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盲目トロンボーン


「アー・・・はァ」
全くそれに興味が失せたように、ダースは空々しく頷いた。
生返事は空気に溶けて、怒りじみた視線の餌食を辛うじて逃れている。
「聞け、馬鹿が!興味があると言ったのはどっちだ!」
がちゃがちゃとした大声は空気に溶けず、重さを増して床へ落ちる。
鴨川は、指先で辿っていた対.独りの講義をあっさりと抗議へ変え、ダースに向かって怒鳴りつけた。
「あー、ハイハイ。確かにあたしです。あたしですよォー」
ダースが朝一番に、鴨川が書いていた淀ジョル関連の論文の中身を知りたい、
などと楽しげに言ってきたのは恐らくただの気紛れだった。
しかし鴨川は低血圧の割に今日は機嫌が良く、教えてもいいかという気分になっており、
温和な紳士の態度で、ダースにその内容を丁寧に教え始めたわけだ。
そして現在はその1時間後であるが、ダースはその内容にすっかり飽きた不道徳な格好を見せて、
欠伸をしてはどうでもいい場所に視線を放り、間延びした声を出している。
「・・・じゃあ聞け!ここの温度が丁度37℃になった時に最もカルラの生成が促進されてだな!」
「あー、カルラねェ。あの精神結合の時に使うヤツですねェ」
論文は既に机のすみに追いやられており、主役の座はいつの間にか二人の議論へと移動している。
投げやりなそれと、妙な白熱の度合いはずれていて、端から見れば楽しい掛け合いでもあるのだろう。
だが、今は観客もいない二人きりの状態であって、それを楽しいと揶揄する人間はひとりもいない。
・・・いや、むしろこんな状況で二人きり、というのも面白みがあるのだろうが。
「カルラが重要なんじゃなく、温度が重要なんだ馬鹿者!
 0.1℃違っただけで、体内での生産および放出が10倍も違うんだぞ!!」
「あー、そりゃ又、結構な事で。37℃ねェ。へェ」
ぼりぼりと野暮ったく首の裏を2本の指先で掻きながら、
37度の重要性をまったく理解していない言葉の低音さでダースは使い捨ての納得を見せる。
だがそんなもので目の前のヒョロ長を騙せる筈はなく、顔をわずかに赤くさせる分かりやすい怒りのままだ。
ぎゃあぎゃあ詰めよる姿勢はいつもと似ているようで、いつもより幾分の真剣さを帯びている。
それはきっと、この内容が鴨川の専門分野中の専門分野であるから、譲れないのだろう。
いくら相手がダースだとはいえ、ここで退けるか、とでも思っているのかもしれない。
「・・・まったく!これだ!この温度だ!判ったか、馬鹿異形!!」
「っと、・・・・あ?・・・え?」
だから、とにかく突拍子無く、勢いに余って鴨川はダースの手を引っ掴む。
白い手袋に包まれたその手を引っ掴み、そして、思いきり自らの頬に押し付けた。
べたりとダースの手の隅から隅まで、肌の温度がからみつく。
一瞬、鴨川が何をしたのか分からなかったダースは、珍しく素っ頓狂に困惑した声をあげた。
しかし何をしたのか、の全貌が明らかになった途端に思わず絶句する。
何しろ自分の手がいつの間にか鴨川の頬に引っ付いているのだ。
しかも鴨川は至極真面目な顔つきで、ダースの方を見ている。
「37℃!人間の平均体温より0.5℃高い!分かるか!というか、分かれ!!」
別に、鴨川の頬が37℃だとかいう確証などまったく存在せず、
恐らく本人もそこまで深く考えずに、この行動へ及んだに違いない。
昂ぶった感情には熱がつきもの、ぐらいの認識で、安易かつ素直に自分の肌でそれを示した。
実際、ダースの手の平を包む温度はにわかに熱く、
上目で見つめる鴨川は怒鳴りちらした後に息を整えるべく呼吸をしていて、
音速と音速のすきまに落ちる静寂を残したままで、ダースは呆然とその様を見送っている。
終始流れ込む温度は確かに現実であって、どこまでもぬるめの熱さを保っていた。
ご丁寧に、鴨川は引っぱった自分の手をダースの手の上に重ねている。
余程37℃を理解させたいらしい、素直さ。
「どうだ、理解したか、ダース!」
「ば、・・・‥」
跳びこんで来る科白に意識を取り戻すダースは、しまった、と、思った。
油断していた自分をまるで呆気なく恨んで、まるで自然に「不味い」、と思った。
それは堅くて絶対に壊れやしないと考えていた鋼の壁ががらがらと呆気なく崩れていく驚きと似ていて、
咄嗟に、ダースは鴨川の頬へ繋がれていた自分の手を引き剥がす。
「・・・っ、なんだ!乱暴な!こっちが親切に教えてやったと思えば!」
いきなりの乱暴な行動に驚いた鴨川は目を丸くして、浮いた手もそのままに声を荒げる。
自分のした事どうこう、にはまったく目を向けていないことが良くわかる、まっすぐな視線。
思い返そう、こんな状態になってしまったわけを。
ひとつ。話に対しダースは飽きが入っており、今回に限って、彼にしては無防備だった。
ふたつ。飽きが高じて、鴨川の話はほとんど頭に入っていなかった。
それを踏まえて、みっつ。
とりあえず、こんなことが起きるとか、そんな予想なんてしていなかったのだ。とりあえず。結論を言えば。
「莫迦か、アンタはァ!」
なので、色々とつまらない心の準備などは出来ていなくて、ダースは半ば、自棄気味に怒鳴った。
引き剥がした手をそのままに出す、大声。
滅多に見ないその有り様は、鴨川の丸くなった目を更に丸くさせる。
「な、・・・いきなり怒鳴るな!どうして私が馬鹿なんだ、馬鹿者!」
掴めない意図。掴めない真意。それは別に、他意のない自然な行為だったのかもしれない。
そんなことは今更で、既に、どちらにも理解することが出来ないものになってしまった。
風の前に崩れた、はかない砂の城のように。
「あー・・・!」
宙ぶらりんになった腕を振って、ぐしゃぐしゃと顔を手で押え、ダースは自分の顔を見せまいとする。
気付けばその手は今し方鴨川の頬を捕まえていた手の平で、ゆるやかな熱を持っていた。
「・・・・莫迦が、」
苛立たしい熱。不可抗力のまま産まれた熱。まったくどうしようもない、管理の出来ない熱。
それに抗えない間抜けな自分に対して、ダースはぼつりと呟いた。
目の前では鴨川が、まだ何も理解せず賑やかに騒いでいる。
馬鹿だとか、何か言えだとか、黙るなだとか。
その真っ白で無垢な態度に、ダースはやはり「やられた」、と苦虫を噛んだ顔をした。
顔に当たる、間接的な肌の火照りは未だにそこに寄り添ったまま、優しい悪魔のかたちをしていた。

淀×鴨川















黒雲留金


「・・・・あんた、ミシェル、さん?」
「あ?誰?・・・君」
ぽかん、とエッジはその金髪の男を見た。
いつも見ているような黒い髪の毛がまっさらに取り払われ、 そこにいるのはすっきりとした顔を持ったミシェルのような人の形だった。
その視線にはちょうど今言った言葉そのままの、「知らない男」という訝しさ、一粒。
「え・・・ち、違うの?」
「だって俺、君、知らないし。何?ああ、アレ?「ミシェル」の知り合い?」
「は?・・・ミシェル?」
金糸のような髪が乱暴に、ミシェルとおぼしき人間の手でかき混ざる。
その仕草はミシェルがいつも見せるような、バカ丁寧な手つきとはまるで違っていて、粗雑でさえある。
一人称が「僕」でなく「俺」になっているし、話し方も素っ気ない。
エッジは惑いの手本のように混乱しながら、そりゃアンタの名前でしょ、心の中で呟いた。
「この髪が、黒い方。あいつが「ミシェル」なの。お分かり?」
そこに、ミシェルは自分の髪を持ち上げて自信ありげに答えを示した。
ミシェル。あいつ。更に自問を胸に繰り返して、エッジはそれでも分からない常識人の体を現す。
「え・・・じゃ、あんたは・・・違う、の?」
「・・・そうだよ?俺はアルフォンス。そんでミシェルは、俺を支配した気になってる、冴えねー男」
がたん、といつもミシェルが鎮座しているマホガニーの机に、金髪のミシェル・・・ いや、当人が言うところのアルフォンスは寄りかかって随分ひどい顔でミシェルを罵る。
アルフォンス。どこかで聞いた名前だ、とエッジは思った。
「支配?って、え?何、どういうこと?え・・・あんたはミシェルさんじゃないんだ?」
「・・・分かんない奴だね、君も。ミシェルがメガネ取ると俺になんの。つか、なんなの君。ミシェルの何?」
別にあんな奴の何でも関係ないけどさ、とまったく興味の無さそうに、目を細める姿。
それは高慢で、自己中心的で、どこまでもミシェルと遠い所にある。
「い・・・居、候?」
エッジは言葉を探しながら迷うように上目を向いた。
実際、広すぎる図書館の一室をエッジは今借りているので、居候の部類に入るだろう。
短い旅のつもりが、なんやらかんやらで既に3週間近く経っている。
長い間暇を持て余していたミシェルが本には縁遠かったエッジに対し、 あれを読めこれを読めと毎日、多くの読書ノルマを課してくるからだろうか。
「居候ォ?アレが?俺、ここに女以外が居るの見るの初めて。あ、まぁ俺は女居るときしか出てこないけど」
「はぁ」
要するにこの目の前のキンパツは女好きなのだ、とエッジは理由を付けた。
確かに話の通り、メガネはその顔にはない。
いつも身につけている黒いエプロンの胸ポケットに引っかかっている。
それにしても、メガネを外すだけで金髪になるあげく、 性格まで激変してミシェルとまったく別の他人と化すなんていうのは非常識すぎる。
ミシェルという存在自体エッジにとっては非常識だったというのに、 ここにきてその濃度がさらに高まってしまった。
「じゃあ、メガネ。掛けてくださいよ。コレの続き、どこ在るか分からないんで、俺」
とにかくエッジは目の前の金髪を見てから落ち着かないままだ。
いつもと違って自信満々で攻撃的な視線や、穏やかさのかけらもないしゃべり方。
慣れたミシェルの面影はひとつもない。顔も姿もまったく同じなのに、この違いはなんだろう。
エッジは読み終わった上巻の本をかかげて、エプロンを指さした。
夜読み終わって、続きが気になっているのだった。上下巻の下巻がどこにあるかを、エッジは知らない。
「嫌だよ。久しぶりに出てこれたんだから。もう少し、遊ばないとね」
「え。いや、だって・・・」
「俺の方がずっと、力もあるし制御出来んのに、なんで抑え付けられなきゃいけないんだっ、つの」
しかし、それをアルフォンスは一蹴する。あまりに呆気なく、簡単に。
それと同時に、バン、と強く机を叩いて出る声は苦々しい色を持つ。
だがすぐに姿勢を正し、ミシェルは好奇の目で外を見回し、軽々しい笑顔を作る。
「さて、それじゃ誰か美人でも誘って来ようかな」
「え?は?誘う?ここは、どうすんの!」
「君が見ててよ。真面目そうだし、よろしく」
「ハァ!?ちょっ、お前!」
片手をふり上げてテーブルから身体を離すと、アルフォンスは玄関へ向かって歩き出した。
その口ぶりから察するに、司書の仕事を放り出して外へナンパにでも行くらしい。
エッジは目を丸くしてそれを止めようとするが、振り返ったアルフォンスは冷たい視線をして、 真っ直ぐにエッジを指差し、嘲笑するように言い放つ。
「ミシェルに言っといてよ。そろそろ立場を譲らないか、ってね」
「・・・立場?だから、何の、ことすか」
苛立ちに似た声色を発してから、エッジは自分自身の怒りに気づく。
目の前の姿がこの上なく嫌いだと感じる感情にも、気づく。
そこでエッジはようやく、アルフォンスという名の既視感の原因に辿りついた。
ミシェルのフルネーム。アルフォンス・ミシェル。
街で聞いた名とあの時の情景が、一瞬で脳裏に蘇る。
エッジがアルフォンスを見つめて目を開くと、指差した格好を解き、アルフォンスは更に可笑しそうに続けた。
「はは、本気で君はあの馬鹿のことを何も知らないんだね。 エッジ君、だっけ。あいつに関わるのもう止めたら?何も知らない君が、あいつを扱えると思えないし」
黒髪のミシェルが決して見せない、歪んだ表情。
今一度それを見つめ、エッジは強く手の平を握り締めてその顔を受け止める。
いつでも、自らを何も語ろうとしないミシェルの笑顔を思い返しながら。

エッジ&アルフォンス(金)















アミュレット


わたしのこころはいつでも前を向いていなくちゃいけなくて、いつでも笑っていなくちゃいけなくて、
それは、わたしが、誰かをしあわせにするための存在だから仕方のないことなのだけど、
苦しかったり、悲しかったり、辛かったりするときに、そんな自分の存在が、
すこしだけ邪魔だと感じてしまうのは、きっと、悪いことなんだと、思う。
「どうした?ポエット。どこか・・・痛いのか?」
「え?ううん、大丈夫だよ」
ヘンリーくんがこっちを見て、心配そうな目をしてくれている。
今日はディーノ王子も遊びに来ていなくて、キャンディちゃんも居なくて、ふたりっきりだ。
ひとりで旅に出て、ひとりで帰ってきたヘンリーくんはあんまり泣かなくなって、
その顔つきは、どこか分からないぐらいに、だけど、確かにすこし、変わっていた。
わたしは羽根をぱたぱたと揺らして笑う。
「そうか・・・それなら、いいのだが」
「うん、ありがとう」
広い花畑は花の香りが漂って、とてもきれいな色をしている。
悲しいときは涙を流したいのといっしょで、ごめんねって言いたいときは淋しい顔に変わるのかな。
わたしの顔を見て、ヘンリーくんは困ったみたいに頷いた。
今のわたしは、子どものかもしれない。
こころが強くないと、天使はすぐに子どもに戻ってしまうから。
それを、わたしはいやって思ったことはないけれど、
ときどき、やっぱり、自分の天使っていう存在を、ふしぎに感じることがある。
「なあ、ポエット。あの話を聞かせてくれ。神さまにお仕えになった、話」
「・・・わたしは、ヘンリー王子の旅のお話も聞きたいな」
きれいなこころ。きたないこころ。いろいろなこころ。
いつも聞き手だったヘンリーくんは、今たくさん楽しい話をしてくれる。
わたしの悪い気持ちを、ヘンリーくんが笑って話す物語はかんたんに吹き飛ばしてくれる。
「ぼくの話か?でも、何を話そう?」
「あのね、テトラちゃんと初めて会ったお話が聞きたいんだ。あのお話、すごく好き」
それはまるで、わたしのこころまで綺麗にしてくれるみたいだ、とわたしは思う。
まるで、ヘンリーくんの話がわたしのこころのお守りになるみたいに、
わたしは、ヘンリーくんの話も、ヘンリーくんの笑った顔も好きで、好きで、好きで。
そして、とても、安心できる。
「そうか!テトラはな、今も、故郷で楽しくやっているって、この間手紙が来たぞっ」
「いいなあ。わたしも海の中を自由に泳ぎたいなぁ」
すなおな顔。すなおな話。すなおな笑顔。すなおなわたしたち。
ほら、こんな風に。
ときどき前を向けないわたしを、ときどき悲しんでいるわたしを。
いつも、必要だって言ってくれるようなあなたの存在が、わたしの中のしあわせなんだよ。

ヘンリー×ポエット















ダークシード@quarrel


「それで、貴様は、みすみすと奴を孵した訳か。そこで仕留めていれば全てが円く納まったものを!」
「治まれ、ロキ。死では解決せぬ事だ」
死でなければ何が解決する!と更に魔女は声を荒げた。
猫から話を聞いた後、ここへ足を運んでから終始、魔女は苛立ちに支配されている。
目の前のピアノは、赤い鳥が自らを復讐と名乗ったにも関わらず、彼を放し、そして庇った。
自分自身の贖罪を癒さんがため、この悪魔は醜い粗暴を森に放し飼いにしたのだ!
愉快な勘が当たった、と魔女は唇を噛み、爪を頬に突き立てる。
噛み癖で鋭くなった爪は皮膚をたやすく貫き、血をゆるく滲ませていく。
「随分と暈けたようだな、森の師。その蒼い手には未だ、悔恨と怨念が燻っているだろうが」
「・・・この手は、わしの責の証だ。既に他を危める為には存在して居らん」
赤い鳥の行方は掴めていない。
身体にまじないを掛けているのか、術でも位置を特定できずにいる為だ。
現在は森の中で、取るに足らない小さな騒ぎを起こすに留まっているようだが、
その細部まで魔女は把握しているわけではない。
薄い金色の眼を開くピアノの声はしわがれて、それは今にも消えそうな、背丈の低い蝋燭にも似ている。
「・・・使えぬ腕だ。嘗ての程度も鈍り、今は平和とやらに逆上せた名ばかりの悪魔か!」
「ロキ。力だけでは、如何にもならぬ事があろう。パロットを無にすることで何が解決する?」
「云うまでもない!奴を消せば今すぐにでも森が平穏に戻る。
 ・・・それとも貴様は、奴の「復讐」とやらを完遂させる為に、森を絶てとでも云う気か?」
肌に食い込んだ爪で己の肉をきつく抉り、その問いに魔女は嘲りを返す。
滲んだ血は筋となって頬を伝い、顎に染みていく。
復讐など、あまりに愚かで下らない、弱い生き物の考えつくことだ、と、彼を嗤う。
「・・・それを赦した訳ではない。パロットは、見境を失ってしまっただけだ」
「故に暴走しているのだろう!何時まであの間抜けを庇うつもりだ、グランドハンマー!」
ゆっくりと、悲しみに支配されたようにピアノは喋った。
その口調には赤い鳥に対する優しさも、憂いも、諦めも含まれているように思える。
しかし魔女はそこに明らかな怒りを見出し、師の名を呼んだ。
頬に立てていた爪を勢いよく振り払ったためか、肉が飛んで地面に落ちた。
赤い色の肉片。羽根の色。彼の色。憎悪の色。
熱さの残る温度は森の冷たさと相反し、その翼と似通った微笑みをする。
「・・・ロキ」
「黙れ!貴様に訊く事はもう何も無い!其処で一生、奴を庇い立てしていろ!!」
流れ出る血を乱暴にぬぐい、魔女は師へ背を向ける。
たがう存在の先に居るただひとつの姿は、痩せた光景を冷笑し、眺め続けるのだろうか。
師は去る背中を見つめ、そして、彼を思った。

ロキ&グランドハンマー















鬼ヤライ


「がーくしゃ様ァー」
世の中にはここまで人を苛立たせる声があるのだということを、その日鴨川は初めて知った。
それは丁度当人が古びたカレンダーの日付に不格好な丸を付けている最中の出来事で、
まったく意気揚々に支部長室に入ってきたダースに、呆れを通り越した視線を鴨川は投げかけたのだ。
「何の用だ」
指を折って、心底嬉しそうに炎が振りまく火の粉は部屋に散らばって明るさと暖かさをもたらしている。
ドアのすぐ近くに掛けてあるカレンダーに向かった鴨川に気付いたダースは、
気味悪くニコニコとしながら、すばやくその背に迫った。
「嗚呼、丁度好い!」
赤ペンを持ったままの鴨川は、無骨な声を発しつつもその容姿に似合わない人間的微笑みにたじろぐが、
ダースはお構いなしに振り返って変な顔をしている鴨川にうしろから引っ付き、
その肩越しに腕を伸ばし、カレンダーに指を這わせる。
「な、お前、おいっ!は、離れろ!」
どすん、と乗ってくる肉体の重みと真後ろから伸びてきた手に、
一瞬、鴨川の思考は止まり、赤ペンが歪んだ線を描く。
しかしじゃれるようなダースの着物の動きとその線でなんとか自我を取り戻し、
自分の状態に気付いた鴨川はワーッと暴れて、大声を出した。
覆い被さってくる身体は好機じみた熱を持っており、わずかな火照りを帯びている。
少しだけ抵抗して体力を奪われながら、熱い、と、鴨川は思った。
「・・・アレェ?」
それでもまったく動じることなくダースは鴨川を抑え付けて、
彼の付けた不恰好な丸をゆっくりと指先でなぞったあと、その日付に顔をしかめた。
2月3日。それは互いにとって、大事な日であるようだったが。
「・・・アンタ、何で此の日付に丸してるんです?」
何故かさっきまでの上機嫌をあっさりと覆し、ぐい、と肩を掴んでダースは鴨川の視線を自分の方へ向ける。
思わぬ力に、若干怯えた鴨川はダースに真正面を向けられた。
「は・・・?い、いや、この日は淀ジョルに関した一般向けの講演があってだな・・・」
定まらない視界に唐突に飛び込んできたダースの顔は見事に不愉快そうだ。
短い間隔で乱暴にされた鴨川は、怖ろしめな視線を受けて思わず素直に理由を喋る。
この日は実際、随分前から組まれていた大きな講演の予定日だった。
IDAAにしては珍しく、一般にも開放した講演で鴨川もそれに力を入れており、
だからこそ、こんな風にご丁寧な丸を付けたのだ。
「講演!何で選りに選って此の日なんですか学者様ァ!」
いきなり表われ、無駄に嬉しそうだと思えば怒り始めるダースの格好は、
鴨川にとって今現在も逐一さっぱり理解できないままである。
もちろん、交わされたままの視線で嘆きに似た大声を上げる目の前の大げさな格好も含めて、だ。
「いや・・・半年も前から決まっていたんだ、よりによっても無いだろう」
今にも莫迦だ莫迦だと罵りそうな唇は互いに呆れを呼んでいる。
鴨川は肩を掴まれた強い力にやはり不快そうにしながら、ぬるくダースを睨んだ。
「其れでも二月三日たァ・・・此の日は鬼をブッ殺す日でしょうがァ!」
「ぎゃあッ!」
だが、ダースは自分勝手に嘆いて鴨川をゆさゆさと揺さぶり、自分勝手にがっくりとうな垂れた。
鈍いその衝撃に鴨川は判断が取れず、潰れた奇声をあげて身を任せる格好になる。
指が力を失い、赤ペンが床へと落ちた。
なにやら不穏かつ滑稽な空気は拭えないまま、
鴨川の肩に額を乗せたダースは盛大にため息をついて悲しげに地面を見つめ、
何がなにやらと慌てふためく鴨川は不用意な温度にぐるぐると混乱した頭を抱えていた。

淀×鴨川


















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