■宇久町・小値賀町の民話・伝説


◆遠島者の墓(小値賀町)
昔、平戸藩の侍と他藩の侍数名が旅先で出会い、口論となった。口論は真剣勝負になり、一対多数ではあったが平戸の侍は相手を皆切り伏せてしまった。
その後、斬られた方の藩主から下手人を首にして渡せと申し入れがあったが、平戸藩主は罪人を替え玉にして侍を助け、その後侍を小値賀島に島流しにして身を隠させることにした。
しばらくの間侍は大浦に小さなあばら屋を建てて猟をして暮らしていたが、いつしか侍のことが相手に知られてしまう。藩主が困っていると、侍の兄が藩主のために弟の首を討ち取って来ると言い、藩主もやむなくそれを認めた。
数日の後、久方ぶりに再開した兄弟は喜び合ったが、弟は兄の意図をすでに見抜いていた。あった喜びも冷めぬうちに弟は切腹してしまう。兄は涙を流しながら首を白布に包んで、遺骸は村人に頼んで平戸へ帰っていった。大浦の人々は大浦の人々は遠島者の墓として自然の無明石の碑を建て、今もこれを祀っている。


◆甚五郎ごって(小値賀町)
今から千二百年前、浄善時の先祖に藤将軍近江公という人物がいた。この頃はまだ日本の隅々までは拓けておらず、そのため悪者がはびこり住民を苦しめていた。
藤将軍は孝仁天皇の命を受け、遠い都から九州に渡り、五島を平定した後小値賀にやって来た。当時小値賀の西には高麗島という大きな島があり、そこには土公悪鬼という悪魔の大将がいて、たくさんの悪魔の手下を使って小値賀の人々を苦しめていた。これを知った藤将軍は土公悪鬼征伐に向かったが、途中で早助と名乗る翁と背丈八尺五寸、二又角の大牛『甚五郎ごって』に出会い、それを供とした。そして翁が用意した神力丸という船に乗り、高麗島を目指した。
高麗島を目指す一行だったがその途中で大嵐や濃霧に襲われてしまう。一同はこれに戸惑うも、甚五郎ごっての放つ咆哮、そして早助翁の持つ太刀(狛剣だろうか?)が空を切り裂くと空は元の晴天に戻った。実はこれらは悪魔の大将がしかけた妖術であった。悪魔達は藤将軍達に妖術が効かないと知るや白兵戦を仕掛けてくるも、甚五郎ごっての怪力によって敗れた。早助翁が「この島は悪魔が築いた島だから間もなく崩れ去るだろう」と言うので一同が早々に船で去ると、すぐに島は影も形も無くなってしまった。これが今の高麗瀬である。 小値賀に凱旋した際、藤将軍は手をついて早助翁に礼を述べた。すると翁は「実は私は神島大明神で、この神力丸も船瀬という岩瀬である。あなたは孝心厚く人民を大切にするので助けた次第です」と告げ、煙のように消えてしまった。
藤将軍は都に帰ることを思いとどまり、永く小値賀に住むこととなった。そして延暦十五年、中村に浄善寺を建て、その開祖となったという。


◆首のない馬(小値賀町)
まだ中村の新田が海のままで、小値賀が大近と小近に二分されていた頃の話である。当時中村の膳所城(ぜぜのしろ)には源定公が居城し、民力を養い日々練武に励んでいた。このとき隣の宇久島にも豪族がいて、小値賀を我がものにしようとたくらんでいた。
ある年の大晦日、宇久の敵将は小値賀に上陸し本島攻略を企ててきた。その時は珍しく大雪で、城内では日頃の労をねぎらって雪見の宴を行っていた。しかし、突如軍馬のいななきと弓弦の音が響き、敵襲だと知るや皆はすぐに装備を調えて表に出た。幸い雪明かりで敵の姿ははっきり見え、定公率いる膳所城勢は数刻の後には敵をあらかた打ち破り、残すは敵将他数騎まで追いつめた。敵将は逃げようと馬を走らせたが、浜辺に着いたところでもはや逃げ切れぬと悟り、自害して果てた。その敵将の墓石は今も土地の人たちに祀られているという。
旧暦大晦日の夜になると、かつて合戦のあった地から、鬨の声や軍馬のいななきなどが聞こえ、首のない馬が走り回るのが見られたという。


◆蛸が馬ば喰った話(小値賀町)
昔、小値賀に田も畑も無かった頃、辺りは静かでとても平和だった。 一頭の野生の牛が野原で草を腹一杯食べ、いい気持ちで昼寝していた。海の中には一匹の大きな蛸がいて、海の中が退屈だったので陸へ上がってきた。蛸は牛が昼寝しているのを見ると、「牛を退治してやろう」と考える。自分の何十倍も力が強い牛。蛸には決して勝てる相手ではないが蛸は頭が良かった。蛸は寝ている牛の背にまたがると、八本ある足を巧みに使った。まず二本を牛の腹に巻き付け、もう二本を目隠しに使い、さらに残った四本の足のうちの二本で牛の尻を叩いた。牛はびっくりして飛び起きたが、目が蛸の足でふさがれているため真っ暗で何も見えない。しかし尻を叩かれる痛みに耐えられず辺り構わず走り出し、背中の蛸を体を揺すって落とそうとした。けれども蛸は腹に巻いた二本の足の吸盤でしっかりくっついているので全く落ちる気配がない。蛸は残った二本の足を手綱のように操って牛を海の中に飛び込ませたということだ。この牛が後に海牛となったそうな。


◆新田の人柱潮見様(小値賀町)
建武前の頃、紀州熊ノ浦に親娘三人が住んでおり、代々漆器の行商を営んでいた。あるとき主人は眼病にかかり片目を失うも商売に影響は無く、一年の大半は行商の旅に出て、陸路、海路を用いて西の方へ向かい、最後は小値賀で漆器を卸して熊野へ帰るのを常としていた。
当時小値賀では中村膳所ノ城主松浦肥前守源定公が大近と小近の海峡の埋め立てを行っていた。椀売りはあるとき岩に腰かけ休みながらこの埋め立ての様子を眺めていたが、ふと思いついて村人に声をかけ、「それでは潮をせき止められない。人柱を建てねば駄目でしょう」と言った。村人はその言葉に納得し、誰か人柱になってくれるものはいないか皆に訪ねてみた。しかし当然誰も申し出ない。椀売りはさらに「巳の年の生まれの四十歳前後、片目で着物の袖に横ぶせを当てた者がいいだろう」と言う。村人は早速探してみるがそんな格好をした村人は一人もいない。その時村人の一人が気付いて、「それはあんたじゃないか」と言った。椀売りはしまったと思ったが、言い出した手前あとには引けず、人柱とされてしまった。
今も村の人々は新田橋の下に住む鮒や鰻、蛇は皆片目であると語っている。


◆龍石(小値賀町)
沖の神島の脇に龍の形をした石がある。これは昔、盗人が神島に泥棒に入って御神刀を盗み、船に乗って逃げようとした。ところが船は同じところをぐるぐる回るばかりで全く進まない。泥棒は恐怖して刀を海の中へ投げ捨てて逃げていった。投げ捨てられた刀はやがて龍の形をとり、海から沖島へ飛び上がっていったという。 これが龍石の謂われだそうだ。


◆鯨ん墓(小値賀町)
昔、潮井場を根拠として鯨獲りをしている小田という者がいた。ある日の真夜中、大きな鯨が枕元に現れて次のように言った。「自分は明日上方詣りのため、この沖を通るがその時は獲らずに見逃して欲しい。帰りなら獲られても構わないのでよろしく頼みます」と。小田は夜明けを待って急いで浜に行ったが、すでにその鯨は獲られて無惨に殺されていた。小田は哀れに思い自分の墓地に鯨の墓を建てて供養をしたという。


◆女の生首(小値賀町)
番岳の西北下、柳村宇岳田というところに「浜田ん池」という池がある。昔、ある雨の日に一人の農夫がこの池の堤を通りかかった。雨のせいで池にはもやがかかり、向こう岸は全く見えず、ただ池の水がどんよりと濁って薄明るく光っていた。農夫がふと気付くと、池の中央に黒髪うち濡らした女の生首がすーっと浮かび上がり、ニタ〜ッと笑って少しずつこちらに流されてくる。農夫は驚き生きた心地もなく、一目散に我が家に逃げ帰っていった。この生首の主が誰か、何故首だけ池に投げ込まれたかは不明だという。


◆船頭さん柄杓を貸して(小値賀町)
ある夏の日、一人の漁師が夜釣りに出て、漁場で仕事をしていた。すると、船の下から「船頭さん柄杓を貸して」と声がする。ふと見ると、どこから来たのか一人の男が船端につかまって、しきりに柄杓を貸してくれと言う。拒んで船をひっくり返されても困るので貸してやると、その男は海水を汲んでは船の中に入れ始めた。漁師が止めようにも言うことを聞かず、船を出して逃げようにもすぐに追いついてきて海水を入れ始める。終いには船は転覆し船頭さんは海の藻屑と消えてしまった。
後日、一人の漁師が勇敢にも同じ場所に漁に出た。亡霊はまたも船にとりつき、「柄杓を貸して」と言ってくる。漁師は待ってましたとばかりに穴のあいた柄杓を貸すと、、亡霊は水を入れようにも入れられず、一言「恨めしい」と残して消えていったという。


◆磯姫(小値賀町)
無人島などの離れ島に来て、潮待ちや風止まりなどで夜を越すときは用心しなくてはならないという。錨を下ろし、とも綱で陸と繋いで夜を明かすと、真夜中にすごい笑顔の美人の青白い女が、とも綱を渡って船に乗り移って来るという。何もかも持っていってしまう(帰りに船が転覆する)という。どうしても船止まりをしなくてはいけないときは、山に向かって大声を上げ、山彦が返ってこなければ磯姫はいないそうだ。もし山彦が返ってきたら磯姫がいるので、錨を下ろすだけでとも綱は陸にあげないという。