星間飛行


「・・・聖母、って、ナニモンだ?ラムセ」
オレは相棒のハンドルを内部から握ったまま、言った。
ちらりと後ろを振り返ると、美形の顔は不安でコナゴナに砕け散る寸前だ。
ラムセ、ってのはコイツの名前で、「聖母」、ってのはコイツいわくこの世の中の摂理を知る、意思を持った銀河、とのこと。
オレ達は今、「最果て」と呼ばれる駅へ向かっている。
ステーションが管理する星の数ほどある宇宙の駅の、いちばん最終地点である、終着駅だ。
ぐるん、とハンドルを一回転させると、ラムセは手を組んで前屈みになった姿勢をまっすぐ伸ばす。
「僕も詳しくは知らない。唯、すべての叡智が彼女の中に治められている、と訊いた」
「エイチ」
「ああ。それがあれば、僕は僕の最も大切なものを、守ることができる」
コイツの発言はこんな風に終始クサくてデンパ的で、それでもその軸がぶれることは決してない。
ぐらぐら揺らいだ顔をしっかりと引き締めて、ラムセはオレを見る。
信頼。シンヨウ。そういう目で、オレを見る。
突拍子もなく始まった「最果て」への旅は、今日で3日目になった。
それはオレとラムセが一緒に過ごしてまだ3日、ということだ。
オレはラムセのことをちょっと理解してきたが、まだ全然アヤシイ状態、とも言える。
ラムセはオレをそう思ってないんだろか?もう、オレを信用、してるのか。
「オマエの大切なものって何だっけ?恋人だっけ?」
「・・・恋人、じゃ、ない。僕が愛している人と、愛している国だ」
「ふーん。誰?」
「・・・僕は、君を信じている。でも、教えられない、こともある」
「・・・。ま、オマエは、客だし。センサクされたくねーならしないけどよ」
「すまない」
謝られる理由もねーな、と思う。
信じてる、って科白が案外ぐっときた自分には驚いた。それでもラムセの顔は沈んでいる。
回送のフダをはっつけた車両でどこまでこの運行が通せるのかは分からない。
そのうちバックレたのにも気付かれる、かもしれない。
ステーションてのは大規模すぎて、オレみたいな末端駅担当にまで管理が行き届いてないことも多い。
だから、あと1週間ぐらいはこのまま旅が続けられる気がしていた。
全部で10日ならなんとか「最果て」に飛び込める。
一回コーデリアで給油してついでに物資も手に入れれば、何回もいろんなトコに寄る必要もなくなる。
大丈夫だ。
・・・と、そこまで考えて、オレは今更、自分があたらめてバカをやってることを思い出す。
仕事放棄して、ワケワカラン男のためにサイハテって、・・・なぁ。
「エフ」
「あ?」
んなことを思ってると、ラムセは静かにオレを呼んだ。
ラムセはオレのことを「エフ」と呼ぶ。名前の一部。F-トレインのF、をそのまま呼んだだけ。
でもオレのことをそうやって呼ぶやつはそんなにいないので、新鮮な気分だ。
ラムセを見る。澄んだ目。
「僕は君を信じる。最果てへ連れて行ってくれると信じる。・・・だから、君も僕を信じてほしい」
「・・・なーんにも教えてくれないってのにかよ?」
「・・・う。そ、それは、」
痛いところを突いて、そのとおり言葉につまるラムセに笑った。
あんな風にマジメにサイハテへ行く計画をオレは練ってるのだ。もう手おくれ。オレが一番、わかってる。
「いーよ、ラムセ。オレがお前をセーボ様まで連れてくよ。それで信じる、ってことにしてくれ」
「・・・ありがとう」
ぐるっ、とハンドルを右に切る。
そろそろ駅の群生地みたいになってる密集地は抜け出せる。
そしたらあとは滅多に他の電車ともすれ違わない孤独な旅だ。
おれはラムセの感謝を聞きながら、テキドにまかせろ、って意思表示に、ゆるゆると親指を立てた。


F-トレイン&イア・ラムセ















共すれば、


「漸くん」
珍しく鴨川は真面目な顔でダースを見た。黒髪がぱらぱらとガスストーブの熱風で揺れていた。
退屈な生徒達の噂話(主にこの准教授の話だ)を退屈そうに話していたダースはそこで、緑の炎をゆたりと舞わせた。
「・・・何だ」
今は冬だ。
大学というのは何の流行りか郊外の立地が多く、この大学も随分僻地に存在している。
そのためか、外はうっすらと雪が積もっていた。白い残像。
珍しい、とダースは思い、思わず素直に返答する。
いつもなら「俺の話を止めるな」と訳の分からない理屈で怒鳴っては鴨川の髪をぐいぐい引っ張り、 それに造作なく言葉で抵抗する鴨川から実際の暴力より余程強いダメージばかりを負わされるダースなのだ。
はた、と鴨川の顔で止まった視線を、あくまで自然に鴨川は受け取った。
一瞬、目を窓へやり、すぐにダースへ戻す。
「最近、思う。・・・君は死ぬのか?」
はっきりとした口調を用い、鴨川は滞りなく告げた。
開いた二重の目は小さかったが、そこにいつも表れる飄々とした偽りと理屈の光はない。
「は?」
素っ頓狂、に満たない程度の声色で、ダースはそれに応える。
いや、応えるという単語はいささか適切ではないかもしれない。それはただ単に、不可解さを言葉に表しただけだったのだ。
開いた口をそのままに、ダースは鴨川の言葉をなぞる。君は死ぬのか。
・・・360度、不可解な問い。
「鴨、如何謂う意味だ、其れ」
「・・・そのままの、意味だよ。君は死す存在なのか、否か。答えてくれないか」
質問の意味を僅かに呑み込んだダースが身を乗り出して聞けば、鴨川は腹の上で組んだ指を神経質に動かし、 極めて慎重・・・とも取れる態度で口にする。
痩せた骨の輪郭が、唇の動きと共に柔らかく動く。
じっと身を固め、ダースは鴨川の様子を窺った。すぐに閉ざされる口と締まった顔つきに怪しさは一欠片も存在しない。
ダースはその問いから脳裏に浮かんだ案と共に、珍しく、考えながら言葉を発した。
「・・・じゃア、鴨。御前は泣くのか?」
「・・・漸くん、何を言ってる?質問しているのは僕の方だぞ」
「テメェが質問してるのに俺が答えるだけじゃフェアじゃ無ェだろ。御前も答えろ。そしたら俺も、答える」
ニッ、といつものようにダースは意地汚く笑う。しかし、真面目な声のトーンは崩さない。
鴨川は幾分沈黙した後、思案するように視線を揺らす。
「・・・質問を、もう少し鮮明にしてくれ。僕が泣く、というのは具体的に・・・どういうことだ。状況か。それとも生理的行為としてか」
「俺は御前が泣いたトコを視た事がねェ。それにテメェの泣く理由なんぞは如何でも良い」
「じゃあ何を基準にした「泣く」なんだ?質問は簡潔にしたまえ、漸くん」
「・・・俺が謂いたいのは。もし俺が死ぬとして、そん時御前が泣くか、って話だよ。鴨」
「・・・・・」
ダースの言葉に、いささか鴨川は面食らったようだった。
組んでいた指をとき、視線を逸らして片手を口へ当てる。それは鴨川が自己の考えへ潜る時の癖だった。
身を乗り出したまま、ダースはその永い時間を視線で追う。
自らの死を問われ、素直にダースの頭に浮かんできた疑問は、それだった。
鴨川は感情が希薄なわけではないが、「泣く」という行為に対してのアンテナを全く持ち合わせていないようだった。
何かに感動して泣く、何かに怯えて泣く、何かの痛みで泣く、或いは一つの快楽に対して泣く・・・、 ダースは紅潮している癖に涙を見せず声を絞る鴨川を思い出し、この状況にこの想像は似つかわしくないと頭を振る。
ともかく、そういった「感情」に突き動かされて鴨川が泣く、という状態をダースはこれまで見たことがなかった。
ならばどんな時に、この男は泣くのだろうか。
鴨川自身の問いに便乗した疑問が出るのは、当然の話にも思える。
「・・・僕は、」
「ン、」
鴨川はゆっくりと顔を上げ、再びダースに視線を合わせた。
口に当てた手は動かない。気づいたように、ダースも顔を持ち上げる。
「・・・君が死ぬことを、怖れているのかも、しれない」
「何?」
鴨川の思わぬ答えに、ダースの声は上擦った。
「君は不死を抱いているのだと、データから僕は推測している。 然し、実際、その事実は君にしか判らない。仮に・・・君の死を思うと、僕はひどく、動揺する」
「だから、俺に訊いたのか。俺は死ぬのか、って」
「そうだ。考えたが、君に答えを聞く以上の良策は思い浮かばなかった」
「・・・・なら、泣くか?俺が、死んで」
努めて慎重に、鴨川は話す。
いつもは流暢に己の考えを見境なく示すだけだというのに、今はひとつひとつ言葉を区切って喋っている。
それはその内容が自身の感情ときちんと合っているかを逐一チェックしているかのようだ。
その様子を見、ダースは鴨川が嘘偽りのない気持ちで自分に対峙していることを知る。
ダースも極めて慎重に、質問を重ねた。
自分が死んだら、お前はこころの底から哀しむのか、と。
「・・・・、漸くん、僕は。・・・僕は、恐らく・・・、君を失うことが、怖いんだ」
「鴨、」
「・・・駄目だ。想像させないでくれ。君は僕を泣かせたいのかもしれない。でも、駄目だ。僕は・・・、」
鴨川は真顔のまま、眉だけを歪めた。
言葉が感情と共に歩まず、困惑しているようにも見える。
続かない想いを探すかのように、口を開いたまま鴨川は視線を忙しなく泳がせた。
ダースは、ぐい、と、そんな鴨川との距離を詰める。
「鴨。俺は死なねェよ」
「・・・漸くん?」
「テメェが漸く泣くって時は、俺が死んだ後ってか?ふざけんなよ、オイ」
「・・・。・・・君だろう、そう、尋ねてきたのは」
「五月蠅ェな。俺は死なねェんだ、解るか」
「・・・・」
「解るか、帳?」
「・・・、・・・ああ、判る、とも」
訝しさと惑いを秘めた瞳の色が、名前を呼ばれたことによりゆっくりと澄んでいく。
こくりと頷き、鴨川はダースが何を言いたいのかを知る。知り、微笑む。
「其れなら好いんだよォ、莫迦鴨」
それを見て、ダースは殊の外大きく、笑った。
鴨川の表情に安堵という思いが含まれていたのかは、きっと彼しか知らないものとして、その心に仕舞われるのだろう。
近づいたついでに、ダースは鴨川の湿った唇を長く伸ばした舌でべろりと舐めた。
僅かに驚いた強ばりが、その行為の少しあとの鴨川についてくる。
「・・・漸くん、君は、僕を喜ばせたいのか、怒らせたいのか、どっちなんだ?」
濡れた自分の唇を撫で、確かに感じたその感触に顔を顰めながら、鴨川は心底不思議そうに訊ねる。
それは喜びも怒りも含まれていない、いつもの鴨川そのものの口調で、 ダースはそれに機嫌を良くし、跳ねるような口調で言った。
「泣かせたいんだよ。悔しがらせて痛がらせて、序でに存分に喘がせられりゃア最高だ」


2P淀×鴨川















君を願う


「・・・・」
じっと、少女は、男を見つめた。背を向けた、男を見つめた。
そこには何もなかった。ただの無だった。無しか存在していなかった。真っ黒の服。真っ黒の闇。
ブラックホールのように無情な黒が、大きく無言で広がっているだけだった。
「・・・アナタは、ヒトを、危めるのね」
頻繁にここへ訪れる、この男の様子はその度に異なっていた。
自らを紅い血の色で染め上げたかと思えば、足を引きずったり手を垂れ落としたままでいたり、 凶器とおぼしき刀を乱雑に持ち込んで血液の線を残したり、その容姿は様々に変化、していた。
それはおそらく、いつでも誰かを傷つけ、危めてきた結果としての姿だ。
そんな男を少女は嫌悪していた。してきた。
しかし、一度としてこちらを見つめない頑なな男の背ばかりを真摯に追えば、少女の心は驚くほど白く、穏やかになる。
「だからどうした」
振り返らない、男の声は冷たく鮮やかだ。
真冬の空に輝く星とよく似ている。彼の抱くあの灼熱とは真逆に、その感情は醒めきっている。
カツン、と男の履いたブーツが音をたてた。「だからどうした」。
重なって、離れていく返答。
「・・・どうも、しない。又、アナタを嫌うだけ」
意識的に、少女は自らのワンピースを撫でた。止んだ雪は積もらない。そこはただの虚空だ。
灼熱を肉体に宿す男の前で、自己である「フユ」を失う少女はただの少女でしかなくなる。
男の前で、彼女は確実に、自らを失う。
だからこそ、この男を嫌うことで自らという自己を保とうとしてきたのか。
少女は思った。
「成程。嫌えば、消失の恐怖から逃れる事が出来るな」
少女の密やかな言葉に男は笑う。凍えきった眩しい声を顕わにし、高らかに笑う。
炎の赤色が増し、真実ばかりが露呈していく。
言い訳の賛歌。見合わない、と何度でも確認するような告白。似た風景。遠ざかる。
「・・・そう。わたしからも、アナタからも、逃れられる」
「嗚呼その通りだ、猫。怯えた愚かな魯鈍として、貴様は生きる事が出来る」
恐れているのか、と、互いは訊くことをしなかった。出来なかったのか。もう問えない。
望むこと。求めること。固辞と拒否。
凡ては存命への敗北だ。当然だと思った。どちらが?互いが。
男は更に高く笑った。
一度として笑ったことのない少女でさえ、大声で笑いたい気持ちになった。
この期に及んで尚、生へ執着するその感情を心底、嘲笑したい気分だった。どれだけ望んでいたのか、自由を!
「・・・ええ。でもアナタは、それを奪うことが、できる」
それでも少女は、真実のまなこを汚すことを拒む。
同等を求め、それでも、己が欲したもの、己が求めたものを真実だと振りかざす。
嗤ったまま、笑い続ける男を少女は射した。
男がぴたりと笑いを止めた。そしてゆっくりと、振り返った。真実のまなこ。秘める必要もないそれ。
思いは同じだ。諦念だ。生存だ。
ふれない、という安堵の中に産まれる、永久と同等の、敗北の存命だ。
だからこそ、少女は思った。想って、吐いた。
『奪えるものなら、奪ってみろ。』
きつく開いた眼。ようやく、少女は自らの嗤いを表情に出すことに成功する。
男は少女を見つめている。見定めている。
これまでの経験を追い、命乞いをする生きものの光を探している。求めている。
そうであれ、と。
「・・・アナタは、わたしを、危めることができる」
しかし少女は瞳を醜く歪め、この世でもっとも美しい女として微笑んだ。
真実。露呈する、本心。それを、受け止めようというのか。受け止めろというのか。
少女が生み出した微笑みに、男は動揺した。呼吸を繰り返した。己の生を何度も認めた。
そして動揺した。己が、少女の存在を危ぶめるということに、改めて。
「・・・黙れ。黙れ、黙れ、黙れ!!」
高く叫ぶ。声は闇に葬られる。それでも死にはしない。残り続ける。
微動だにせず、少女はそれを見つめる。
先程からずっとそうしてきたように、そうする。揺らがず、動かず。男を、肯定する。
「・・・極卒。もう、わたしは、アナタを知ったの。だから、いいの」
柔らかく少女は言った。何もかもを包容した。
何もかもを頑なに拒否し続けた少女は、この時、何もかもを赦し、何もかもを受け止めた。
己が信じるすべてを愛し、己が信じるすべての自分自身を労わった。
そこに居る少女は、誰よりも気高い真実そのものだった。
偽りを捨て、心を掬った、純粋な思慕、そのものだった。


極卒×おんなのこ















昼は忠告


「ファニータ!俺の愛を受け取ってくれ!!」
「・・・・オマエさァ、いっぺん死ねば?」
今日も今日とて叫びながら店へやってきた男に向かって、常連客は容赦ない一言を叩きつけた。
どこからどう見ても不快、という顔つきはこの寂れたバーの雰囲気によく似合う。
だが、ちびちびとブランデーのロックを飲んでいる姿はこの場に似合わずまったく小柄で、可愛らしい域に入っていた。
それも仕方ないだろう、常連客の容姿はどこからどう見ても、白黒キュートなパンダ、そのものなのだ。
「・・・オイジャガー、俺の女神はどこだ」
「知るか。コレ残して射撃にでも行った、ってトコだろ」
ずかずかと店に入りこみ、人を探す素振りで男は長身の身体を丁寧にカウンターへ滑り込ませる。
ジャガーと呼ばれたパンダは心底鬱陶しそうにブランデーをすこし呷った。
男が探しているのは誰でもない、この店の女主人だ。
どんなに嫌われていようと女主人に一途に惚れこんでいる男は、パンダに言わせればただの盲目だ。
厄介な感情に支配された、人の迷惑など考えないモンスター。
パンダはそんな心象と共に大きく溜息をついて、カラカラとグラスを振り、氷を鳴らせた。
「・・・折角、バラのコロン持ってきたんだがなぁ」
「まァた性懲りもなくプレゼント攻撃かよ。変化がねェなァ、だから嫌われンだ」
どん、とパンダの隣に座って、男は勝手にグラスの横に置いてあるブランデーの瓶をとり、 その辺にある適当なグラスに注いで、一気に飲み干した。褐色の肌がのびやかに光る。今日は暑い。
「惚れさせたいんだよ。その苦労なら買ってでもしたい女だ、アイツは」
「・・・あいつがイイ女なのは認めるけどなァ。オマエの手には余るぜ、ゼッテー」
女主人は美人で男勝りで腕っぷしも強く、おまけに射撃の腕がプロ級だ。
男が惚れるのも正直無理はない、とパンダは思う。あの女を見た男は、誰もが一度、彼女に恋をするのだ、と。
「上等だろ?ファニータは誰かに傅くような奴じゃない。それがいいんだ」
「・・・そんな女がオマエに惚れるかァ?」
「惚れるさ。ジャガー、お前は相変わらず見た目に似合わない性格だよな。心底呆れる」
「ウルセエなァ、関係ねェだろ」
パンダも瓶からグラスへブランデーを注いだ。女主人が帰ってくる気配はない。
しばらく、予定のない貸し切り状態は続きそうだった。なにせ、まだ昼なのだ。この時間に、バーへ客が来る方が珍しい。
「ま、ファニータが帰ってくるまでお前と暇潰しだな」
「オマエも相変わらずしれっと失礼なコト吐くよなァ。オレはオマエと暇潰しもしたくねェよ」
「そう言うなよ、ジャガー」
ぐるりと店を見渡したあと、男はグラスを無理やりパンダのものと合わせて笑った。カチン、と音が鳴った。
またああだこうだと根も葉もない惚気話を聞かされるのかと思い、パンダはため息をつく。
しかしこの男の「漢」たる部分を認めてもいる彼はなみなみに注いだブランデーを一気に空け、 女主人が帰ってきた時にこの酒瓶の残量をどう釈明するべきかと、苦笑いも浮かべた。


ジャガー・B&アントニオ















しようよ


いい加減にしろ、という科白を吐くほど呟き、それでもこの拘束からは逃れることが出来なかった。
顔が明らかに熱い。
右手首を掴まれたまま何時間もそうしているので、完全に痺れている。
「がーくしゃ様ァー」
もう吐くほど呟かれ、既に数え切れなくなった催促がまた、前方から飛んできた。
顔を持ち上げることすら億劫になっていたが、なんとか視線を上擦らせて、奴を見る。
そうすれば目の前の紅い炎は相変わらず微笑んでいて、この男の粘り強さにほとほと呆れることになる。
改めて言わせて貰うが、こいつは、本当の、馬鹿だ。
「たった一言、ですよ。其れであたしは納得して、アンタも満足出来る。万々歳じゃア無いですか」
このまったく無駄な言葉に初めは一々丁寧な反感を返していたが、もう、それも面倒だ。
私は首を左右に振って、それだけで「嫌だ」という答えを示す。
既に2時間以上この状態が膠着しているから、もう、私が折れるまでこの男が動かない、というのも判っているのに。
・・・判っているのに、どうしても、喉からその言葉は出ない。
催促。
こいつの催促は、私の「催促」を引き出すためのものだ。
ひとつの行為を強要しようとし、私が思わず自分の権利を主張したら、 こいつは「じゃアアンタが謂うまで待ちましょうか、ずっとね」、などと抜かしてきたのだ。
この意地の悪さ。
余計なことを言わなければよかった、と後悔ばかりを繰り返している。
心底、嫌だと思っているのに、・・・結局、私が言わなければならないことは、・・・。私の本心なのだ。
それが一番、私を立ちゆかなくさせている。
・・・左手で額を押さえた。熱い。
「・・・アンタも全く、面倒なヒトだなァ。一度拒まなきゃ自分の心に気付かない」
ため息。言葉。私が吐き、男が呟く。睨みつければ、その視線に負ける。
「もう、・・・気付いている。・・・お前だって、気付いてる、・・・だろう」
目を逸らして、ぐ、と瞼を閉ざす。
消え入りそうな声が虚しい。
この一挙一動が、すでに気持ちを露呈させている。
「まァ気付いてでも無きゃア、あんな莫迦な事はしませんけどねェ」
「・・・お、前!それならこんなことしていないで、とっとと・・・!」
「とっとと?別に御帰りに為っても好いですよ。・・・謂われ無けりゃ、もう一生しないだけですから」
「なっ・・・!このっ・・・、」
その科白と同時に、男はもう一生掴んでいるのではないかと思われた手首をぱ、とあっさり離した。
ぬくもりに支配されていた手首が静かに冷えていく。思わずその顔を見れば、愉しんでいるかのような真顔だった。
・・・この野郎。
「如何致しますかねェ?」
「・・・最低だ。最悪だ。何でお前なんかに、・・・、」
「あたしなんかに、何です」
「・・・・」
唇を噛んだ。すべての原因。顔の温度が更に上がったような気がした。
投げ出された右手で、今しがた離された右手を掴む。汗が出る。だめだ。無理だ。
乾き切った口がうまく回らない。
「・・・わ、私、は、」
「ええ」
「お前、に、・・・なぁ、本当に、言わなきゃ、駄目か」
「おいおい。其処迄謂ったなら勘弁為さいよ」
「・・・あ、うう。あー・・・、判った、うー、・・・キ、・・・うう・・・、」
「本ッ当に面倒ですね。ホラ、ちゃんと謂い為さい」
呆れるように、諭されるように両手を掴まれる。優しく微笑まれて、促される。
「う、・・・、っ・・・キス、・・・して、くれ。・・・わ、たし・・に、」
震えた唇がいびつな言葉をようやく刻む。
発して、改めて、私はその内容のとんでもなさを実感した。
まずい。泣きそうだ。
どうしようもなくなって、手を掴まれたままなのも構わず顔を伏せた。無理だ。だめだ。もう、いやだ。
泣きそうだ、というか、既に半分泣いていた。視界が霞む。
恥ずかしさがこれほど暴力的なものだということを、私は今初めて知った。
今すぐ帰りたい。もうどうでもいい。もういやだ。
あれほど苦労して言った一言を私は投げ捨てるべく、手をほどいて席を立とうとした。
「!」
「学者様」
すると、男は動こうとする私の手を離し、・・・両頬を、その手で包んできた。熱で挟まれる。
顔を持ち上げられた。まっすぐに視線が合った。真剣な顔がそこにある。数十センチ。
「わっ、あ、・・・ちょ、」
「・・・此の好機を逃がす程、あたしは莫迦じゃありませんからね」
「・・・っ、え、」
当然のようにうろたえる私を一蹴し、男は躊躇うことなく顔を近づける。
・・・数時間前の光景がフラッシュバックした。あの時と違うのは、私の承諾があることだ。
目を瞑る余裕もなく、私は挟まれた頬の熱さに眩暈を起こしそうになる。
言葉になって箍の外れた本心に流されたまま、目の前の呼吸を受けとめようと、 私は男の着物をゆっくりと掴んで、その一瞬を待った。


淀×鴨川


















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