■松浦市の民話・伝説


◆大蛇の池(長野免山崎 志佐川)
昔、大蛇が百姓の娘を飲み込んだ。親は悲しみ、大蛇を討って娘の供養をしようとして、近所 の人々の協力のもと池の水を落とした。ふもとの大川よりも六,七メートル高い池はたちま ち干上がったが、空が急に曇り、稲妻は走り、現れ出でた大蛇に人々は恐れ逃げ帰った。住処 を失った大蛇は木に登り、大きな目をぎょろつかせている。雨風は止まず、家々の戸や壁は崩 れ池の周りはすさまじかった。
村人は吉井の直谷の城に助けを求め、直谷の山城守は四、五人をつけて古城筑後(こじょ うちくご)に大蛇退治を命じた。筑後は「南無日輪摩利支尊天」と唱え、大蛇の目を射抜き、 池に飛び込み大蛇に止めを刺した。大蛇は身の長さ三丈三尺にも及ぶ一頭八尾の悪霊であっ た。山城守は筑後守の武勇を称え、褒章に支佐郷内田を与えた。しかしその後筑後守は大蛇 の祟りで災難が続いたため、その骸を池の下の山に埋め、八尾大明神を祀っている。


◆鬼の岩屋
上志佐の赤木部落の石盛山には鬼の岩屋と呼ばれる、山のように大きな岩が積み重なったところがある。昔この山の麓には彦四郎という百姓が住んでいた。ある夜彼の家に鬼が訪ねてきて、「石盛山の上に岩屋を作るので許しをいただきたい」と言う。彦四郎は困った挙げ句「明日の明け方、一番鶏が鳴くまでならよい」と言った。しかし鬼の工事は想像していたよりもずっと速く、夜明けまでに完成しそうだったので彦四郎は一番鶏のものまねをした。すると鬼は慌てて山を下ると壱岐の島に逃げていったという。


◆上人原(御厨町)
昔、御厨町では雨がまったく降らないため作物も取れず、村の人々が次々と飢え始めていた。ある日、村人たちは集まって雨乞いをすることを決意した。村人たちが雨乞いの場所に行くと、ちょうどそこを紫色の袈裟を着た一人の上人が通りかかった。村人たちのただならぬ様子に上人が訳を聞くと、上人はしばらく思案した後、穴を掘って自分をそこへ埋めてほしいと告げた。村人は上人様を埋めることは出来ないと拒んだが、「私の命は皆の命です。はやく」と強い語気で言うので村人たちは泣きながら上人を埋めた。
呼吸用につけた竹筒から、何日も何日も上人のお経が響いた。
二十一日目の朝、お経が止んだ。村人たちが泣きながら穴を掘り返そうとすると、にわかに空が曇り雨が降り始めた。その雨は紫色ー上人の袈裟の色をしていた。
村人は上人に感謝し、穴の横にお堂を立てて上人をお祀りした。
それから、いつしかこの辺りを人々は上人原と呼ぶようになったという。


◆鶴のお土産(御厨町 田代)
昔々、太郎べえさんというお爺さんが住んでいた。ある日太郎べえさんは羽を傷つけた鶴を見つけ、家に連れ帰って手厚く傷の手当をした。四五日して鶴が元気になったので太郎べえさんは鶴を放してあげた。
その日の夜、太郎べえさんの夢の中に助けた鶴が現れた。鶴が言うには助けてくれたお礼にここに糞をしていくという。この糞を顔に塗ってくださいとのことだった。太郎べえさんが起きて周りを見渡すと本当に鶴の糞があったので、汚さに躊躇しながらも顔に塗ると、見る見る太郎べえさんは二十歳ほどに若返った。すぐにお婆さんも起こして若返らせると、糞がまだ残っているのでお隣の次郎べえさんにも分けてあげることにした。次郎べえさんも同じように若返らせると、次郎べえさんは「儂は金も田畑も持っているが若さだけは持たんじゃった。これで全てがそろった。お礼に財産の半分をやる」と言い、太郎べえさんは豊かになった。
彼らは鶴の恩を忘れないよう、年の暮れにつるしばを飾り、“若さをもろうた”ということからもろもき(うらじろ)を、“嬉しい”からしいの木を飾ることにした。この話が広がって田代では正月にこの三つを必ず飾るようになったという。


◆庄屋の忠犬(御厨町 小船)
ある日、小船の庄屋が村の寄り合いに昼から出かけ、帰る頃には夜になっていた。家に着くと、飼っている犬が何やら怒っているように吠えかかってくる。腹が減っているのかと食べ物をやっても効果なく、今にも飛び掛らんばかりばかりに吠え続けた。温厚な庄屋もついに腹を立てて、腰の刀で犬の首を跳ね飛ばしてしまった。切られた首は庄屋の頭の横を抜けて、門前の木の上に飛び乗った。つられてそちらを見やると、木の上に大きな大蛇がいた。その今にも庄屋に食らいつこうとしている大蛇の首に、犬の首が歯や首の切り口から血を流しながらもしっかりと噛み付いていた。
「あんなに吠えていたのは大蛇が俺を狙っているのを教えるためだったのか」と気づいた庄屋は深く後悔し、主人のために命を落としてまで尽してくれたこの犬を手厚く葬り、祠を建てて今宮神社と名づけたという。


◆きつねのお産(御厨町 田代)
昔、大岳の山の中に仲のよい夫婦の狐が住んでいた。嫁のほうは身ごもっており、ある夜ついに産気づいた。初めてのお産なのでなかなか生まれず、旦那さんは見かねて人に化けて人里から産婆を連れてくることにした。
産婆さんは名も名乗らない、山奥の見慣れない家に住む男を不思議に思いながらも見事にお産を成功させた。旦那さんはお礼にと分厚いのし袋とご馳走の入った折箱を差し出した。
その夜里の長者屋敷ではめでたいご祝儀があっていたが、そこにあったのし袋と折箱が一つずつ無くなっていたのに誰も気づかなかったという。


◆いたちと強松さん(志佐町 上志佐)
大正の初めの頃、強松さんという大変働き者の男がいた。ある日強松さんが山へ薪を採りに行くと、一匹のいたちがいた。いたちは驚いて岩穴に隠れたが、強松さんはこのいたちを捕まえようと考えた。頭を下げて手を穴に近づけて待っていると、強松さんがいなくなったと思っていたちが出てきたので、そこを強松さんは力いっぱい押さえつけた。いたちは暴れて強松さんの指に噛み付いたが強松さんは放さず、いたちの最後っ屁にも耐えて見事いたちを捕まえた。いたちの毛皮は五十銭(今の三千円)になるので強松さんは大喜びだったという。


◆伍作どんとこうぞう鳥のかか(志佐町 上志佐)
長坂というところに伍作というよく働く百姓がいた。ある日親戚の結婚式に呼ばれた伍作は酒をたらふくご馳走になり、お土産を藁のつと(稲藁で作った入れ物)に詰めて帰途についた。日はすっかり暮れており、提灯を持たない伍作は月明かりを頼りに帰っていった。臆病な伍作は急いで帰っていると、突然「グギャー、グギャー」と化け物のような叫び声が響きわたった。伍作が慌てて走り出すも、声は伍作を追って「グギャー、グギャー」と叫び続ける。やっとのことで一軒の民家を見つけた伍作は家の中に飛び込んだ。「伍作さん、どうした」と言う家の者に事情を話すと、「それはこうぞう鳥のかかだ。伍作さんがご馳走をぶら下げて帰るもんだからにおいに釣られて追っかけて来たんだろう。」と語った。伍作がつとの中を見てみると、ご馳走は全部無くなっていて、残っているのは里芋の煮つけだけだったという。


◆化け物と山姥(志佐町 上志佐)
この村のどこか高い山には化け物が住んでいるという。顔も毛だらけ、牙を生やし、口は耳まで裂けているという。化け物は嫁の山姥と二人でうさぎや鹿を食べながら暮らしていたが、山の獣が少なくなったので山姥が里に下りて人間を取ってくることになった。
化け物は人間の美しい女に化けると、一軒の民家を訪ねた。そこには一人の若者が住んでいて、女が道に迷ったので一晩泊めてほしいと言うと快く女を家に上げた。しばらくして若者が湯浴みを始めたので、女は「背中を流しましょう」と言って後ろから近づくと、若者の入ったたらいを持ち上げると、元の山姥の姿に戻って頭の上にたらいを持ち上げたまますごい勢いで山へ走り出した。
若者が何とかして逃げようと考えていると、ちょうど前の方にちょうどいい高さの木の枝があったので、すれ違いざまにその枝にぶら下がった。山姥は力いっぱいたらいを持ち上げていたのでそのことにまったく気づかなかった。
山姥は化け物のところについて初めて若者がいないことに気づいた。それではと今度は化け物が里に下りて捕まえてくることとなった。
一方若者は枝から降りると一目散に我が家へ駆け出した。家に着き母親に事情を話すと、化け物か山姥が引き返してくるので囲炉裏に火をくべるように言われた(獣や化け物は火が嫌いなため)。
里に下りてきた化け物は家の中を覗いて火が赤々と燃えているのに気づいた。これでは普通に近づけないので、蜘蛛に化けて天井から若者の生き血を吸ってやろうと考えた。するすると若者の首筋めがけて降りていると、母親が夜に巣を作らないはずの蜘蛛がおかしな動きで降りてきているのに気づき、火箸で思い切り叩きつけた。すると「ギャー」という大きな叫び声とともに蜘蛛は囲炉裏の中に落ちていった。火に焼かれて本性を出した化け物は、火の中で苦しみながら死んでいった。
それから化け物の嫁の山姥もいつの間にか山から逃げ出し、村の人たちも安心して暮らせるようになったという。


◆お化けつぼ(御厨町 田代)
つづら山の「くわんすころばし」は覆いかぶさる木の枝のせいで昼でも暗い、不気味な山道だ。ここには化け物がいるとかねてから噂されており、それを聞いた村一番の豪傑おじいが退治してやるといって出て行った。
日が暮れるのを待って出かけていくと、くわんすころばしはしいんとして真っ暗闇だった。おじいが歩いていると、不意に頭の上の木の枝が揺れた。同時に「からってけ〜」と細い震える声がした。おじいはその声の方を睨みつけると「よおし来い。そぎゃんからわれたかならかろうてやる」といって背中を向けたそうだ。化け物は背中にずしっとのしかかった。重すぎて、村一番の力持ちといわれるおじいもついふらついてしまった。「なんの、化け物には負けられん」と踏ん張り山を下った。
家に帰り着いて、背中の化け物を振り落としてみておじいはびっくりした。なんと化け物は大きな大きな壺だった。
翌日、「おじい、壺の口が光っとる」と騒ぐおばばに起こされて見てみると、壺の中には大判小判がぎっしり詰まっていた。
おかげでおじいの家はお金持ちになったとのことだ。


◆海坊主(星鹿町)
暗くなって、伝馬(小船)で魚釣りに行ったときの話だそうだ。波止場から櫓をこいで沖に出ると、カンテラの灯に惹かれて海の中から白いものが近づいてくる。それは伝馬の縁にしがみつくと「水ば飲ませておくれ」と何度も言うそうだ。伝馬のお爺さんは驚きながらも心優しいので柄杓に水を汲んで持っていくと、その柄杓で海の水を船の中に入れて沈めてしまうそうだ。だから海坊主が頼んできたときには柄杓の底を抜いてから渡してあげないといけない。
海坊主は海の凪いだ日が出やすいとのことだ。頭が白くして顔がのっぺらぼうで、触られると冷たいという。


◆かんすころばし(星鹿町)
雨が降って外に出られないとき、子供たちは家の中で騒いで遊ぶ。お爺さんお婆さんはそんな時、「かんすころばしのきよるごたんぞ」と言うのだそうだ。すると子供たちは怖がってすぐに大人しくなるという。
かんすころばしは城山などに住んでいて、大風や台風の時、たくさんの松の木を揺すったり、家の雨戸を叩きつけたりして暴れまわる。この激しい音は、子供たちにとって恐ろしい化け物のうなり声に聞こえたという。

※お化けつぼの「くわんすころばし」と同義か。語源は不明だが、おそらく山の神か何かだったのだろう。


◆めひとつぼう(星鹿町)
夜遅くなっても寝ないで騒いでいると、隣の部屋で寝ているお爺さんお婆さんから「よう寝ん子はめひとつぼうが出てきて目ば取って食べらすよ」言われるという。
めひとつぼうは目が一つの化け物で、夜眠らない子供の目を取って回り、自分の一つしかない目をだんだん大きくしていくのだそうだ。 めひとつぼうは台風の目を想像して考えられたお化けだという。


◆長者と河太郎(星鹿町 青島)
昔、青島は崎の島、中の島、南島の三つに分かれていた。潮が引いた時は渡れても、潮が満ちると船を使わないと渡れなかった。当時島を治めていた中の島の「郡の長者」は何とかして三つの島を地続きにしようと思い、島の皆に呼びかけて大工事をすることにした。島中の人々が力を合わせ、雨の日も風の日も負けずに作業を続け、島を分かつ海は少しずつ埋まっていった。 ところが、その頃から不思議なことが立て続けに起こった。小屋に直していた作業道具が勝手に海に流されたり、以前に作った石垣が壊されたりしていた。島の人々は海を陸に変えているのだから海神様が怒ったのだと噂したので、長者は三つの島の神社にそれぞれ七日間ずつ願掛けをした。するとある夜三人の神様が現れ、工事の邪魔をしているのは河太郎一家だと告げた。河太郎の頭にあって話をつけるべきだと神様は語った。
長者は若い男を連れて夜の工事場に行くと落とし穴を掘り、その上に河太郎の好きなだんごを乗せて河太郎を待った。しばらくして、様子を見に来た河太郎の頭が落とし穴にはまって捕まった。長者は河太郎の頭を家に連れ帰ると手をついて落とし穴の非礼を詫びた。そしてたくさんのご馳走を出し客人としてのもてなしをしてから「青島のために河太郎一族の力を貸して欲しい」と頼んだ。河太郎の頭は長者の心意気に胸を打たれ、大きくうなずいた。そして昼は人間が、夜は五百人いる河太郎たちが工事をすることとなった。 長者は工場場に明かりを取り付け、五百個のだんごを用意して待った。日が暮れると河太郎たちが現れ、だんごを食べた後一斉に働き始めた。河太郎は力持ちの上すばしっこいので工事は見る見るはかどった。
工事を始めて五年目の七月三十日、ついに島は一つになった。その日は人間と河太郎の区別なく手を取り合って喜び合った。
それから四五日後、長者は河太郎の使いに呼ばれた。頭が倒れたという。長者が河太郎の頭のもとへ行くと、頭は「私は初めてあなたに人間と同じ扱いをしてもらいました。それで人間と河太郎が仲良く幸せに暮らせることを知った。今からもこのことを一族の者たちに言い聞かせておく。死んだ後は七郎神社のよく見える、水のたまった場所に埋めて、お墓として大きな石を立てて欲しい。その墓石が土にならないうちは河太郎一族は決して人に悪さはしない」と言った。その後、頭は静かに息を引き取った。
長者は工事が立派に完成した恩を忘れないために遺言どおりに丁寧に弔ってやった。
それから毎年七月三十日はおだんごやお酒を供えてお礼をすることになっているそうだ。


◆人間には歯が立たん(調川町)
調川の堤には河太郎が一人で住んでいた。河太郎が人家の明かりを眺めていると、急にその家に行きたくなった。中を眺めると、皆でご馳走を食べていたのできっと五月の節句をしているのだろうと知れた。河太郎は仲間に入れて欲しかったが、手ぶらでは申し訳ないので堤で二匹の鯉を捕まえて人家に下りていった。家の人は河太郎を快く迎え、ひとしきり騒いだ後は腕相撲大会となった。そこでは河太郎に敵う者はいなかった。一息ついて河太郎がご馳走の詰まった重箱のほうを見ると、そこのおかみさんと子供が筍のにしめを美味しそうにガリガリと食べていた。「人間は女子供でも竹ばがりがり食べれるほど歯が強かとばい。人間は恐ろしか。歯が立たん」と言って、噛み付かれたらどうしようとヒーヒー言って逃げ帰ったという。


◆河童石と喜左衛門(御厨町 西木場)
昔、西木場の坂瀬川には河童一族が住んでいた。畑を荒らされ、河で泳ぐ子供たちは尻子を抜かれて、皆河童の悪さに迷惑していた。たまりかねた村人たちは村一番の豪傑喜左衛門に河童退治を頼んだ。喜左衛門が百姓に化けて川に行くと、川上から大きな魚が白い腹を見せてぷかぷか浮かんでくる。喜左衛門は思わぬ獲物に喜んで飛び込み獲ろうとしたが、すんでのところで思いとどまり、これは河童の仕業かもしれないと考えた。河童は飛び石や魚に化けて人を川に引っ張り込むと聞いていたからだ。喜左衛門は網で遠くから魚を掬い上げると、腰の鎌をちらつかせ魚を解体しようと独り言を言った。河童はたまらず正体を見せるも喜左衛門に取り押さえられ、「いつも村人に悪さをするのはお前たちだな、もう許せん、覚悟しろ」と怒鳴りつけられた。河童はぶるぶると震えながら必死で命乞いをした。心優しい喜左衛門は河童を許してやりたくなったが、このまま逃がしてまた村を荒らされてはたまらない。そこで川の近くにある大きな石を指差し、「あの石が腐れるまでお前たちは一匹たりともこの川から出ちゃいかん。この約束が守れるなら命だけは助けてやる。」と言った。河童は一族皆に守らせると約束すると川底深く潜っていき、それ以来河童の姿を見かける者はいなくなったという。


◆おめかし大岳様(御厨町 板橋)
昔々、暑い夏の日に付近の神様方の寄り合いがあることとなった。大岳山の神様にもそのお触れが届いた。大岳山の神様は女の神様なので、あるだけの着物の中から一番きれいなものを探し、化粧も念入りにしてようやく出かけた。しかし準備に時間がかかりすぎたため、既に神様の話し合いはとっくに終わっていた。その日の話し合いは雨の分配についての話し合いだったそうだ。あんまりおめかしに時間をかけて話し合いに間に合わなかった大岳様は雨の分配を受けることができなかった。それで大岳山付近では今でも夏の雨がなかなか降らないのだという。


◆かんねどんの話<どじょう鍋>(御厨町 田代)
かんねどんの村で寄り合いがあった。「寒かけん、どじょう鍋でんしゅうか」ということになった。みんな銘々がどじょうや野菜を持ってきた。かんねどんだけが豆腐を持ってきた。
鍋を火にかけ、銘々持ってきたものを入れた。かんねどんはみんなが入れた後に持ってきた豆腐を入れた。ぐつぐつ美味しいにおいがしてきて、「さあ食べよう」となった時、かんねどんは「俺は豆腐でよか」と言ってさっと掬い上げてしまった。みんなはどじょうを食べようと鍋をかき回したが何故か一匹もおらず、しかたなく野菜ばかり食べたということだ。
きっと熱さに耐えかねたどじょうは豆腐の中に潜り込んだのだろう。


◆ぐずどん<売れない商い>(御厨町 田代)
昔々、山の中の一軒の小屋にぐずどんとおばばが二人で暮らしていた。ぐずどんは毎日山の中で遊んでいたので十歳になっても何も知らなかった。ある日、おばばは「お前も十歳になったのだから商いもしきるようにならんばいかん」と言って山で獲れた茶・栗・柿を町まで売りに行かせることにした。初めて町まで出てきたぐずどんは人の多さにびっくりしながらも、大きな声で「ちゃくりかきーちゃくりかきー」と言いながら歩いた。町の人は「ちゃくりかき」が何だかわからず、結局ぐずどんの品物は一つも売れなかった。
山に帰っておばばに事情を話すと、「そう言ったってわかるもんな。茶は茶でぶんぶんに言わにゃ売るるもんな。」と言って翌日もぐずどんに行かせることにした。
また町まで出てきたぐずどんは「茶はぶんぶん、柿ゃぶんぶん、栗ゃぶんぶんいらんか」と言って売り歩いた。町の人がくすくす笑うので顔を真っ赤にしながら大声で売り歩くも、また一つも売れなかった。
山に帰って話すと、「違う違う、茶は茶とべつべつに言わんばとたい」と言ってもう一日売りに行かせた。しかし今度も「茶はべつべつ、栗ゃべつべつ、柿ゃべつべついらんか」と言って売ったのでまた売れなかった。
おばばはその話を聞いてため息をつき、「お前を一人で行かせたのが間違いじゃった。明日は一緒に行くけん」と言った。
翌朝、おばばはぐずどんに荷物を持たせて町に行くと「茶はいらんか」「栗はいらんか」「柿はいらんか」と売って歩いた。ぐずどんもおばばの真似をして同じように言ったので、たちまち籠の中の品物は全部売れて、二人はほくほく顔で山に帰ったという。


◆ぐずどん<和尚様はどこじゃ>(御厨町 田代)
ある日、隣のお爺さんが亡くなった。おばばはぐずどんに和尚さんを迎えに行くよう頼んだ。ぐずどんは和尚さんを知らなかったのでどんな人か聞くと、おばばは黒い着物を着ている人だと教えた。ぐずどんが探しに行くと、野原で黒い牛が草を食っていた。「黒か着物を着とる。これが和尚様だ」と思ったぐずどんは牛に葬式に来てくれるよう頼んだ。牛は「もう」と啼くだけで動きもしなかった。ぐずどんが帰っておばばに言うと「そりゃ牛たい。牛のごと太かもんな。もっと細か。それにそぎゃん下のほうにはおらん」とおばばは怒った。ぐずどんが牛のところを通ってしばらく行くと木の上にカラスが止まっていた。「黒か着物着て牛より細かたい。それに上のほうにおらす。和尚さんに間違いなか」と言ってカラスに葬式に来るよう頼んだ。カラスは「あほう、あほう」と言って飛んでいってしまった。


◆九ぼう様の二斗もち(御厨町 田代)
昔々、この辺りに九ぼう様というとても乱暴な侍がいた。大きな金棒をずっしんずっしん突いてそこらを歩くのでその音が一里四方に響き渡るので皆迷惑していた。「どうにかして金棒を突くのを止めさせられないだろうか」と村人たちは思案し、知恵者の庄屋の思いつきで、明日(十二月二十八日)行われる餅つきで大食いの九ぼう様に一斗餅を食べさせることとなった。食べられなければ金棒を預かる、食べきれたらもう文句は言わないという約束を、家来を通して九ぼう様に伝えた。九ぼう様は「今夜稽古してみよう」と言って家の者に餅を突かせ、片っ端から平らげてしまった。
翌日、約束の時がやってきた。九ぼう様は庄屋の家に用意された餅を次々に平らげていったが、昨日の餅も腹に残っているので次第に餅を取る手が遅くなっていった。ついに最後の一個を食べきると急いで家に駆け出し、「青もんがほしかぁ、青もんがほしかぁ」と言って家の青菜をバリバリと食べると、ひっくり返って死んでしまった。
お腹を開けてみると餅だらけだったが、ただ青菜の入ったところだけ餅が溶けていたそうだ。
それ以来、雑煮を炊く時は必ず青菜を入れるようになったと言われている。


◆どろぼう藤七(志佐町 上志佐)
昔々、志佐の村に藤七という泥棒の名人がいた。藤七の噂を聞いた村の庄屋は村のお宮日の日に藤七を呼び、いっしょに祭りの見物に行こうと呼びかけた。藤七はそれに快諾し、二人して祭りを見物していたが、ある時庄屋が「お前はたいそう腕のいい泥棒だと聞いているが、こうして歩いている儂の懐から巾着を取りきれるか。できるなら今日の祭りの酒代をたっぷりはずむんだが」と言った。藤七は喜んで「それではそのうちお言葉に甘えて盗りましょう」と言った。
一年に一度のお祭りなので、村の人々は皆庄屋に挨拶してくる。それに応えながら庄屋は見物していたが、風もあって肌寒かったこともあり庄屋は大きなくしゃみをした。
やがてお宮が近くなると庄屋は懐に残った巾着を確認して「どうだ藤七、やはりおまえの負けじゃったろうが。儂の懐から巾着を盗りきれなかったろうが」と言った。藤七は「いいえ、私は入れ物ごと盗るような悪い泥棒じゃないので、必要な分だけ盗らせていただきました。」と言った。確認してみると、一分銀と一文銭が何枚か足りない。いつ盗ったのか聞くと、村の人と話している隙に盗り、くしゃみの際に返したのだそうだ。庄屋はとても驚いたが、約束したことだったので怒りはしなかったという。


◆七頭半の鹿(志佐町 栢ノ木)
室町時代、松浦、志佐城の殿様が石盛山で鹿狩りを行った。鹿狩りをする前に、供の中にいた法師に今日獲れる獲物の数を占わせようということになった。法師の占った結果は「鹿七頭半」とのことだった。七頭はわかるが半頭とはどういうことか、体が半分の鹿がいるとでも申すのか、と腹を立てた殿様は無礼者の法師を切り捨ててしまった。
やがて鹿狩りが始まった。一頭二頭と数を重ね、終に七頭仕留めた後のことだった。山からまた一頭の鹿が追い出され、殿様たちは弓を構えて鹿を追いかけた。とうとうその鹿も何本もの矢を射られて仕留められたが、そこはなんと隣の佐賀の土地だった。仕留めたのは志佐の殿様でも倒れた場所は佐賀の土地ということで半分ずつ分けることとなった。
結局得られた獲物は鹿七頭半。法師の予言どおりになったが、誰もそんなことは気に留めなかった。ところがその日から、殿様が海に出ると船の片隅に、山に行くと木立の陰に血まみれの法師が姿を現すようになった。気味が悪くなった殿様は年寄りの家来に相談すると、家来は法師の墓を立ててやるべきだと言った。なんでもあの法師は平戸の出で、死に際に「平戸の城の太鼓の音が聞こえるところに埋めてほしい」と言ったそうなので、志佐城の西にある栢の木(かやのき)という山に埋めて墓を立てることにした。
するとそれからは殿様の周りには何も起こらず、志佐のお城も長く栄えたという。


◆丹後の人柱(今福町 人柱)
寛文十年(1670)、今福辺りを治めていた丹後守信貞という殿様は、海岸を埋め立てて田を作ろうと考えた。村人もこれに賛成し、工事を始めた。工事は着実に進み、いよいよ最後の潮止めをするばかりとなった。
ところがその日の晩、大きな波が来てせっかくできた潮止めを壊してしまった。村人は挫けずに工事をやり直したが、いつもあと一歩のところで大波に壊されてしまう。いつしかこれは海の神様が怒っていて、誰か人身御供に捧げなければいけないとの噂が広がった。工事の監督をしていた田代近松という人物は村人を一同に集め、誰か人柱になってくれないかと頼んだ。当然自ら進んで人身御供になろうとする者はいないので、「それでは今履いている袴に横ぶせがしてある人がいたら、その人に人柱に立ってもらうことにしよう」との話になった。皆袴を確認するが、運よく誰も横ぶせをしている人はいなかった。最後に田代さんが確認すると、なんと彼の袴には横ぶせがしてあり、人柱になるのは田代さんということになった。
そして大勢の人に見守られながら、田代さんは堤防に埋められた。「田代さんは自分から人柱になろうと心に決めてあんなことを言い出したのだ」と誰ともなしに田代さんを偲んでこう言うのだった。
田代さんには一人の娘がいた。器量良しで有名だったが、父が人柱に立ってからはふっつりとものを言わなくなった。それでも隣村の庄屋の長男にお嫁に行くこととなった。祝言も済んで庄屋の家に行くこととなったが、やはり何もしゃべらなかった。相手もこれに難色を示し、結局娘は実家に帰されることとなった。
帰り道、娘を乗せた籠が新しく埋め立てられた浜を通った。するとその時一羽の雉がケンケンと鳴きながら飛び出してきた。籠の傍に付き添っていた花婿が手にした弓で雉を射落とすと、娘が突然
「口故に 父は丹後の人柱 雉も鳴かずば うたれまじきに」
と歌を詠んだ。付き添ってきた人たちは「父の死を悲しんでものを言わずにいたのだ」と知り、花婿は喜んで娘を庄屋の家に連れ帰り、幸せに暮らしたという。


◆石童丸(星鹿町)
今から八百年前、星鹿半島の東北端にある城山の刈萱城には、加藤左衛門重氏という城主がいた。
ある日、重氏の側室の千里姫に男の子が生まれた。石童丸と名づけられた彼は重氏にかわいがられていた。しかし正室にとっては面白いはずもなく、正室はたびたび千里姫に嫌がらせをし、ついには千里姫を殺そうとまでたくらんだ。計画は失敗に終わったが、重氏は女の醜い争いに耐えられなくなって、ある夜ひそかに城を抜け出し、行方知れずになった。
主をなくした刈萱城の者たちは石童丸の成長を頼みにして育て上げてきたが、石童丸は成長するにつれて父を慕う気持ちが強まっていった。
ある夜石童丸が眠っていると「父は高野山にいる」とのお告げがあった。石童丸が母の千里姫にこのことを告げると、母も風の便りに父の消息は聞いていたようだった。とうとう二人は遠く離れた和歌山まで父に会いに旅立つこととなった。
やっとのことで高野山にたどり着いた二人だが、高野山は女人禁制なので母は麓の宿で待つことになり、石童丸だけが父を訪ねるようになった。分かれる際、母は「父上は左の眉毛にほくろがあるからそれを頼りに訪ねなさい。会えたらこの着物を着ていただくように」と衣を手渡した。
石童丸が高野山に上りあちこちを探していると橋の向こうから一人の僧が歩いてくる。すがるような思いで父のことを訪ねると、僧は石童丸の腰に差した小脇差を見てはっとするも、「その人は昨年亡くなられました」と言って石童丸をお墓に案内した。石童丸は墓にもたれかかるように大泣きした後、母からもらった衣を墓にかけ、泣く泣く山を下りた。
ところが母は長旅の疲れと持病のためにすでに亡くなっていた。母の弔いを済ませた石童丸は途方にくれ、再び高野山に上って前に会った僧の弟子となった。僧の名前は刈萱童心左の眉毛の上にほくろがあること、石童丸を見る優しいまなざしから石童丸は彼が父に間違いないと思うようになった。しかしいくら問いただしても刈萱童心は父と名乗らず、二人一緒に一生を送ったという。


◆小島新田(御厨町 大崎)
今から百六十年ほど前の話。御厨町田代村に前田平次郎という金持ちがいた。畑と山は持っていたが田は持っておらず、江迎の海新田を見てからというもの十年かけて海新田を作る準備を進めてきた。
いよいよ天保十四年(1843)の春、平次郎は大崎村小島の浅い海をしきって新田を作ることを決意した。平次郎をねたむ大崎村の林作や強い雨風による工事のやり直しなど、障害は多かったが弘化三年(1846)八月、四年の歳月を経て工事は完成した。いつしか人々はこの新田のことを「小島新田」と呼ぶようになった。海新田ができあがった日、平次郎は石垣の中に一匹の犬を生贄として埋めた。本当は生きた人間を埋めるのが当時の習慣で、一人の娘が選ばれていたが、平次郎がそれを拒んだので代わりに犬を埋めることとなった。娘の親は喜んだが、その娘も十八歳で亡くなった。一度は生贄から救われた娘の短い命を不憫に思い、海新田を見下ろす小高い丘の上に娘の墓を立てた。 平次郎は六十九歳で亡くなったが、息子の平四郎は父の仕事を偲ぶため、新田の北方に若宮神社を新たに祭った。その例祭は今なお十一月十五日に行われているという。


◆淀姫様(志佐町)
今から千八百年ほど前、神功皇后は妹の淀姫といっしょに新羅の国へ渡ろうと旅へ出た。お供の家来を連れて呼子まで来ると、皇后は淀姫に「これから私は海を渡る丈夫な船とこの海になれた船頭を集めなければなりません。あなたはその間に松浦を訪ねて景行社へお参りし、旅の安全を祈ってきてください。」と言った。淀姫は数人の供を連れて玄界灘を小船で渡っていった。小船は玄界灘の荒波に揺られ、一行は生きた心地もしなかった。
ようやく松浦に着いた頃には日はとっぷりと暮れていた。一行は朝から飲まず食わずで疲れきっていたが、とりあえず火をおこしてぬれた着物を乾かすことにした。その火が村人たちの目に留まった。風の噂で皇后様の使いが景行社に見えると聞いていたので村人は大急ぎで駆けつけた。村人たちは疲れている淀姫たちにそてつの実で作ったお団子を差し上げると、彼女たちはもてなしに感謝しながら美味しそうに召し上がった。
それから村人の案内で一夜の宿をとり、翌朝景行社へお参りした。
やがて皇后とともに呼子から新羅に渡った淀姫は無事に用事を終えて戻ってくると再び松浦の地に戻ってきた。この土地が大変気に入った淀姫は館を建て、村人たちと仲良く暮らしながら一生をこの土地で送ったという。
淀姫が亡くなった後、景行社跡に淀姫をお祭りし、淀姫神社となったという。
志佐宮日はこの淀姫のお祭りだという。その日は今でも村人がお団子を作ってお宮に供える慣わしが残っているそうだ。


◆元軍の残した釈迦像(鷹島町)
元寇の後、鷹島沖にて両眼に美しい宝石のはまった仏像が発見される。一度盗人に盗られるも、仏像本体は海中に捨てられ、後に再び海中から発見された。