純忠は浜城へ兵を送った。しかし城山は急勾配のため喉が渇き、苦戦していると、先頭を務めていた大村藩第一の忠臣彦次郎が「梅干し!梅干し!」と声をあげた。その声に兵は唾を呑み呑み勢いを盛り返し、浜城を攻め立てた。 城が落ちるより先に純一は手下と共に加世の手を引きながら逃げていたが、追っ手が迫っているのを知ると、足手まといの加世を切り捨て、長与の海に捨てていってしまった。その後純一は交友のあった深堀藩に逃げたとのことだが、村人からは城の見張りと勘違いされ、友人もおらず最後には父に切り捨てられた加世の生涯はあまりにも可哀想なものだった。


◆たんたん岩の杢太郎
その昔、村の役人の子で「杢太郎」というとても勇敢な子供がいた。杢太郎は毎日武術の稽古に励み、その帰りに裏山にそびえる「たんたん岩」に登るのが日課になっていた。
ある日、杢太郎がいつものようにたんたん岩を登っていると、地鳴りと共に目の前が真っ暗になり、杢太郎の体を何かが締め付けてくる。 すると岩の中から「これは鞍馬揚心流の絞め技だ。この苦しさを覚えておけ。これから世は乱れてくる。おまえは村を出て鞍馬に向かい、揚心流の修行をするのだ」と声がする。正気に戻って辺りを見ると、一羽の黒い烏が飛び去るのが見えた。
それから七年後、杢太郎は修行を終え、たくましい姿で村に戻ってきた。その頃世は乱れ、村でも悪事は絶えなかった。杢太郎は揚心流の絞め技を用い、決して相手の命を取ることなく悪人を捕まえていった。それからというもの村は七年前と同じように平和でのどかな村になったという。


◆鍋石さんとハゼの木
昔、岡郷の毘沙門神社の麓に七兵衛とサヨという働き者の夫婦が住んでいた。夫婦は山を開墾して大豆や芋を作って暮らしていたが、ある日、誤って毘沙門神社の神木のハゼの木まで切り倒してしまう。その晩、七兵衛は突然体中が痒くなってしまう。症状は悪化し、高熱を出して三日三晩寝込んでしまった。村中の医者に診てもらっても直らず、サヨはハゼの木のたたりだと思い至る。七兵衛は「毘沙門のハゼの木を切ったせいなら、似たような木を探して祀れば直るかもしれない」と思いつき、岡郷の山の中を来る日も来る日も探し歩いた。 ある日、ついに七兵衛は大ハゼの木を見つけることができた。隣には直径二メートルもある鍋のような石があり、真ん中のくぼみにいっぱいの水がたまっていた。七兵衛がその水で体を洗い清め、大ハゼに深く頭を下げて神木を切った罪を詫びると、不思議なことに体のかゆみは引いていった。夫婦はお礼に七色菓子と豆腐をお供えして、大きなハゼの木を祀った。
後に鍋のような大石は鍋石さんと呼ばれるようになり、その水は枯れることなく皮膚病に効くと言い伝えられ、遠くからも人がお参りに来たという。


◆「白菜」のはなし
大正時代のはじめ、高田郷の百合野に辻田長次郎という果物や野菜作りの名人が住んでいた。長次郎は畑仕事の傍ら猟もしていて、ある日一頭の大きな猪を射止めた。家ではさすがに処理できないので、叔母が経営している長崎の旅館に持っていくことになった。妻が旅館に持っていくと、中国人が土産として旅館に白菜を持ってきているところを目にする。当時白菜は中国からの輸入のみで、あまりにも高価で一般家庭には出回るものではなかった。妻は猪と交換で白菜を分けてもらって持って帰ると、それを知った長次郎は旅館に頼んで中国人から白菜の種を分けてもらう。最初は失敗ばかりだったが、やがて立派な白菜ができるようになり、付近の住民に種を渡して百合野一帯で生産を始め、辻田白菜の名で有名になった。また品種改良に努め、その種が九州各地に渡って飛ぶように売れた。その利益は公共事業に当てられ、その功績はすばらしく辻田白菜の記念碑が建立されている。


◆川を守った鈴(りん)
昔、氷取(くうっとり)の辺りが一面田んぼだった頃、定林から寺の下にかけて、長与川が大きく曲がっているところは大雨になると土手が切れて稲が台無しになっていた。藩は工事責任者として森源次という人物を工事責任者として治水工事を行うも、翌年に十年に一度あるか無いかの大雨が降り、せっかく造った堤防は無惨に崩れてしまう。「これは神様のたたりでは」と村人が口々に噂するので源次が祈祷師を呼んで相談すると、「これは人柱を立てるしかない」と言う。翌日、源次が皆に祈祷師の言葉を伝える前、恋人に袴のすそのやぶれに横縞のつぎあてをするよう頼む。その後寄り合いの時間になり皆に祈祷師の言葉を伝え、人柱になってくれる者を探すが誰も申し出ない。仕方なく、「着物に横縞のつぎあてのしてある者にしよう」と言うと、誰もおらず、はたと気付けば横縞のつぎあてをしているのは自分であった。源次は心を決め人柱になり、「命のある限り鈴を鳴らすので、これが聞こえなくなったら工事を再開してくれ」と言い残し、穴へ入っていった。
鈴が聞こえなくなったのは二十一日後。皆は工事を再開し、堤防を完成させた。それ以来川の氾濫はおさまり、村人は感謝の意を込めて水神様として祀り、祠を建てたという。


◆河童の恩返し
長与川の中流に、川の水が枯れても常に満々と水をたたえている千石淵というところがある。そこには昔松蔵という釣り好きの少年が住んでいたが、ある日頭に皿、背中に甲羅を背負った不思議な生き物に相撲を挑まれ、負けて釣った魚を全部捕られてしまう。帰って父親に聞くと、それは助右衛門の化けた河童とだという。話を聞くと、助右衛門は相撲の強い男で、中尾城の殿様に仕えていた。助右衛門は殿様に井戸を掘るよう命じられ、村人を集め掘り始めるも、城は山の上にあるためなかなか水が出ない。なんと麓の千石淵まで掘ってようやく水が出た。助右衛門が殿様に報告すると、村人全員分の褒美を助右衛門に渡した。助右衛門は褒美を村人に分けるのが惜しくなり独り占めをするも、罰が当たったか数日後掘った井戸に落ちて命を失ってしまう。村人は心優しかったので、強欲な助右衛門を憎みもせず水神様として祠を建て祀った。亡くなった助右衛門は心を打たれ、河童となって水を守ったという。だから、千石淵の水は枯れることがないそうだ。


◆籐の棟の大蛇
昔甚平と作次郎という仲のいい百姓が住んでいた。ある日籐の棟の堤の近くに木を切りに出かけていった時、二人は木の上に大蛇が横たわっているのに気付く。作次郎はあまりの怖さに腰を抜かすも、甚平はそんな彼を放っておいて一人山を下って逃げてしまった。大蛇はふるえる作次郎の頭の上を通り、籐の棟の堤の中に消えていってしまった。作次郎はほっとした反面自分を見捨てて逃げた甚平に腹を立て、それ以来二人は仲が悪くなったそうな。