原始原子


ぼくは、ちいさな場所でちいさく息をついた。
それに呼応して、ピィがゆっくりとぼくの方を向いた。
白い猫のかたち。ふわふわした毛。
でもそれは、ピィが願った姿。「ほんもの」では決してない、かりそめの姿。
「退屈?」
「・・・別に。やることは限られてるし。彼は実際、いつだってひとりだしさ」
含むような調子で、ピィはヒトの言葉を使い、ぼくを見て笑った。
こちら側へ意識を遺すことを選んだ、むこう側の住人たち。
それはぼくであって、もう、ぼくでない存在。
そして、それは彼も同様だ。
体育座りの格好をとき、ぼくはぼくの容姿に似つかわない言葉で喋る。
「そう。この立場になったこと、後悔してるのかと思っちゃった」
「・・・ばかなこと言わないでよ。なんで?」
「ご主人の生き方、辛そう、とか、感じてるのかなー、なんてね。考えた」
そして、ピィも。
ピィの名前はもうすこし長くて、もうすこし「それらしい」けれど、ぼくは彼をピィと呼んでいる。
ピィは姿かたちをことごとく無視して、本来の思考をふかく揺らせた。
彼。
この世界のてっぺんにいる、創造主。
ピィのご主人。ぼくの同胞(すこし、この言い方はおこがましい)。
本当はもうひとり、ここにいるべき人がいる。
けれど、その人はたしかな場所で信念を持っているから、ここには居ない。
ここに居るか、来るか、は、すべてその人自身の意思なのだ。
ぼくは息を吸った。
尊敬と畏怖と羨望と。あまりにとおい、愛。
「思ってないよ。ただ、届かないとは感じてる。だって、彼は、個であり全だから」
「うん、確かに、この世界がご主人だよね。だってご主人が創ったんだもの。私たちは、それに付与していっただけ」
「・・・彼なくして、ここは存在しないものね。でも、ここには闇もある。憎しみもある。
 その重さが彼の持つ慈愛だけで治まるか、ぼくにはよくわからないんだ」
「ご主人はすべてを包めるよ。それを知ったから、私はここに来た。君はどう?」
ぼく。
ぼくは、どうだろう。気づけば彼がいて、気づけばピィがいた。
この世界のきれはしを直しながら、ぼくは彼を見続けてきた。
ちいさな身体。おおきな背中。
失うことをおそれない力。創めることを、祝う力。
あちら側のぼくは、それを見ていたのかな。
いたからこそ、ぼくは、ここをぼくの居場所と定めたのかな。
尚も、ピィは問うようにぼくを見つめ続ける。
「・・・ぼくは。彼が好きだから、ここに、来たんだと、思う。・・・というか、それ以外、よく覚えてないんだ」
「そう。私も、ご主人が好きだよ」
「へぇ。・・・ピィは、どっちかっていうと、好意っていうより、忠誠みたいなものかと思っていたけど」
「ばか言わないでよ。好意と尊敬無くして、忠義はありえないじゃない」
「・・・ああ。それも、そうだね」
「そうだよ。逆に私は君の気持ちがよくわからなかったけど。好きと知って、安心したかな」
「当たり前だろう。だって、彼は、ぼくにとっても神さまだもの」
そう。どうあっても、彼は、神さまなのだ。
時々しかここに顔を出さない、明朗とした無責任でも、彼はやっぱり、凄いのだ。そう思う。
ピィはわずかながら、満足そうにして顔をほころばせる。ぞっこんだな、と、ぼくは思う。
でも、それはきっと、ぼくも同じ。
彼に出会ったすべてのひとと、同じ。
息を吸って、空を見た。
彼が特別にあつらえてくれた、地平線と水平線の織り交ざった景色。
それを見て、ぼくはゆっくり、彼の指が奏でた世界をおった。


いぬ千代&P-cat















ぼたん色


「アンタの、其の姿は、全く好いね」
椿は喉を鳴らせて、掠れた声を上擦らせた。
目の前では桃香が真っ赤になった姿で佇んでいる。
手に、赤い塊を抱いている。
「・・・椿様」
上気したその白い頬さえも、はね返った体液で紅く染まっていた。
桃香もまた、掠れた声を吐き出しながら椿を見る。
「本当に、好い」
その目線に耐える事が出来なくなったかのように、椿は素早く距離を縮め、紅い桃香の頬を両手で挟んだ。
火照っている。
体液のぬめりが手の平にこびりつく。
しかしそれでも、桃香の深い紫の瞳がそこにある。
自らの着物に赤い体液が染み付くのも気にせず、椿はぴたりと桃香の身体に己のそれを寄せ、
目の前にあるその可憐な唇を自らのもので塞ぐ。
ひどく生暖かい。そしてひどく、心地好い。
柔らかい肉の感触を貪るように、椿の、桃香の呼吸は乱れる。
「・・・」
互いに目を開いたまま、その口付けは永く続く。
時に舌が絡み、時に吐息が揺れた。
紅いそれ。透明なそれ。餌が、死んだ形で互いの胸の間に収まる。
「ん、・・・はぁ」
それは違和感の中にありながら、確かな恍惚をたたえ、確かな温度をたたえていた。
唇が離れる。
息が混濁し、意識はつながり、光が闇を、闇が光を支配した。
「・・・乱暴ですね」
「アタシがかい?」
「いいえ。貴方の、欲望が」
目線を上げ、桃香は言った。
冷めた空気だったが、顔は高潮していた。
椿は長く息を吐き、確かに己の感情は乱暴で粗雑なものだと実感する。
何故なら、その桃香の姿でさえ、あまりに馨しく顕わに映り、今すぐに喰らいたいと椿自身が望んでいるからだ。
唾液を飲み、椿も言った。
「其れでも。アンタの匂いには、負けるね」
乱雑に桃香の髪の毛に指先を突っ込み、椿は、己の手で桃香を汚そうと笑む。
あんな赤い塊では、もう治まらないのだ。
桃香の発するすべての香りと色と熱こそが椿にとっての餌なのだと、もう、彼女は、知っているのだ。


椿×桃香















つくづく


毎日のように手篭めにしているのに、時折、
自分がまったく骨抜きにされている気分になるのは何故なのだろう、とダースは思った。
訝しく、頓馬な感情の一片が浮かんで、そのままゆるゆると漂い続ける。
それはこの部屋の空気がそうさせているのだろうか、
そのあまりに小さな分子ひとつひとつが、知らぬ間にダースにとっての媚薬になっているような面妖さ。
「・・・鏡。塩。・・・ワカメ」
怪しげに鴨川は呟いた。
無遠慮な文字で綴られたダースのメモをそのまま声に出した呟きだった。
そのどれもは、ジョルカエフの弱点を記したものだ。
IDAAにとって基本中の基本であるその情報を、何故鴨川が所望したのかは定かではない。
ただ、その声のひっくり返りっぷりを聞くと、
鴨川が「ワカメ」の単語にだけは思考が反応出来なかったのが判る。
ダースはその声で鴨川を見る。斜め前。
丁度、ダースが、尤も彼を好ましく思う角度の姿。
それはもう既に鴨川でさえダースの領域として認識している場所での視界だった。
「・・・お前。どこでこれを」
呆れたように、鴨川は自分を見ているだろうダースの視線を受け止めるように顔をあげた。
勿論、そこにはゆらゆらと揺れる炎の表情がある。
馴れたやり取り。生活の一部と化してしまった、会話の連鎖。
「嗚呼。アンタの散文から」
和綴じの本を膝に乗せ、ダースは珍しく、質問へ簡潔に答えた。
たったの一言の見事な答え。
ダースは鴨川と出会う前、この支部長室に何度か忍び込んで盗人の真似事をしていた。
鴨川の書いたレポート・論文・メモその他を見てはこちら側の知識として溜め込み、時々には持ち出したりもした。
意外と鴨川は筆まめな男で、自分が感じたありとあらゆることはメモをする体質だった。
ワカメ、は彼がそんなメモの中の一文だ。
『ワカメ恐怖症なのかも』、とジョルカエフの弱点を推測した、
そんな細っころい飛び道具のような文章に思わずダースが笑ったのは、もう大分昔の話だ。
「・・・あの時は、疲れていたんだ。海水が苦手なら或いはと、・・・お前なら冗談だと判るだろう、おい、ダース」
シンプルな一言にわずかに照れながら、鴨川は下手な言い訳をする。
その仕草は、日々彼を見るダースをいつものように、惹きつける。
空気の濃度が増す。そして思うのだ、心地好いと。
幸福と名付けるにはおこがましく、平穏と呼ぶには野暮ったい、その感情。
「好いじゃないですか。そう謂う憶測から、真実が露呈するモンです」
それでも、それはダースにとって春の温かみを残している。
ふっ、となんともなしに笑えば、驚いた鴨川がずいと机から身を乗り出してきた。
「・・・お前、今、・・・私を褒めたか?」
じいと眉を寄せて、独り言のように鴨川は言った。
そしてすぐに机に戻り、目の前の紙切れに何かを書いた。
芳香さえ感じられそうな空気の中、ダースは自分のことが彼の指で書きつけられることを愉しく思った。
骨抜きにされているのは何故だろう、そう繰り返せば今しがたの顔が浮かぶ。
つかの間の空白の中、ダースはつくづく自分を莫迦な男だと思いながら、目の前の男の真剣な目を追っていた。


淀×鴨川、前















粉々の器


男は、いつか訪れた夢の中に居た。
再びまみえる空間は足元が弱々しい感触をしており、少々気持ちが悪かった。
視界や思考ははっきりとしているが、これが今目の前にある現実だと確認するために、
2、3度、男は頭を振った。そして、顔を上げる。
「・・・又か」
限りなく独り言に近い声色で呟けば、男の眼前で、「彼」は穏やかに微笑んだ。
男の、微笑みも失せた表情の底に、人間の呼吸が入り混じる。
それは苦悩にも見え、恍惚にも見えた。判断はつかなかった。
絹のように柔らかく微笑んでいる「彼」は、男と対照的な表情を浮かべ、何もかもをまやかしている。
「こんにちは、焔」
「・・・・・・」
「やっと、あの子が大切になったのかな」
彼は、帽子を持ち上げて視界を晒し、ゆるやかに云った。
やさしい声色は近い距離を保つ男の元へ、すぐに届く。
「・・・貴様も訊いたのか」
「・・・、きみがあの言葉を言ってから、あの子はひどく動揺したよ。
 今だってそうだ。ぼくだって、やっとの思いでここに立っているぐらいなんだからね」
「そんな貴様が、何故、又、僕に会う」
「あの子がそう望んだからさ」
それは謳うようになめらかな音色だった。
男は顔を顰めたが、彼は、実に満足げな様子だ。肩を竦めて、道化のような仕草を取っている。
あの言葉、と喩えられる出来事を、彼は凡て知っているようだ。
男が少女に放った、その違えようのない真実、取り間違う筈もない、その、まことの感情の証を。
「・・・猫が?」
「そう。あの子が。そして、僕が」
彼がそれを知っている、と言うことに対して、男はそれほど驚きを示さなかった。
やっとここに立っている、と例えてはいるが、彼の姿や表情は平穏そのものの温度をしている。
彼の居場所である少女を透かすように彼は空を見上げ、限りなく透明に近い闇の中で視線を泳がせた。
「・・・目深帽子。猫は・・・、」
「あの子はね、焔。きっと、君の言葉で自分の抱いていた確かな願望に気付いてしまったんだ。
 何度も訊いたよ、「わたしはココに居なければいけないのに」、・・・泣きそうな声でね」
少女の言葉。男の言葉。
確かな想いに変化したそれらは矢となって、少女を突いた。
その、鋭い言葉の矢だけが傷みとして心に残った。心に住まう、彼をも、射抜いた。
硬い男の表情は変わらない。彼の顔も変わらない。
ただ、少女の中の不安定な想いの底で、願いの土台で、ゆれている。
「貴様は、猫の意思を知るのか」
「・・・こころの声が、彼女の本心であるなら。でも、それを疑うのは愚かなことだと思う。
 あの子は、紛れもなくきみを求めているもの。きみの手に触れることを願っている」
彼の言葉に、男は自分の手の平を見つめてみる。
白く開いた五本の指。
そこにうずまる灼熱は、少女を無へと帰す熱を帯びているはずだった。
しかし、今、少女は望むのだ。
男が望むもの、願うものと同様のものを、あまりに切実に望み、願うのだ。
そう、彼は言うのだ。優しい声で、たおやかな表情で。
開いた手の平を、男はきつく握った。
嘘を知ることのない彼の瞳が、すぼまり、開く。
「・・・あの子を消してしまうのが怖い?」
「・・・相容れない反発だ。僕と猫は、それを理解している」
「ぼくは、きみ達が幸福であればいいと思う。そう思う自分の気持に、ぼくは初めて気づいた」
「どういう意味だ」
「ぼくに出来ることがある、ということ」
自分自身という、互いの、根幹的な意味を享受し続けること。
男の言葉を少女が受け容れるということは、それを崩し、壊すことになる。
彼は、何もかもを知っていた。
或いは少女よりも、男よりも、二人の事を知っていた。
濡れた瞳で男を射し、一歩を進む。
「焔。あの子を大切にしてくれる?」
「・・・何だと?」
「きみはあの子を知り、あの子はきみを知った。だからこそ、きみはああ云ったんだ」
「・・・・・・」
「約束をしよう、焔。きみがあの子を世界へ連れ出し、きみがあの子を幸せにすると」
近づいた距離で、彼は強く男を見据えた。
それは、真剣な光だった。真摯で、実直な、彼の感情だった。
男はわずかに怯み、顔を緩く、歪ませる。
凡ては幻であるような錯覚を覚えた。自分の感情、目の前の彼、それを内包する少女。
そしてなにより、「幸せ」という、単語に対して。
しかし、彼は力強く云った。
「大丈夫。あの子は、きみが好きだよ」
「・・・、」
どうして、と尋ねることは無かった。彼の言葉は、それほど真実に近かった。
奥歯を噛み、男は口を開く。
「・・・目深帽子。貴様は、一体、何が出来る?」
「そうだね」
ふわふわとした足元に慣れた様子で、彼は天を見つめ、再び帽子を直した。
少女の想いから産まれた自分自身が、少女の想いの為に死ねることを、心から幸福に思いながら。
「きみ達の代わりにぼくが消える。ぼくが、消滅を肩代わりするよ」


極卒くん&目深帽子















なみだ顔


「知ってる、アンタ?誰にも負けない人のね、泣いたときの顔。アレ、ホントに、サイコーよ」
「悪趣味だねェ、兄さん」
「・・・「お姉様」。二度目は無いわよ、ムラサキ」
「・・・。ハイハイ」
うっとりとした目でハニーは言った。
それを呆れた目でムラサキは見た。
薄暗い照明に彩られた店の中、客は一人も居ない。
カウンターの内に立ち、外に座り、その兄妹はまるで姉妹のようだった。
カラカラとロックのグラスの音を立てながら、
ムラサキは細めた目線でそれを呷り、鼻息をふいて頬杖をつく。
彼・・・、いや、彼女はこの店でたくさんの客を見て来ている。
だから、その客のひとりのことでも言ってるのだろうとムラサキは思う。
誰にも負けない人の泣いた時の顔。
それはまた一目惚れした男との惚気だろうか。
久々に店に来たかと思えばこんな話か、という落胆は面倒なので胸の奥に仕舞っておいた。
「・・・でも。アタシ、MZDの泣いたところは見たこと無いのよねェ」
「・・・神?なんで行き成り、旦那のことになるんだい。・・・、オネエサマ。」
「だってェ。彼、アタシが知ってる中で一番誰にも負けそうに無い人なんだもの」
「・・・嗚呼。まァ、そりゃあ確かにねェ」
ハニーはそんなムラサキなどお構いなしに、勝手に続ける。
神。
今日はその男(ムラサキの勝手な想像だが)の話で一日が潰れるかと思っていたので、
ムラサキは意表をつかれたように顔を上げる。
その先ではハニーがニコニコと笑っている。
ハニーの言っていることはムラサキが素直に頷けるほど的確だった。
神は確かに、そんじょそこらの人間では太刀打ちできないほどの大きな器を持っている。
一番誰にも負けそうにない人。神。
要するに、ハニーは神の泣き顔を見たいのだろうか?
グラスに唇をつけたまま、ムラサキは視線の先の泣きぼくろをじっと見つめる。
「アンタだって見たことないでしょ?」
「アタシ?・・・無いね。旦那が泣くのだって想像出来ないのにさ、有る訳ないだろ?」
「やっぱり無いのねェ。あー、見たいわ。彼の笑顔もステキだけど。でも一回ぐらいはねェ・・・」
ムラサキの視線に目配せし、はぁ、とため息をついて、ハニーは空を見やる。
どうやら、やはりハニーは神の泣き顔を拝見したいようだ。
「珍しいね、姉さん。遂に旦那に惚れちまったのかい?」
「やーね、違うわよォ!知ってるでしょ、アタシには心に決めた人が居るの。でも、ソレとコレとは別でしょ?」
「・・・一途だねェ。その割にゃ浮気性だけど」
「煩いわよ!」
適当にムラサキが囃し立てれば、わずかに憤慨した様子でハニーは声を大きくする。
横好きな世間話と噂話は、結局個々の色恋沙汰に行き着く寸法だ。
ぶんぶんと顔の前で大きく片手を振るハニーに、ムラサキは歯を見せて朗らかに笑う。
浮気性だけれど、惚れっぽいけれど、彼女はちゃんと愛すと決めた人を愛している。
神でさえ、敵わないほど愛している。
「ま、いいじゃんない?姉さんらしくてさ」
「何がアタシらしいのよォ?」
「いや?旦那の泣き顔、なんての想像するの、姉さんぐらいだよ」
神の泣き顔。
自身の手の平に頬をうずめて、ムラサキはそれを考える。
愛というもの、感情というものを具現化したような男の流す涙。
それは大層美しくって届かなくって、でもやっぱり愉しそうなのだろうな、
と、素晴らしい妄想をした目の前の姉に含み笑いを見せれば、
可笑しな子ね、とでも言いたげに、ハニーは不思議そうな表情を見せた。


ハニー&ムラサキ


















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