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月蝕仮面


「はぁ、ハァ、はぁ」
猫は疾走していた。
自身の感情さえ満足に理解できないまま、暗い森を駆けていた。
死という、生きるものにとって最も恐ろしい感情の影が襲ってくるような幻想が、
逃げても逃げても後から追いかけてくる気がして、ただ猫はその恐怖から走っていた。
「嘘だ・・・!」
ほんの10分ほど前に彼の店へ訪れた紅い鳥の言葉が、未だ脳裏にこびりついている。
『この森が死ぬ』という言葉。鳥の発した、「絶望」、そのもの。
何度も転びそうになりながら、猫は、ただ一人の人物のことを考え続けていた。
鳥が、猫が、この森に生きるすべての生き物が師事を受けたであろう、旋律の失われた悪魔を。
「先生!先生っ!!」
暗い森は月の灯かりを浴びてもなお、闇に沈んでいた。
しかし、猫が叫びながら駆け込んだその場所は何に照らされていないにも関わらず、
ぼうとした、柔らかくも冷たい光を全体に放っていた。
猫は肩で息をし、目の前で沈黙を守っている荘厳なピアノへ近寄る。
「先生っ、起きて、先生!大変です!大変なんだ!!」
そのピアノこそ、彼が心を傾ける森の悪魔・・・「先生」であった。
形振りを構わず、猫はただ頭から紡ぎだされる言葉をでたらめに放り、悪魔の傷だらけの身体を揺する。
悪魔が最も嫌っている、『触れられる』という行為にさえ己で気づかないまま。
「・・・・」
「先生、お願いです、お願いだ!パロットが、パロットに、殺されてしまう!!!」
揺すっても、揺すっても、悪魔は目を開かなかった。
針のように薄く噤まれた瞼は黒い光沢の中にしまわれ、動くことはない。
自身の発した言葉で気付いたように、猫は一瞬、ピアノを揺する動きを止めた。
殺されてしまう?
「・・・・先生?」
まさか、と猫に戦慄が走る。
すべては遅かったのか、と、鈍器で殴られたように猫は2、3歩後ずさって、悪魔を眺めた。
夜に写る、光に照らされた姿はあまり見慣れた姿ではない。
これが本来の、悪魔の眠りであるのか、猫には判断が付かなかった。
「嘘だ、・・・嘘でしょう!先生・・・先生っ!!」
だからこそ、確信を得ない不安に揺り動かされ、狂ったように猫は喚く。
心より頼るべき人物の喪失を、押し潰されそうな恐怖と共に受け止める心など猫は持ち合わせていない。
「先生・・・・起きてください・・・・」
『この森で、僕と出会う総ての生き物は地獄を観る』。
ああ、これが、鳥の言っていた地獄というものなのか。そう、猫は思った。
身体中に染み入っていく絶望は、静かに猫の瞳を濡らしていく。
項垂れて、猫はその場に打ち崩れるように膝をついた。その拍子に、草に雫がたれた。
「・・・・アルビレオ?」
わずかなその音色に、目の前の旋律が震える。
俄かに猫は顔を上げた。視界はぼやけて滲んでいた。よく、見えなかった。
「触れたのは・・・お前か?どうして、こんな時刻に此処に・・・」
それは、薄い瞼に開かれた金色の眼だった。
猫が見ていた、見てきた、その、誇りと畏れを持つ、異形の瞳だった。
「・・・先、生・・・・・・・」
よろよろと猫は立ち上がる。力が上手く入らない。悪魔の重い声が、身体の中で宥めるように動いていく。
思考はまだ凝りを抜け出せていなかった。
「・・・どうした?」
そんな猫の姿を悪魔は見ていた。広がらない疑問符は、温度を見せずに揺れている。
猫は、ただ、話そうと思った。
ここに存在する生を喜ぶことも、己を吐露することも、泣き喚くことさえせず、
ただ、あの鳥と再会した全てを話そうと、涙を流して、顔を上げた。

アルビレオ&グランドハンマー















祈祷季冬


「・・・・・」
ひとつの繋がりで十を知るということは、決して便利なものではない。
そう、女は思った。麝香で煙った、草の家の中は湿り気が強く、島の気候をよく表していた。
「・・・MZD。居るのでしょう?」
眼に紅い縁取りをした女は、真正面の麻で出来た敷物を見つめる。
誰も居ないその場所は、女の視線の一つで居心地悪そうに揺れて、濃度を増した。
煙った空気の中。その視界に、人影がぼやりと、表れる。
「・・・あ、気付いた?」
「気付かれていたがっていたみたいよ。・・・相談があるの」
女の瞼はゆっくりと閉じ、そしてゆっくりと開かれる。
目の前で、あまりにもわざとらしく、その人影は男の姿をしてにかりと笑った。
空気に紛れた隠れ方は、男にしては下手な部類だ。
ならば、ここにそうして表れる理由も分かりやすくわざとらしく、下手なものとなる。
女は、手早く話題を進めた。この島の、危惧という不穏を。
「・・・ん、知ってる。祈祷師だろう?」
「ええ。ナディ、というの。今の・・・島の長。『神の手』よ」
神の手、とは、この島の長の通称であり、その名の通り、神の手、僕となることだ。
「あれ。長、お前じゃなかったっけ?」
「・・・あの子は、私を霊力で抜いた。そして島に認められたの」
「お前を?え・・・嘘っしょ?」
女は、これまでの永い期間、長を務めてきた。
それは、女の力が常人を遥かに越える力を持っていたからに他ならない。
そして女の力に守られ、島は平穏を保ってきた。しかし、それはひとつの存在によって崩れつつある。
「本当。あの子はこの島にとって毒になる程の力を持っている」
「あ・・・だから、影が、出ねぇのか」
そう、それこそが、女の呟く『あの子』・・・つまり、現在の、島の長だ。
男は気付いたように背後を振り返り、何も居ない空白を見やった。
常に男の背で男と共に喜怒哀楽を模す相棒は、島に入った途端に姿を消した。
「そうかもしれない。影響力が強いの。あの子に干渉するものは雑音として消されてしまう」
「なるほどね。・・・それは、敵意でか?」
「・・・恐らくは、そう。あの子は、己の存在が全てなの。自分の力以外を信じていない」
「そいつぁ・・・厄介だな」
「ええ。だから、貴方が来たのでしょう?」
にっこりと含むように笑えば、同じように男も笑う。
奥に憂いの混じる女の眼は、島に対する不安ならず、長にも向いているように見えた。
自分以外を見つめない眼。
神の手は確かに、それを持つ、ナディと呼ばれる娘に与えられたのだ。

シャラ&MZD















フレーバー


「・・・・・」
「・・・な、何、何を見ているッ」
それは彼が、おどおどとしたまま奥地の壁画に細工をしていた頃の話だった。
彼の横ではよく判らない小さなブツがじっと彼を見上げており、
目の前の壁画をいくぶんミニマムにしたようなその形は暗がりの炎に照らされて、
妙な不気味さを兼ね備えていた。
「・・・・・」
「み、見るなッ。ボスの命令を遂行中であるぞッ」
べたべたと赤い何かを壁画に塗りたくりながら、彼は焦ったように口を速める。
その生き物の眼はブラックホールのような強い求心力を持っており、
揺らぐことのない視界は一点、彼のみに集中していた。
「・・・・・」
「み、見るなと言っているッ。失せろッ、ばか者ッ」
しかし、見られることに不安を覚えているのか彼の脅えた表情は崩れない。
舞い上がる視線に居心地を悪そうに壷の中で手をぐるぐると回し、
遂には小さなブツに対しべたべたしたものをえいやっと投げつける。
「・・・ナニヲ、スル」
「ヒッ!・・・しゃ、しゃ、喋ったッ!?」
「・・・我ハ、ココヲ、守ル者ダ。侵略者ハ、去レ・・・」
べちゃり、とそれを避けることもなく顔で受け止めた小さいブツは、ゆっくりとした仕草でそれを剥ぎ取って、
まるで地獄の業火のような、はたまた漆黒の鴉のような声をぞわりと上げた。
全身を使って、彼は飛び上がるように驚きながら白目を見せる。
「な、な、な、な、な、な、何を!ぼ、ぼ、ボスの命令であるぞッ!逆らうわけにはッ・・・・!」
ボスの命令は最優先実行事項であり、絶対である。
彼はしどろもどろにもなりながらも果敢にブツへ逆らってみたが、
ぎろりと眼を光らせて、ブツは有無を言わさぬと言わんばかりに、彼を睨む。
「去ラヌ者ニハ、災イヲ・・・」
「な、な、な、な、な!!!」
手を厳かな仕草で持ち上げ、ぴたりとそれを真上で止める。
それを合図とするように、ブツの影は彼の大きく後方へ伸びた。
目玉を光らせ、まるで一つの命を持ったように視線を揺らす影は大きな身体を持った化物のようだ。
「災イヲ・・・」
「ひ、ひ、ひ、ヒィイィィィィイイィィィィイ!!!」
彼は、それを見たとたんに大声を上げ、そして一目散に逃げ出した。
いくら命令に忠実な部下の一人であろうと、やはり、恐怖には勝てなかった。
凄まじい音を立てて逃げ去ったその後には、ブツの姿のみが残る。
でろんでろんになった壁画を見上げ、影を消し、上げていた腕を静かな仕草で降ろす。
防人は防人の仕事を成すだけだ。
べちょりと壁画に乗ったヌメヌメしたものを、手でなぞってみる。
甘い香りがした。それは苺のジャムだった。
「・・・・アマイ」
おもむろに舐めてみる。甘い香りの通り、味も甘い。そしてどうにも、美味かった。
ゆっくりと、再びブツは壁画を眺める。
背の影と同じ姿をした生き物が書いてある、暗がりの壁画。
苺のジャムに彩られた絵の防人。
これでは守っている証にならないな、と、ブツは思った。

部下A&パピルス















欠損ガロン


「・・・お前。中々、好いなァ」
炎は、舌なめずりをしながらそう言った。
首元に当てられた手製の計測器は乱暴な数字を絶えず吐き出しており、
その視線の先には黒髪の男が鬱陶しそうな顔でその数字をノートに書き込んでいた。
「馬鹿なことを言うな。僕は冗談は嫌いだ」
「その顔ォ。莫迦な眼が、好い」
ペンを走らせたまま男が悪態を呟けば、間髪入れずに炎は言葉を重ねてくる。
頬杖をつき、緩やかな格好を維持しながら時折、男の髪の毛をいじくり回して笑っている。
「僕は、もっと冴えた眼をしていると思うがね」
「俺は酷ェ有り様のが好みなんだよ」
その仕草を面倒がることもなく、男は冷えた感情を投げつける。
遊ぶ指先はツ、と額から頬に移り、肌と布との摩擦を起こす。
そこで男は初めて炎に視線を向けた。
「・・・僕に向かって『酷い』という形容詞を使うとは。分を弁えたまえ、化け物」
「ヒトの分際で其の眼かよ。学者風情が」
鋭く炎を戒めても、彼自身はまるで動じない様子を変えずに指先を下に走らせ、男の顎下へと食い込ませる。
沁みこむ感覚に、びくりと男の身体が強張った。ペンを握る手が乱暴に止まる。
「止めろ。ジョルカエフ殿との証を消す気か」
「俺はアレとは違うモンでねェ」
その喉には、濃い水色の痣が、円の形で丁寧に首を一周していた。
よく目立つその痣を覆い隠すように、炎は指を器用に動かし男の刺す眼を受け止める。
男の視線の先にある、『彼』の存在をそのまま消してしまうように。
「・・・確かに、君は、彼とは違うな」
首へ染む指の感覚は呼吸を困難にするほどではなく、男は炎の意図を心底遊戯的だと感じながら、
ノートの数字と計測器の数値とも見比べてわずかに微笑んだ。
「何だと?」
「君は欠陥品だよ。どうやら君の異能は見事な失敗作のようだ」
ノートを見せつけるように炎の視界に晒せば、彼の意識はそちらへ移り、その指は緩む。
見逃さず、男は喉から手の平を引き剥がした。
べたん、と頼りなく炎のそれは机へへばりついて、気づいたように炎は見上げた。
「・・・テメェ」
「真実だ。数値のアンバランスさが顕著に出すぎている」
まぁ君に言っても分からないだろうがね、と、怒りを帯びた感情を男は軽くあしらって、
眼鏡を押し上げて、片方に不満足そうな顔をする。
炎の存在に関して期待する結果が出なかったことへの失望だろうか。
男は首元を押さえて、だらしなく開いたシャツと共に肌を撫でて炎の視線をゆっくりと捉えた。
「安心したまえ。君が使えないことは無い。精々利用させて貰うよ、漸くん」
机に手の平をくっ付けたままの体勢でいた炎は、あからさまに顔を曲げる。
その言葉にも、内容にも、最後につけられた謎の単語のどれもにも、納得が出来なかったためだ。
「・・・漸くん?」
その中でも最も不可解なものに、炎は怒りを忘れて疑問符を無意識に取り出してみる。
にっこりと笑い、男はノートにひとつの単語をすらりと書き、語尾を丸で囲んだ。
「君の名前の英単語から、拝借してみた。ダース、では呼ぶに些か滑稽過ぎるからな」
「・・・・・」
そこにはDOZEN、という単語が癖のある字で書き込まれていた。
ZENの部分に乱暴な丸が付いている。
炎は数秒黙ったあと、ノートを掴んで自分に正方向を向くようにぐるりと回し、
更に数秒黙ってジッとその単語を睨みつけ、眉間にしわを寄せたままノートから男へ視線を移した。
「・・・解せねェ」
「そうかい?流石僕のネーミングセンス、と言わしめる所だと思うんだが」
「・・・・お前、アタマ、可笑しいなァ」
心よりの炎の言葉に、意味が分からないね、と男は立ち上がって炎の首から計測器を取る。
指越しに感じた冷えた肌の温度を鈍く現実と理解しながら、
大層な玩具を見つけてしまった、とお互いはお互いをのんびりと見やっていた。

2P淀鴨















琥珀人魚


「・・・なぜここへ来たの」
少女は、心底強張った声で、歪んだ顔をさらに歪めて言い放った。
彼女の中の雪は、止んでいた。
「・・・・・、・・・・・・猫。貴様の名前は、なんだ」
かすれた声の主は少女の眼下で倒れていた。
いつも纏う炎は消え失せ、その代わりの赤が身体中にこびりついているだけだ。
蝋に似た男の姿は、今一時の間だけ、その硬さを失っている。
「・・・神の所へ行って。早く。まだ、間に合う」
その地面に温い溜まりは出来ていない。しかし、少女の目は凝りを逃れようとしているようにも見える。
だがそれを手にして扱うこともなく、ただ少女は突っ立ち、男を見下ろし、そして、焦りを促す。
「・・・教祖様は、関係ない。聞いているのは貴様の名前だ」
男は目玉だけを動かし、少女に問いを強要する。
他の部分は動かないのだろうか、と感ぜられるその鈍さ。
執拗に、少女の名前を求める姿は、彼女との温度の異なる彼の中の焦りなのかもしれない。
「わたしには、ナマエなんか、ないわ」
少女の声はわずかに上擦り、鋭く震えた。
それは発せられる声だけではなく、混濁した感情もせり上がっているようにも思えた。
平坦さを保とうと、少女は掠れた喉をごまかすように瞳をわななかせる。
そうだ、彼女には名前というものが存在しない。
これまで、この男に対してなにも答えないことで己の平穏を維持してきた少女は、
はじめてその問いに応えられないことに悔しさという苛立ちを覚える。
「・・・そうか。残念だ。貴様は何一つ期待に添うことが出来ない生き物だな」
からからと、乾いた実の鳴る笑い声。いつもの高さの失せた笑い声。
男はそうやって笑った。独裁者のように。何故か僅かの哀しみを帯びるように。
それは、その答えが真実であるからこその響きなのか。
少女は歪む表情を必死で抑え、両手を握る。
「・・・どうして。なぜなの。わたしには何もできない。・・・できないのよ!」
少女という彼女をこの場に構成しているものは冬に舞う雪と似たような集まりだ。
そして男を構成しているものは拷問を浴びるような、なにもかもを灰に変える灼熱だ。
触れることさえ適わない、というありきたりな寓話。
それを男も、少女も、はじめから理解していたのだろう。
だからこそ、男は少女を支配しようとし、少女はそれを拒絶した。奪う直前の、見開きのように。
「・・・それでいい。もう無駄だ。貴様は何も出来ない道具でいい」
「・・・!」
唇のない少女の口は、言葉のない叫びに断ち切られる。
科白のように綴られる皮肉じみた男の口元を視線でなぞり、苦しく顔を強張らせる。
・・・・・・無駄なのだ。こんなものは、すべて、茶番なのだ。
ただ、ただ、と目の前の、それだけを望む。そこには何の意味もないではないか。
何の意味もないそれだけの為に、ここに居る、ここに留まる、そのあまりに無意味な固持。
それが、或いはもしかしたら、男の中の凝りそのものなのか。
「・・・馬鹿なコトを、云わないで。アナタは、また、わたしを、罵るのでしょう!」
かすかに我武者羅な態度で、少女はしゃがみこんで男を覗き込んだ。
二人の視線が、真正面に合う。
「・・・終わる。貴様も底では理解している筈だ」
男はその眼を全く少女から外さずに高圧する。
ああそうだ、知っている。少女はそう思う。なにもかも判っている。
ミトンに包まれた手が鋼のように硬く固まり、つぐむことのないその瞳から雫がたれた。
男の胸に落ちるそれ。
まるで涙と喩えられるその液体は、その胸へ落ちると同時にすぐさま蒸発する。
「・・・アナタの言葉など、わたしは、信じないわ」
「おい・・・猫?判っているのか、貴様・・・」
「うるさいわ。・・・いいの」
その煙が消える間もなく、少女は、その視界になにをも見ず、男へ手を伸ばした。
それはただの、ありきたりな寓話に似た物語の終焉だった。

極卒×おんなのこ


















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