第一主義


「・・・・・・・ん」
寝惚け眼の視界、その目の前が笑顔の影でふさがれた。
無遠慮に肌に覆い被さってくるウール100%の感触は残念ながら慣れた心地で、 触り心地は良いものの、梳くとなると最悪な心持ちになる髪の毛は年の明けた冬でもあくまで白かった。
自然の摂理に従って欠伸をすると、不機嫌そうに眉を曲げられる。
そんな顔をされても、どうあれ。今俺は眠いんだよ、テン。
「ハッピーニューイヤー、セバス。まだ眠いみたいだね」
話す度、髪の毛が揺れて鬱陶しく肌をくすぐる。一々確かめるような口調も鬱陶しい。
どうせはにかんだ笑顔で居るんだろ、と思えばその通り、クスクスと笑う声が耳に届いた。頭が痛い。
「眠いさ。二人で飲んで潰れたのが俺だけ、ってのが、気に食わない」
俺は掠れた声で酒に溺れた脳をなんとか揺すり、気だるい身体を気だるく起こす。
ハッピーニューイヤー。
外は快晴、太陽は真上に近づいている。
・・・年が明けて1時間足らずで潰された俺の年初めは、案の定、最悪な目覚めで始まった。
なにせ俺はベッドではなくソファに寝ているし、テンは俺が身体を起こすのと同時に隣に座り込んできた。
止めろ、暑い。
「君はバッカスの加護を受けなかっただけさ。それに如何にも呑めそうな君が弱いっていうのは、なんだか可愛い」
俺を覗き込むように見つめるテンは、おどけるように語尾を跳ねつかせる。
・・・可愛い。
ギャップって奴か?と顔を顰めると、お決まりのパーフェクトスマイルが返ってくる。
「如何にも弱そうなお前が飲めるってのは、別に可愛くもなんともないぞ」
「そうかい?あの程度は嗜みの範疇だと思うんだけどなぁ」
「嗜み、でブランデー1本開けるな」
「いいじゃないか。君の寝顔だって可愛い」
こう、可愛い可愛い、と連呼されると実際俺が可愛い類の生き物なんじゃないか、と誤解したくなってくる。
羽毛ぐらいに軽いこいつの舌へそれを求めるのは少々酷かもしれないが。
俺は自分の身体を眺めて今一度その真偽を冷静に確認したあと、水を求めてソファを立った。
身体はまだ火照っている。酒が身体中にこびりついているようだ。
テンは俺の後をゆっくりとついてくる。
コップに水を注いで、それを飲みながら振り返ると、まあ、当然のようにテンはそこに居た。
じっと俺を見つめて、ニコニコとした笑顔を張り付けている。
よく見るとテンは俺の服を着ていた。恐らくまた勝手にシャワーを浴びて、勝手に着替えを済ませたのだろう。
体型の違い故に少々服の中で泳いでいるテンの細い身体を目で追っていた俺は、そこで恐ろしい事実に気付いた。
年明け。新年。ハッピーニューイヤー。そして目の前の男。
「・・・おい」
「? 何だい、セバス」
「年が明けて、初めて会った奴が、お前か」
思えば、年を越して酒を酌み交わした時点で気付くべきだった。
俺は20年来の腐れ縁の幼馴染と、あくまで仲睦まじく、酒を飲んだことになる。
「・・・・セバス」
世界の終わりじみた表情を取る俺に、無感情な声をテンは返す。
お、っと。
これはテンが不機嫌になった時の声色だ。
20年来の腐れ縁、幼馴染。
だからこそ判る感情の変化に気付き、俺はコップの水を乾いた喉に流し込み、素早くシンクに置いた。
不機嫌に傾いたテンほど厄介で扱い辛いものはない(普通の状態でも扱い辛い、という事実は今は置いておく)。
少し歩いたところにドアがある。寝室へ通じるドアだ。俺は視線を揺らし、そこへ逃げ込もうと足を伸ばした。
「セバス!」
それでも、テンの方が上手だった。
そもそもこの体型差から言って、どっちが素早いかなんてのは考えなくても出る答えであって、 大きく声を張り上げて、ずかずかと俺の行く手を阻むテンを想像するのは、容易なことだったと思う。今思えば、だが。
「・・・て、テン」
「君にはもっと酒を呑ませなくちゃいけないみたいだ」
「うわっ」
最高のマイナス矢印へ傾いた攻撃的なテンの声。顔。俺の態度がそうさせたかと思うと、ゾクゾクするような、焦るような不可解な気持ちになる。
テンは俺の手を強く掴むと、ぐい、と引っ張って乱暴に歩き出し、机にあった2本目のブランデーを取った。
恐ろしいことに、それは既に半分減っていた。
「お、おい、テン」
「僕はね、セバス!君がそう思って僕の誘いを受けてくれたものだと思っていたんだよ!」
「・・・・・・」
「それなのに君と来たら何なんだ。流石の僕でも呆れたよ!」
ばたばたと歩みながら喋る、上擦ったテンの声は慣れない、と言い換えてもいいぐらい珍しい類のものだった。
斜め前に見える紅潮した頬、拗ねているような表情。・・・なるほど。
流石の俺でも事情を察する。そういえば、こいつは飄々としてる癖に妙に乙女的な性格だった、と思い返す。
掴まれた手首が熱かった。それは俺を捕らえる、テンの指先の熱さだった。
「テン」
「何だい」
今すぐ俺をソファに縛り付けてブランデー漬けにしそうな表情で、テンは振り返る。
俺はちゃんとテンを宥められるような顔をしているだろうか、と思う。自信はない。
「・・・前後はしたが。お前と一緒だったのが嫌とは、言ってないだろ」
「‥・・・」
「気付くのが遅れたのは、お前と居過ぎててそれが当たり前になってたんだ。 今更、年が明けて初めて会って、って喜ぶような間柄じゃないだろ」
「・・・・」
「おい、テン」
言葉を繋いで闇雲な言い訳を漁る。
・・・言い訳。今だけはそう言わせて欲しい。誰に言ってるんだかも判らないが。
しばらくテンは無表情にこっちを睨みつけていたが、俺が真剣に名を呼ぶと、ゆっくりと俺を見つめた。
「・・・本当かい」
「俺の口から、それを言わせる気か」
「・・・」
何か思案しているような、見定められているような瞳。充分な沈黙でそれを謳歌し、テンはふっ、と笑った。
「・・・うん、」
「・・・?」
「君の照れた顔は、可愛い」
「・・・」
花の咲いたようなテンの笑顔とは対照的に、俺の顔は崩れる。何言ってんだ、こいつは。
状況に見合わない、可愛いの言葉。それが俺に当てはまるものだとは考えたくない。
どれだけテンが自分に素直で、自分のことばかりを第一に考える性格だとしても。
「・・・おいテン」
「ん?何だい」
「これ以降、ブランデーは、絶対禁止だ」
空いた片手で人差し指を突き付ける。こうなったのは酒のせい。こんな科白を吐かれるのも酒のせいだ。
そんな面倒なもの、一生飲まないほうが身のためだ。
そう思いながらテンを睨み付けると、一瞬間が空いて、再びテンはこれ以上ないほど、大きく笑った。
「判った、判ったよ、セバス!やっぱり君はそうやっているのが一番、可愛い!」


セバス☆ちゃん×カウント・テン















百八の鐘


除夜の鐘の聴こえない空を見上げて、ダースは支部長室の窓から外に顔を覗かせていた。
夕暮れを過ぎた空の色は冷えた藍色を帯びていて、白い息を美しく彩らせている。
星は見えない。
郊外とはいえ、この場所の空気はそこまで澄んでいるわけではない。
遮るもののない視線にはただ儚げな色をした天蓋が広がっているだけだ。
この日にお誂え向きではあるものの、決して完璧でないそんな景色を、ダースは心地好く思った。
支部長室にはダースしか居らず、部屋の持ち主は朝から不在だ。
年末ということもあるのだろう、他の研究員の姿もろくに見えない研究所は穏やかな静寂に包まれている。
些か物足りない舌先を抱え、それでもダースは今日はここに居ようと決めていた。
誰が来ようと来まいと関係はなかった。
下に居ると無駄な仕事を押し付けられて面倒だし、ろくに自由も利かなくなる。
上へ来れば煩わしいことは何一つないのだ。来ない方がおかしい。
誰にも届かない言い訳を胸に落とし、ダースはゆっくりと深呼吸をした。
大きく息を吐くと、凍えた温度がそれを取り巻き、鮮やかに白く染め上げる。
それが完全に溶ける様を見送り、ダースはのんびりと振り向き、部屋を見回した。
昨日と何も変わっていない物の配置。
実験器具が散らばっている机に身を預ければ、見慣れた部屋の様が一段と判りやすく視界に入る。
「・・・・・・・」
おかしなものだ、と、ダースは思う。
当たり前のようにこの部屋を認識している、ということを。
再び空に目をやった。感傷的になった自分自身は、この部屋を見知っている事実より、余程可笑しい。
暫くそうしている。毛羽立った思いに、身を任せる。
窓から吹く風に煽られ、ごうごうと炎が荒く舞った。赤い色づき。藍の空。
「・・・・ここを火事にでも、したいのか」
そこに重ねた取り留めのない影を思い浮かべていると、声が飛んだ。
振り向くと、今しがた脳裏に浮かべた影そのものが、そこに居る。
訝しむ格好で、大きく膨らんだダースの炎を諌めている。
おかしなものだ。
ダースは全く無様な奇跡に呆れたように、声を上げて笑った。
不意を突かれたのか、目の前の表情は不思議そうに歪んで、素直な驚きを示す。
「・・・どうした」
「いえねェ。除夜の鐘が鳴らないのも、好いモンだと思いまして」
「・・・? どういう意味だ」
鐘が鳴らないのはそのせいなのか、随分な手打ちだ、とダースは思う。
それでも穏やかな静寂より、煩雑な言い合いの方が何倍も楽しい。
ダースは手元に有ったビーカーを指先で弾き、悪くない、と、笑った。
「鐘が鳴らなきゃ、煩悩が取り除かれない。だから今日、アンタに会えました」


淀&鴨川















阿鼻峡間


「考えたことがあるかい、生まれながらに、己が絶望そのものであるということを」
「それは貴方の話?」
「いいや。僕らの支配者のお話」
彼はそう言って、いつものように皮肉っぽく、眉をあげて言いました。
空っぽの、それでいて息苦しい闇の空間は、今日も変わらずに滞留しています。
「ルシファー」
「そう、ルシファー。生まれながらの堕天使。生まれながらの罪」
「・・・罪であるから、罰を産み出すことしか出来ない、とでも?彼は自らに甘んじているだけではないの」
「世は不条理だよ、アンネース。救いという形のないものを求めて、より深い闇を見出す。ああ、これは、僕のお話」
深い闇、と自らを喩える彼を、私は見つめます。
この闇とあまりに融和している彼の蒼い色が、乱雑に空間へ散らばって、薄い色を遺します。
「罪も罰も、自分自身が産み出して初めて存在するものよ。それを産まれに帰結させるのには納得できない」
「それは君のお話?」
「・・・・ええ」
苦く呟けば、彼は笑みます。
この世の至上を見つけたように、晴れ晴れしく。
私が産んだ、私の身では抱えきれない罪。抱えきりたくなどない、罰。
「僕は他者を恨む彼を見続けて来たからね。彼に産み出された、という自覚もある。 だから、恐らく僕は根本的に彼を慕うように出来ている気がするんだ。君とこうして話しているとそれがよく判る」
「慕い、慈しんで、そして捨てられたのね」
「君も言うね。・・・慈しんでいたのかな、あまり自覚はないけど」
「私が傷つけば貴方は笑う。恐らく、誰かが傷つけば貴方は笑う。それは彼から学んだことでしょう。 それを思慕と呼ぶのはおこがましいかしら。・・・どちらにせよ、私は彼の考えなど一つも理解したくないけれど」
「闇に堕ちた裁定者は、自らの運命を呪いました。闇を産み出した、その想いこそを呪ったのです、ってね?」
「・・・何の話」
「こうやって、僕らのことがいつか誰かに記されるのかなあと思ってね。書物や、神話として?」
「おとぎ話ね。・・・貴方もおかしなことを考える」
「そうさ。おかしくなけりゃ、こんなとこには居られないもの」
ケタケタ、と、彼の声が響き渡ります。
私は手の平を見つめ、彼よりよほど闇と同化した己の身体をこの目に刻みつけました。
去りも、逃げもせず。
産まれながらにして、彼はここに存在し続けた。
他者を傷つけ、自らの血肉と感情にし続けた。
彼はそれを知っているかのように、自分自身を嘲りながら高く声を弾ませ、乱暴にその場を舞いました。
風が立ち、死の息吹がまた、私の頬を撫でました。


アンネース&2Pフィリ















幸あれと、


「気に喰いませんよ」
どん、と強い音がした。私はその音で、かすかに動揺を顕わにした。
視線を放れば、講談師が心底苛立った顔をして、私を壁に押し付けている。
怒り、憤り、その底にある例えようのない焦燥。
それはどんな言葉が発端だったろうか、どんな行動が発端だったろうか。
もう思い出せなくなったきっかけは乱暴で無遠慮な感情となって、私の瞳に投げ打たれていた。
「アンタの、そう謂う、態度はね」
吐き捨てるような科白。
先程から飽きもせずに高い音を鳴らせる心臓が、その言葉で一際大きく跳ねた。
講談師の顔つきは今までに見たことがないほど堅く、無慈悲な冷たさに満ちている。
汗が流れる。息が詰まる。
口の中は渇ききり、言葉を紡ぐことは出来なかった。
病んだ胸が内で叫んだ。腐敗した愛しさが、内で叫んだ。
違う。違う。
苦しむ私を講談師はじっと睨み、その手を静かに私の身体へ寄せる。
ひゅ、と冷たい空気が喉へ入った。
首筋に指が触れている。絹の、手袋の感触。
その感触は柔らかく豊かで、ぞっとするほど優しかった。怯えや惑いを綯い交ぜにした感情が自分の中に駆け巡る。
・・・そうだ。私は、怖れている。
視線を持ち上げると、蔑むようにこちらを見やる講談師と目が合った。
お前の行為の真意。お前の想いの真意。
それは真実であるのか、虚実であるのか。心の内で叫ぶ言葉は、残酷的なまでに届かない。
「了承も拒否もせず、何時までも答えを先延ばしにする。・・・反吐が出ます」
滑らかな言葉たち。その発せられるひとつひとつが心に刺さった。
決して傷みはない筈なのに、ひどく、呼吸が苦しい。
講談師は乱暴な態度を崩さずに、私の身体を手荒く弄る。
顎から首、首から鎖骨。
躊躇なく動き、肌へ重なる指先に自然と、声は高く震える。
感情と反する自分に思わず、口を押さえた。恐ろしい。怖い。
「・・・ほら、そうやって、何時も逃げ出す」
そんな私の態度を嘲るように見やり、講談師は自らの行為を私に認めさせるように嗤う。
本格的に身体に覆い被さってきた唇は、指先がなぞった通りの道筋を辿っていく。
講談師の手で産み出される乱雑な快楽は、なぜか余りに的確だ。
いつも続けていた戯れとまったく異なる手つきは、私にそれを見せつける為に他ならないのだろう。
私はいつの間にか、うわ言のように喘いでいた。
「はっ、・・・あ、っ、・・・ぁ、う、」
首筋に落とされる感覚が鈍い痺れを遺していく。
違う。違うんだ。
反論を望まない講談師の態度。
今度こそは逃がさない、という、怒りと憤りと、焦燥。
違う。違う。
自分の声でないような短い息づかいを遠く聞きながら、私は頭の中で繰り返す。
違う。違う。違うんだ、ダース。
私は、ただ、お前が、
「ち、が、・・・っ、あ!」
「・・・、何だ?」
・・・、呆けた私の顔が、講談師越しに見えた気がした。
行為を止められ、私は自分自身が快楽に身を任せていたことに気付く。
しかし講談師は私の顔をしっかりと見つめ、不機嫌な態度を顕わにしていた。
私は、どうやら・・・、頭の声を、いつの間にか言葉にしていた、ようだった。
問うような視線が私を射抜く。
真意を見つめる、その一瞬の静寂が、私を急かせる。
「ダース、違う、」
叫ぶような声で、私は自分の思いが決壊していくのを内から知る。
歯止めが利かない。
今でしかない、と胸が叫ぶ。この愚かな思いを吐露するのは今しかないと、胸が喚く。
「違うんだ、私はお前が嫌なんじゃない、」
「・・・何だと?」
訝しい、目の前の眉が寄った。濁った闇の中に、一筋の疑問が浮かんで広がる。
講談師の「今」が揺れている。
私の唇は止まらなくなる。
「私は、ただ、お前の、気持ちを」
「・・・・気持ち?」
気が触れたか、とでも言いたげな顔。それでも私の思いが惑うことはなかった。
ただ必死だった。
自分の内側で腐り続けていた想いをそのままの形で差し出すことが、今の私に出来る全てだった。
ふ抜けた身体を壁に預けたまま、胸の言葉を絞り出す。
「そうだ、お前が、私をどう、思っているか、それだけが、」
私のシャツの襟を掴んだまま、講談師はじっと、私の呟くまとまりのない声を受け止めている。
歪んだ眉がそのままの形で時を止めている。
目の前に居るのに、とても遠いその存在。そうだ。
あの言葉のまま、・・・恐ろしさに逃げ続けていたのは、私だ。
「・・・怖いんだ、お前の思いが判らないことが、堪らなく、・・・怖いんだ」
だからこそ、私は、認めるしかないのだと思う。
この身体が抱える際限のない恐怖を、惑いを、焦燥を、受け止めるしかないのだと。
講談師は私を見つめ、表現の出来ない顔つきをとった。
・・・私は泣いているのかもしれない。
そうでもなければこの男が、こんなに不安がった、奇妙な顔をする筈がない。
思いを吐き出すことに困憊していたのか、不意に身体の力が抜けた。
荒く息をする。私を掴んでいる講談師の力で、辛うじて立っている状態だ。足元が覚束ない。
「・・・ダース、頼む」
それでも懇願するように私は言った。講談師の黒衣を掴み、その目を見つめ、祈るように揺する。
がくがくと、頼りなく講談師の身体は揺れた。
口を噤んだまま、その瞳だけが私を捉え続けている。
「・・・怖い、か」
幾許の間、私はその言いようのない色に魅せられていた。
だから、講談師が発したか細い言葉を、すぐに気付くことができなかった。
一拍を置き、聴き慣れた声を認識する。
怖い。
・・・怖い?
「・・・、え」
「皮肉なモンだ」
「・・・ダー、ス」
「同じ、だとはね」
咄嗟に問う声色を発してしまった。すると、講談師は自嘲するようにゆっくりと笑う。
「・・・同じ?」
私は言葉の意図を掴めずに、同じ科白を繰り返すに甘んじる。
すると、講談師はシャツから手を放し、私の荒らんだ服を元に均した。
・・・先程と全く異なる、柔らかな動き。
「想いです。・・・怖れて居たのは、あたしも同じでした」
講談師はすくりと姿勢を直す。視線も浮かび、私を見下ろす格好になる。
私自身は、その言葉を受け止めるのに必死だった。
目を開いただろう。息を呑んだに違いない。
同じ、だった。
想いを肯定されたこと。相手も同じ想いを抱いていたこと。
そっと触れるように、講談師は私の頬を柔らかく手の甲で撫でた。
息が詰まる。
駄目だ。受け止めきれない。視界が歪む。
「わ、私は、」
「謂わずとも、好いですよ。・・・あたし等は、随分、・・・伝え合うのが、下手だ」
震えた私の声に、講談師は笑う。しかし、すぐに真顔になる。
これまで私達を保っていたものを改めて掬い取るように。
だが、それに私はかぶりを振った。
解けかけた黒衣を再び掴み、私という存在を享受するために言葉を繋ぐ。
「・・・下手でもいいんだ、・・・いいん、だ」
「慣れて居ません、互いにね」
「いいんだ、私は、」
「・・・」
「お、前が、・・・好きだ」
認める。認めるしかない。この、私自身の、いびつな愛情を。
ぼたぼたと情けなく雫が垂れる。白衣に染みる無様な軌跡。
それを、まるで自然な出来事だとでも言うように、講談師は私の涙をゆっくりと拭う。
視線が合う。
「・・・・・・・」
頬に流れるものを拭った手は離れなかった。
繋がる視線は講談師が顔を近づけたことで瞬間的に切り離される。
狭まる体温を、私は望むままに受け入れる。
上手く出来たかは分からない。それでも丁寧に、講談師は私に優しく、口付けた。
「・・・・、」
それは永遠のような時間であり、一瞬のようでもあった。
自分でも知らない間に目を瞑っていた。唇の熱が離れた時、それに気付いた。
「・・・・学者様」
互いの距離が数センチもない距離で、講談師は呟く。
吐息が掛かる。くすぐったい、気分だ。決して、不快では、ない。
「好きです。アンタより、もっと、もっとね」
そして続ける。有無を言わせないかのようにもう一度唇を重ねられる。
子どものように幼稚な科白。
それに、酷い形で飲み込まれる自身を自覚した。熱い。駄目だ。・・・嬉しい。駄目だ。
唇が離れないことを、私は密かに喜んだ。
このままの溢れ出る感情を、きっと私は上手く言えることが出来ない。
ならば、このまま、この生温かい柔らかさを感じている方が、ずっと、心地いい。
私はもたれた壁にすべてを預け、喉の奥の塩辛さを飲み込んだ。
二度目でも変わりなく不器用な口付けは、思っていたよりずっと、暖かかった。


淀×鴨川















素顔素直


「好きでも嫌いでもない。どうでもいいから、あんたは楽だな」
俺は妙に目の前の相手をブン殴りたい気持ちで、そこに突っ立っていた。
視線の先にはいつもの椅子に座り、いつもの机に両手をついて、相変わらず無感情に微笑み続けているミシェルがいる。
「そうですね。この仕事に、好意や嫌悪という感情は必要ありませんから。とても、楽です」
頷く形で、ミシェルは俺の言葉にそっけなく答えた。
その目はいつまで経ってもスッカラカンのまま、俺と対峙している。なにも求めない、なにも発さない、無機質ないろ。
「ほんとだよ。いいよな、一人ぼっちが好きな奴は」
なぜか無性にむかつく胸をぐっと抑えて、出来るかぎり嫌なセリフを考えて吐き出した。
ミシェルは本当に一人が好きな人間だ。
この仕事を進んで選んだってアタマだけでも、こいつが孤独を望んでることがわかる。
孤独。
俺もひとり旅が好きだから、独りになりたいって気持ちは分からないでもない。
それでもここは本当に誰も来ないのだ。
毎日毎日、あるのは日の光と月の光と余るぐらいの本の山だけ。
そんな中でおかしくなったりしないのだろうか。
俺はぎろり、とミシェルを睨みつけた。
べつに、そういう適当でどうでもいい理由は今は必要なくて、ただ。
この頃たびたび繰り返されてる、「ここを出て行け」という問答にただ俺は苛立っているだけなのだ。
「それを無遠慮に侵している君に、そんなことを言われる筋合いはありませんね。 ・・・むしろ、それを認識して下さっているのであれば、早々に出て行って頂きたいものですが?」
ニッコリと微笑んだままの顔を決して崩さず、ミシェルは俺の考えたつたない反抗を蹴落とした。
ほら、こうやってこいつは事あるごとに俺をここから追い出そうとする。
理由も伝えず、自分の気持ちも伝えず。ただ、一方的に。
「・・・ほんっとウゼえな、あんた」
「ありがとうございます」
言い返す言葉は見つからず、安易な悪態へ逃げた俺にミシェルは得意げに肩をすくめ、あごを両手の上へ乗せた。
やわらかい午後の光が差し込む図書館、ここにいるのは俺達だけだ。
来館者は今日もゼロ。
どこにも飛ぶことができなくなった自分の拳を俺は見つめて、ため息をついた。
くだらないやり取り。
結局俺はいつでもこの人に負けて、こうやって苦い気持ちばっかりを腹にためることになる。
それをこの人は知ってんだろうか。わからない。
「・・・好きや嫌い、ですか」
「・・・・ん?」
そんな俺を見つめて、独り言のようにミシェルは呟いた。
なんだか悲観?したようなトーンは珍しくて、思わず首を上げてその整いすぎた顔を見る。
「いえ。・・・こんな仕事をしていると、本当にそういった感情を忘れてしまいそうでしてね」
ふっ、とミシェルの顔がかげる。表情のせいじゃない。
見上げると、大きな窓から見えていた太陽が雲に隠されて、暗い影になっている。
「・・・なんだよ。俺のいった通りじゃねーか」
俺は顔を戻して、タイミングをずらして折れるミシェルの性格の悪さをなじった。
もう殴りたい気持ちはどこか遠くへ行ってしまった。
でも少し、腹にたまった苦さは消えた。
ミシェルはあごへ乗せた手を下ろして、曇った影の中で、ゆっくりと眼鏡のフチをいじる。
「そうですね。・・・君を見ていると、安心します」
「はぁ?」
思ってもみなかった言葉。ヘンな風に、俺の声は裏返る。
そんな様子に、ミシェルは笑う。
「君は、大げさなくらいに笑ったり、怒ったりするでしょう。それを見ていると、僕も自分の感情を刺激されます。 その理解で、・・・僕もまだ普通の人間として生活できる、と思えるんです」
一息でミシェルは言った。もう一度肩をすくめて、自分をあざ笑うような態度を取る。
その姿はなんだか妙に弱々しくて、今すぐ腕とかを掴まなきゃどっかに行ってしまいそうな錯覚も憶えた。
似合わない告白は、やっぱりどうしても似合わない、けど。
俺を見る視線はひどく優しかった。なんつうかどうしようもなく、優しかったのだ。
「・・・何だソレ。あんた、充分ニンゲンじゃん。ここまで人イライラさせられるの、ニンゲンしかいねーよ」
瞬間、照れたような心地になって、矢継ぎ早にはき捨てる。
俺はこの人をごく当たり前の人間として扱ってきた。ちょっと乱暴すぎるぐらいに。
そりゃこの顔でこの言動のギャップにはさんざんな目にあったけど、 何度だってイライラしたしむかついたけど、目の前のバカイケメンメガネは人間だ。
だって、確かに血が通ってて、あたたかい。
「そうですか?」
笑顔をといて、俺の返事を聞き返すミシェルの顔に日が射す。太陽が戻った。図書館に日が降り注いでくる。
「そう」
頷いて俺も言った。ミシェルがふっと微笑む。いつもの顔で、意地悪く。
「なら、もっと苛々させないといけませんね?僕が人間である証明に。」
「・・・」
一度は温和に傾いた自分の顔が、もう一回ひきつってとんでもない顔になってくのがわかる。
ああ、やっぱこいつ、むかつくわ。
そう思って、俺は一度は下げた拳を思いっきり持ち上げる。
それでもミシェルはなぜか妙に楽しく笑っていて、それはもし今俺がその面を殴ってもすべてを許してくれそうな、 どうにもやわっこい感情で作られている、笑顔だった。


エッジ&ミシェル


















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