鬼よ死せ


「恐い目ェ。嫉妬?」
「テメエ等の王子様にか?」
「そ。世界を誑かすあたしのおーじさまー」
「黙れよ」
「・・・怖ァい」
詩織はわずかに傅いた目でそう言ってみせた。場所はいつもの研究室。
『ヒマだから』とドアを蹴りながら、試験期間の喧騒の中を容易く縫って詩織はここへやってきた。
ダースは鴨川の所用を珍しく把握しており、
苛立ちまぎれにその首筋へ噛みついて分かりやすい痕をつけ、ここに留まった。
ぶらぶらと研究室の食料品を漁っていた詩織は、何十本も無造作に並んだバランス栄養食にあからさまな嫌悪を示す。
「大豆入りバー。コレ美味しいけど帳くんが食べてるの想像すんのなんかヤダ」
「豆かァ・・・王子様が活躍しそうじゃねェか」
「淀さんさっきからしつこいよ。確かにこの時期は一番ジョル様の目撃情報が増えるけど」
「だからあの莫迦鴨も出てった」
「ちゃんと准教授の仕事でしょー?それにインディーズの研究じゃ帳くん結構イイ線行ってるんだよ。
 淀さんが来たからイロイロ証明されてるしさァ。ハーフの王子様がなんでこの時期なのかって思うじゃん」
新発売のストロベリー味を抜き取ると、詩織は包装を破ってそれを食べはじめた。
たしかにジョルカエフは冬を好んで3次元世界に現れる。
ムスリとしながらダースは詩織の無遠慮な様を逐一眺めていた。
かの存在で何となく浮かび上がる自分自身の過去を脳裏のはしで捕まえて、
詩織と同じように無遠慮な仕草でそれを思う。言葉にする。
「・・・詩織。俺の、下での役目知ってるか」
「下?・・・何だっけ、地獄、みたいなトコだっけ?前話してくれた?」
「鴨がジョルカエフの生い立ち視つけた話の時だ」
「・・・ああ!うん、思い出した。下、わかる。・・・で?え?役目?」
「そう。話したっけなァ、「鬼殺し」」
「・・・え?な、に?・・・日本酒?」
「違ェよ。節分、有るだろ。如月の三日。鬼は外福は内」
「うん。ある。わかる」
「其の鬼を殺すのが俺だ」
「・・・は?鬼?・・・って、カクーじゃん。居ないじゃん」
「実際には居るんだよ。節分の慣習で、形に成んだ。其れを俺は殺す。悪しきモンが散らない様にな」
「だって。淀さんはすぐに住んでるとこ追われたって。そんな役目、あんの」
「面倒な仕事請負って、暫く凌いでたんだよ。鴨には謂ってねェがな」
「・・・鬼、って、何?」
半分ほどバーを残したまま、詩織は鴨川の特等席(要するにふかふかの椅子だ)に座り、
のろのろと褪めた手つきを使うダースの顔へ真剣な目つきを寄せた。
ダースはそれを掬わず、さして面白い顔もせず、過去の己を呆気ない温度で紡ぐ。
意図は掴めず真意は空だ。そこには何の感情もない。
あまりに単調で、簡素で、無味乾燥な声。
「ヒトに害齎す者。ヒトにとって恐怖に為る物。ヒトの歩みを妨げる者」
「何ソレ。・・・下、って、・・・人間を守るためにあるものなの?」
「違うなァ。最終的に下の不利益に為るから、だろ」
「・・・それってさ。鬼って。・・・若しかしてジョルカエフ様?」
「・・・やっぱ、テメェもそう思うかァ?」
「だって、ジョル様メチャメチャ人にちょっかいだしてるじゃん」
「俺も今そう思った。此の時期、ってのも気に為ってなァ。だから話した」
「・・・・」
一口大豆バーを齧る詩織は思案している様子だ。
意識がそこにないのか、ボロボロと大豆バーの屑が床に落ちる。
ダースはぼうっと自分の手の平を見てみた。
手袋をしていないので(彼は手袋が嫌いだ)めっぽう、蛍光黄緑の色をしている。
鴨川の真っ黒く沈んだ髪を弄った指先。
いつかはこの指で鬼を殺していた、と浮かぶ記憶は今の生ぬるさには全く似つかわしくない。
そう思うと、いつの間にか詩織は顔を上げている。酷くきつい目だ。
「殺せんの」
「ア?」
「鬼。てか、ジョル様。あたしそれしたら絶対に許さないからね」
「殺したいのは山々だけどなァ・・・」
「何」
「こっちに来た時点で、力は消えてんだよ。散々試したけど駄目だった」
「・・・そんなら、いいけど。いっくら帳くんが好きだからって、ジョル様は、殺さないでよ」
「好きじゃねェよあんな屑」
「そういうのはどうでもいい。ってか力消えてんの!?何ソレ話す意味あった!?」
「其れこそ如何でも良いなァ。鴨は未だか鴨は」
「まだじゃないの?あーあー、どうせ節分なんだしジョルカエフ様にお会いしたーいっ」
「とっととテメェが手籠めにしてどっか連れてけよあのキメェ青白悪魔」
「悪口は言わないで。殺すよ?」
「・・・炎殺し、ってか。冗談じゃ済まされそうに無いのが痛ェなァ」
呆れるようにダースは笑った。それでも提示された好意は否定する。
詩織は片手に淡い光を浮かべてダースの眼前に晒し、不機嫌にバーを食べつくした。
エアコンで蒸された研究室に、節分前後の2週間を蛍光緑のマーカーで無造作に塗りつぶしたカレンダーが貼ってあった。
中心の節分の日には蛍光緑色の上に紫色のマジックで丸が付いていた。
互いはそれに気付かないまま、鴨川とジョルカエフを話題に、ただ単調な会話を続けていた。


2P淀と詩織















ハートに火をつけて



「あれ。マルついてる」
「丸?」
「そ。明日。鴨さん付けたの?」
「・・・。 ・・・いや?」
「苦い顔だねぇ。いやゴメン、そういう気じゃないって」
「そういう気、・・・とはどういう気だね」
「別に、仲を焚き付けようってワケじゃないってこと。付けたの淀だろ?」
「・・・ああそうだ、丁度1週間前に、やられた」
「アイツ、無遠慮だもんなあ。よくやるよくやる」
「される身にもなってくれ。心労が絶えない」
「だろうね。節分かァ。・・・鬼が暴れるが故ってね?乱暴だけどよく護ってくれてんじゃん?」
「・・・何の話だ?」
「ん?淀は優しいって話だよ」
「・・・、MZD、君も節分でおかしくなったのか?」
「何でェ?俺、至ってフツー」
「どうしてアレを優しいと言えるんだ・・・」
「判ってる癖にィ。ほんとの優しさは目には見えないものなのです。  回りくどい炎は優しさを隠す、ってね」
「・・・君にしては下手な言い回しだな」
「っと、お互い相手のことになると厳しーね!それも認めてるから、なんかな?」
「・・・MZD?」
「なに?鴨さん」
「結局焚き付けているぞ、君」
「・・・あれ。ほんとだ」


鴨川とMZD















送歳陽春



「・・・落花生」
「そうだ。これなら割って食える」
鴨川が今日提案した事柄で、唯一ダースが許したのがこの会話の内容だった。
今日は節分、カレンダーに丸のついた(いかにも勝手な)記念日だ。
現在は様々な怒号、言い合い、口喧嘩、もめごと、罵倒、もろもろの事項を乗り越え豆をまき終わったところで、
一方(炎の方)はソファーに転がってテーブルにうず高く積まれた落花生の殻を割っていて、
一方(青い方)は、そのソファーの後ろにある、
実験器具などが積まれた机に凭れかかって、同じく落花生の殻を割っていた。
「・・・やはりいいだろう。こっちの方が」
「ブン殴りますよォ。あたしは今日、節分に於いて史上最大の譲歩をしました」
「最初に投げたのはちゃんとお前の持って来たものだったろう。これはその後だし、絶対、こっちの方が美味い」
ダースの言う史上最大の譲歩、および鴨川のこっちの方が美味い、は勿論のこと落花生だ。
鴨川は朝、投げるなら落花生を殻ごと投げてくれ、と、ダースに頼んだ。
部下の家で行っているやり方を聞いたもので、投げても割ってそのまま食べられるので衛生的にもよく、
ついでに投げたものを回収できるので部屋が汚れないでいい、ということだった。
これは良し、と思った鴨川は恐る恐るダースへそれを提案したが、1度目は当然のように一蹴された。
 「アンタはバカですかァ?炒った豆以外を投げるだなんて邪道です」
 「お前その炒った豆をいつも喰わせるだろう。私はあれが苦手なんだ、いつも歳分、食えたためしがない。
  それでまたお前怒るだろう?今年はちゃんと歳の分を食べたいんだよ」
 「・・・確かに。何時も其れで完璧な節分が迎えられないんですよねェ・・・」
 「だから、だ。落花生なら別に苦手な訳でもない、いいだろ?食う分だけでいいから」
 「・・・判りました。但し、他の事には一切、口を出さないで下さいよ」
 「・・・・・・・・・」
 「下さいよ?」
 「・・・、判った」
そんな会話があり、実際、そんな「他の事」で鴨川は随分酷い目にあったが、それを乗り越えて今現在ここにいる。
神経質に落花生の皮をとり、一粒口に放り込めば、大豆とは違った香ばしい味が広がる。
「うん。美味い。やはり落花生だなぁ」
「今一粒ですね、確認しながら喰って下さいよォ。・・・つうか其れじゃア足りないでしょうが」
「・・・まだ一粒しか食ってない。足りなくなったらくれ」
いちいち鋭いダースの目線に月を眺めながら口を動かしていた鴨川は、
机に置いた一握りの落花生に視線を落とし、曖昧に数を数えて要らない、と片手を振った。
落花生は15個ほど置いてある。たしかに足らないとは思った。
「・・・そう謂やァ、あたしはアンタの齢を知らんなァ」
「・・・別に、知る必要があるか?」
「別にィ。でも、斯うやって話題に出りゃア気に為る、ってモンです」
「そういうものなのか。・・・じゃあお前今何歳だ」
「ハァ?何であたしの話に為るんでェ?」
「私だってお前の歳を知らない」
「そうでしったけかァ。取り敢えず、此処に或る数で何とか足りる程度ですよ」
そう言うと、ダースはうず高い落花生の山を親指で示す。
見たところ200個はありそうだった。
大体落花生は1粒に2つほど中身が入っているから、単純に2倍してもかなりのものだ。
目を細めて、鴨川はダースの顔を見つめてみる。訝しさ、9割。
「400歳?化物、で全く相違ないじゃないか」
「何ですか其の眼はァ。あたしは話しましたよ、アンタも教えなさい」
「・・・この数じゃあ、足りない程度の歳だ」
「今しがたあたしが謂いました、足りないんじゃ無いか、と。生娘でも無ェんだ、隠す必要何ぞ無いでしょう」
「それはそうだが・・・歳を言ったらお前はまたろくでもないことで突っ掛かってくるだろ」
「・・・まァ。愉しいですから」
「残念ながら私は全く、楽しくないんだ。このまま話していたら明日になっても食い終わらんぞ。
 今日中に食べてこそ無病息災の祈りになるんだろ。私はともかくお前だお前」
「・・・。其れもそうですな。解りました、喰いましょう」
まだ明日になるには2時間ほどの時間が残っているが、
こうやって無駄に話していてはすぐに食いつぶされてしまうだろう。
しばらく沈黙して鴨川をじっと見つめていたダースもそれに気付いたか、
視線を落花生の山に戻して黙々とそれを食べ始めた。
「・・・・」
鴨川はそれを見てため息をつき、自分も落花生を割って皮を取り、一粒一粒数を数えて食べ始める。
パキ、とお互いの割る殻の音だけがしばらく続いた。
「・・・あ」
14つの殻を割り、28粒の落花生を食べた鴨川は、
15つ目の殻を割ったところで、手持ちの落花生が無くなったことに気付いた。
殻に入っている落花生は2粒、これでは見事に、足りない。
やはりさっき貰っておけばよかった、などと考えながら顔を上げる。
「・・・げぇ」
すると、いつの間にかダースは先程まであった落花生の山をほとんど崩し終わっていた。
うず高かった山はすでに平地と化しており、あと10粒あるかないか程度の量だ。
「・・・おい」
「ン、嗚呼?・・・嗚呼、学者様。夢中で喰ってましたよ。あたしはもうそろそろ喰い終わりますが」
「落花生が足りないんだ。くれ」
「だから謂ったのに・・・何粒ですかァ。数が一寸足りないかもしれないんで、丁度しか渡せませんよ」
「4つくれ。殻ごとでいい。それで丁度だ」
「エー、四粒、と・・・。処で学者様ァ、今迄何粒喰いました?」
「30粒だ。いいから早く」
「へェ。アンタ三十八かァ、歳」
「・・・・・・・あ」
「莫迦も此処までくりゃ愛らしいですね。はい如何ぞ」
「・・・」
ばら、とソファーから身を乗り出して、手を伸ばした鴨川に微笑みながら、ダースは4つ落花生を渡す。
あまりに簡単な誘導尋問に呆気なくかかった自分を苛みたい気持ちになりながら、
鴨川はそれでもなんとか嫌らしく笑うダースに睨みを返して落花生を受け取り、殻を割って中身を口に放り込んだ。
既にテーブルの上には数えるほどしか落花生は残っていない。
ダースはそれをすべて手の平に集めて数を数える。その時だった。
「嗚呼!ちょ、一寸学者様ァ!」
「わっ、・・・な、なんだ、大声出して」
「アンタ未だ全部喰って無いですね!?」
「ら、落花生か?あるぞ、ふ、2粒」
「嗚呼好かった!あたしの持ってる分じゃ丁度一粒足りないんです、下さい」
「いや、それは、・・・無理だろ。私はこの数でぴったりなんだ、いや、ぴったりというか・・・」
「何です其の茶を濁したような謂い方は。丁度じゃ無いなら返し為さい」
「いや丁度だぞ?今年を足せば」
「ハァ?今年?」
「数え年で38なんだ。だから丁度」
「・・・アンタねェ、あたしは去年も一昨年も謂いましたよ、喰う豆の数は満年齢だ、と」
「・・・え?そうだったか・・・全く、覚えてない。ってことは、1粒、余るって・・・ことか?」
「そうです!今自分の分喰っちまいますから、其れは残しといて下さい」
「ああ・・・、別に、いいが」
そう言うと、ダースは振り返ってソファーの背もたれに身体を預けた格好のまま、
鴨川の目の前で5つ分の落花生の殻を一気に両手で割った。
その中から粒を取り出し、きれいに手の平に並べて数を数え、・・・おもむろに顔を上げる。
「・・・ってェ事は、アンタは三十七なのか」
「・・・そうだ。黙って食え」
その様を、呆れたように、また半ば感心するように眺めていた鴨川は、そのダースの視線と真っ正面に対峙する。
不意を突かれた、納得。
それを対処することは難しく、苦い顔をしたまま、鴨川は短く頷いた。
ダースは満足そうに笑って、手にした落花生をいっぺんに口に頬張ってばりばりと食べる。
「さて、とォ。アンタも喰いましたか?」
「・・・ああ。食べた」
「じゃア残った一粒です。見せて下さい」
「・・・どうするんだ。半分にするのか?」
「其れも山々ですがねェ。手、御借りしますよォ」
「・・・? うわっ」
鴨川は広げた右手で落花生を差し出していた。
その手首を下から掴み、ぐい、とダースは引き寄せる。
「如何せアンタの力じゃ、半分にゃ出来ないでしょう?」
そして、鴨川の手に余った自分の手を上から重ね、にやりとした表情を見せて、挟んだ両手に力を込める。
パキリ、と乾いた音が鳴った。
「さ、此れで・・・、と。嗚呼好かった、二粒有りますな」
ダースは手を開き、鴨川の手の平に乗った殻のカスをのけて粒を確認する。
そこにはきちんと落花生が2粒、おさまっている。
「・・・面倒な、ことをするなよ」
「別に好いでしょう?減るモンでも余るモンでも無いんです。さて」
困惑した顔つきで、鴨川はため息交じりに口にした。
しかし気にせず、1粒の落花生を手に取ると皮を剥き、ダースは弄ぶような形で鴨川の顔まで手を伸ばす。
「・・・何、してる」
「喰わせてやる、って謂ってんです。如何せ半分だ、戯れですよォ」
「なっ・・・ば、かか!自分で食えばいいだろ!」
「好いじゃア無いですか。此の距離じゃ自分で喰っても喰わせてもそう違いませんよ」
「・・・、何で、そういう・・・、・・・!」
思わぬ提示に、鴨川は思わず身を引いた。
だが、ソファーと鴨川が身を預けている机とはそれほどの距離がない。
元々、人ひとりが通れるほどの幅しかないのだ。よって、鴨川はすぐに身体を机にぶつけてしまう。
距離は全く遠ざかっていない。
ダースはゆるく拒む鴨川を構わず、落花生をゆっくりとその唇に押しつける。
にこり。崩れない、微笑み。
「ほら。・・・早く」
「・・・・・・」
「はー、やー、く」
薄い唇に、落花生がぴたりと張りついている。実に、居心地が悪い。
ダースから視線を逸らして鴨川はしばらくそうしていたが、子どもっぽい2度目の催促で遂に諦め、
唇を数ミリ開いて舌を使い、落花生を口の中へ入れて、忌々しく噛み砕いた。
「食ったぞ、・・・この馬鹿」
「じゃア、喰わせて下さい」
「・・・はっ?」
「同じ事を。遣ってくれりゃア、好いだけです」
「私が!?」
「ええ」
「お前っ、に?」
「ええ」
「・・・い、嫌だ。絶対、嫌だ」
「何でですかァ」
「だって、そんな、お前・・・」
「だって、そんな、何ですか」
「・・・・わ、判った!やればいいんだろう、やれば!」
「ハイ」
「・・・・」
手に残った1粒をじっとりと見つめ、手に取る。
ダースは相変わらず背もたれに身体を預け、頬杖をついてその様を眺めている。
覚悟を決めたように、鴨川はダースへ腕を伸ばした。
「口、開けろ」
「・・・ちゃんとまともに喰わせて下さいよ」
「判ってる!早くっ」
「ハイハイ・・・」
申し訳程度に、ダースは口を開く。本当に申し訳程度で、放り込むような真似はできない。
鴨川は身を乗り出して、落花生をダースの口へ付け、開いた隙間へ人差し指で押し込んだ。
唇に指が乗る。鴨川がそうしたように、ダースは入り込んだ落花生を、舌を使って口へ入れた。
その動きで、舌が、鴨川の指をかすかに舐め取る。
「!」
「・・・おや。こりゃア失敬」
「わざと、か、お前」
「別にィ。其処迄の趣味は有りません」
「・・・ど、ういう意味だ!」
「ちゃんと喰えましたよ。如何も。此れで無病息災、過せましょうな」
「・・・」
びくりと身体を凍らせ、素早く腕を引いた鴨川を見据えたまま、ガリガリとダースは落花生を食べた。
鴨川はまだ厄介そうに手とダースとを見比べて応えようのない表情をとっていたが、
ダースの視線に気づくと、苦い声で口にする。
「・・・、お前、正確には、何歳だ」
「ハァ?何の御話・・・」
「教えろ!いいから!」
「今年で・・・三百八十と・・・少々。まァ五年程です」
「・・・そうか」
「で?其れが何か」
「・・・それ程生きてきてどうしてこんなに下らないことしか出来ないのかと思っているんだ、私は!」


淀と鴨川















Crimson Shortcakes


久しぶりに自宅へ戻り、久しぶりにIDAAの玄関をくぐった私は、
前日の夜には決してそこに無かったものに気づき、一度入口まで戻って、それを訝しく見つめてみた。
「・・・・。」
数秒眺め、それが何であるかをしっかりと認識した瞬間、頭の中で「あの馬鹿が」という科白が渦巻く。
言葉に出なかっただけマシだと思えばいいのだろうか?
1月の下旬、という時期で気付くべきだった。
私は片手で頭を乱暴に掻き、苛立った思考を抱えながらずかずかと受付へ足を進めた。
「お早うございます支部長代理」
「おはよう。・・・あのご丁寧な柊と鰯はダースの仕業かね」
真正面で、満面の笑みの受付嬢が挨拶をする。
そろそろ「代理」を取ってはどうか、そうも思いながら質問した。
万年来訪し続けるあの馬鹿を永遠に匿っていられる筈もなく、
いつからかその存在はIDAAの中で周知の事実として扱われるようになっていた。
私も既にそれを受け入れ、奴のことを所員たちに話すことに対して抵抗を失っている。
あからさまに不機嫌な私の声にひとつも笑顔を崩さず、受付嬢は滑らかに続けた。
「ええ。丁度節分から1週間前、昨年と同じです。支部長代理、撤去しておきましょうか?」
滞りない報告はいつでも100%、正確だ。
皮肉混じりの完璧な微笑みに濁った表情を返し、首を振る。
「いやいい。一昨年の惨状を憶えているだろう、そのままにしておいてくれ」
「畏まりました。・・・もうお部屋へいらっしゃっていますよ。お気を付けて」
「・・・どうもありがとう」
IDAAにはアイロニーを持った輩しか在籍していないのか?
醒めた笑顔に踵を返し、受付嬢の言葉を片手に持て余したまま、私は支部長室へ向かった。
節分を境に本物の化け物になる男が居る、私の、部屋へ。
「ダース、貴様っ、もうすぐ節分だからって早々無駄に・・・、」
扉を乱暴に開けながら、部屋に向かうまでに考えた科白を、最大限の怒声で発する。
・・・が、それを言い切る前に何かが目の前に飛んできた。
「邪魔をするな!」
「っ、わっ!!!」
訳も判らず、辛うじてそれから身を引いた瞬間に、バランスを崩す。
持っていた鞄を落とし、床へぶつかる衝撃を予測して、目を瞑った。
「・・・、・・・、あ、れ」
・・・しかし、待てどもその衝撃と痛みは戻ってこない。恐る恐る目を開けると、光が飛びこみ、天井が見えた。
視線は、斜めだ。
ドアの淵に、柊と鰯が飾ってあるのが、見える。
「え?あれ、私、・・・え?」
混乱した頭で視線を揺らすと、講談師の姿があった。
真っ黄色の舌をろくろ首のようにこちらへ長く伸ばしている。・・・だから言葉を発さないのか。
気付いたように視界を自分の身体に寄せれば、その舌が緩く巻きついていた。
「・・・、ギャアッ!」
わ、私はこいつのし、舌に・・・、か、身体を・・・!
事実を知った私はおののき、思わず暴れる。
すると、遂に舌の力も利かなくなったのか、私は床へどさりと落ちた。
恐らく初めにバランスを崩した時より高さは格段に低かったが、痛みが背に走る。
「いっ! ・・・、た、・・・い・・・」
「ッたく。折角助けて遣ったのに其の反応は何ですかァ?ブッ殺しますよォ学者様ァ」
「・・・、お、まえ・・・、あのなぁ・・・、」
何とか身体を上半身だけ起こすと、伸ばした舌を面倒そうに仕舞いながら、悪態を付くダースと目が合った。
・・・助けてくれたことは、感謝しようじゃないか。
だがな、お前。
今しがた私そのものを邪魔だと言ってその舌を振り回したのは紛れもなくお前・・・、
そう言い掛けて、耳に届いた言葉がいつもの丁寧で厄介な言い回しでないことに気付いた。
ブッ殺す。一度確認してから、言うのを止めた。
小心者だと私を罵るのは勝手だが、それはこいつの言動を知ってからにして欲しい。
ゆっくりと立ち上がって、身体を眺めまわす。おかしなところは無い。
気味の悪いぬめりも、背筋が寒くなる感触も、どこにも。
「・・・見境なく、訪れた者を襲うんじゃない」
「ノック位すりゃア如何です。襲わせる様な態度を取る方が悪い」
「・・・。 節分に執着するのは勝手だが、許可を取るか大人しくやってくれ。IDAA全体の仕事が滞る」
講談師の刺すような視線を受けながら部屋へ入って、ドアを閉める。
既に疲れた。
まだ痛みの残る身体を引きずって、椅子に座る。
積まれた資料を横目に大げさなため息をついて、そこで私は、ようやく視線を上げた。
「鬼を殺る以上に重要な事柄が御有りですかね?アンタ等は黙って視てりゃア好いだけの事です」
「・・・判った、もう何も言わない、その代わり勝手にやれ」
心底愉しげに、講談師は部屋のあちこちを眺め回し、早々に豆を弄んでいる。
私はその様に匙を投げ、冷めた科白を放ると今日の仕事を進めようと資料に手を伸ばした。
決してこちらへは届かない殺意が終始感じられる仕事場は快適な場所では決してないが、
正直ここ以外で仕事をする気にはなれない、というのが本音だ。
掴みとった資料のひとつに目を落とす。
「全く、詰まらんヒトだなァ、アンタは。折角、一年で尤も愉しい時期なのに、
 他人風情で知らん振りだ、弄り甲斐も無い」
そうすれば、狂気混じりの拗ねた口調が独り言の形で飛んでくる。
顔を上げるのも億劫で、暫く資料に付き合っていた。
するとすぐに沈黙は訪れて、ダースも訳の判らん自分の作業に戻ったかと安堵しかける。
私はその辺にあった白紙を手元に寄せて、数値と論理を書きつけ・・・、ようとすると、
万年筆に、コツン、と何かがピンポイントでぶつかった。
「・・・・・・」
軽い衝撃に、私は顔をしかめる。
一度万年筆をぐるりと眺めまわしてから、文字へ戻る。
・・・もう一度、コツン、と音がした。今度は当たった「何か」が机に留まった。
ころころと転がる球の形。・・・どこからどう見ても、それは、豆だ。
「・・・」
どうしたものだろうか、と怒りを抑えてゆっくりと顔を上げる。
その先では、講談師が当然のようにこちらへ向かって豆を飛ばそうと狙いをつけている最中だ。
予想はしていた。
していたが、実際その風景を見たら我慢が出来なくなる。
思わず資料を投げ、机を叩いて立ち上がる。
「ダース!!貴様っ、あのなぁこの万年筆が私にとってどれ程大切なものか判っているのかっ!?」
指をさして怒鳴る。
豆に寄せた視線を上げて、濁った白い目で講談師はこちらを捉えた。
何度か万年筆と私とを見比べて、一言。
「知りません」
「しっ・・・、何も言わないから勝手にやれ、と今しがた言った筈だ、
 こっちは貴様が節分に浮かれるのを許容しているんだ、やるなら、自分だけでやれ!!」
「・・・」
「でなければ、即刻出ていけこの馬鹿異形!」
「・・・ハァ・・・・、あたしは切ないですよ・・・」
「はあ!?何が切ないだ話をはぐらかすな!」
「折角、斯うして鬼の手からヒトを護ってるってのに・・・受付は厄介な笑顔で応対するし、
 学者様は相変わらずあたしを軽んじるし・・・切ないですよ・・・」
盛大にため息をついて、講談師はぼつりと言葉を漏らす。
おかしい。
・・・いや、基本的におかしい奴だが、妙に・・・感情の振り幅が増している。
私は自分にだけ判るように首を傾げて、僅かに机から身を乗り出した。
「・・・何・・・、言ってるんだ、お前?いやな、軽んじる、って、それはお前が私をそう扱うから・・・」
「嗚呼ー・・・、虚しい・・・こんなに虚しい節分が有って好いんですかね・・・?」
しかし、こちらの呼びかけにも反応せずに、講談師はソファーに身を埋めた。
・・・駄目だ。
この男に全く似合わない卑屈な態度は苛立ちを余計に募らせる。
暴言や殺気を散らかされるよりよほど邪魔で、目ざわりだ。
片手で顔を押さえて、私は首を振った。
「・・・あー!お前何をしていても鬱陶しい奴だな!!」
足を進めて、講談師の元へと歩き、向かいのソファーに座る。
「おいっ」
「アー、学者様・・・如何も」
「どうもじゃない、さっきから居ただろ!どうしたんだ、本当にお前、いい加減にしろ」
「好い加減にしてますよ。あたしは疲れた。アンタは助けても礼の一つも謂わない」
「舌で助ける馬鹿がどこにいる。・・・判った、話したいなら話せ」
「・・・、何をォ、ですかァー」
「お前子どもか。お前が話したそうだから‥・、」
「あたしは話したい事何ぞ此れっぽっちも有りません」
「・・・・・・。じゃあ、お前が、そこまで節分に執着する、理由だ。それならいいだろう。話せ」
「・・・あたしが?節分に、ですかァ?」
「そうだ。最大限の譲歩だぞ。話題まで提供してやったんだ、話してその気持ち悪い態度を改め、
 そして私に安穏な仕事をさせてくれ、頼む」
「ン・・・・・・、学者様が其処迄仰るなら、話して差し上げようか、ねェ。よっ、と」
そこで、ようやく講談師はソファーから身体を起こした。
濁った目が辛うじて光を帯びた。指先がどの内容から話そうかと、嬉々として動いている。
「じゃア、」
右手で左手の人差し指を二回叩き、こちらを見る。
「先ず、何故此の節分、と謂う行事に鬼が現れるのか。学者様は気にした事が御有りですかね?」
「・・・行事ごとに関して、私が詳しくないのは知ってるだろう」
「ま、そうですな。・・・実はねェ、鬼はヒトが産み出して居るんですよォ」
「・・・な。何だと」
半月の形で笑み、すっかりいつもの調子に戻った様子で講談師は手を広げた。
・・・おいおい、どういうことだ。
思いの外、興味の持てそうな方向に話が転がってしまった。
適当に相槌を打ち、適当にかわそうと思っていたものを・・・墓穴だ。
「鬼、は根幹的に、ヒトにとって悪しき存在です」
「悪しき、存在・・・」
「エエ。然し因果なモンで、其の「悪」はヒトにしか造り得ない。
 悪たる昏黒はヒトに溜ります。溜れば、其の者は醜行に手を染める事になる。
 詰まり、簡単に謂やァ闇に堕ちるって事です」
「・・・それは、要するに負の感情だな?それが堆積する、と?心に?」
「そうですよォ?闇に堕ちりゃ、其れでヒトは御仕舞だ。そうし無い為に、有るんですよねェ、節分が」
自らの発言に溺れるように、講談師の言葉遣いは滑らかだ。
異形の姿で炎をくゆらせ、その紅い色は濃さを増す。
暗赤色に揺らぐ、赤。私達の体液にもっとも馴染んだ色を想起させる彩りが、目を突く。
心なしか青色を帯びたようにも見える。しまったな・・・・・・昂ぶっているのか。
「節分・・・悪を祓う、行事だろう?」
「悪は悪でも、諸行に宿るモノでは無く、「ヒトの心に棲まう悪」ですよォ。
 ヒトは芽吹く春を清らかな身体で迎える為に、自らに巣食う悪と負を、心の外に追い遣る訳だ」
「は・・・?外?」
「鬼は外、と、謂うでしょう?」
「・・・」
思わず、心の底から話の内容を信じそうになった。
いや、決して疑っているわけではないが、こいつが興奮するとかなりの確率で妄言が入り混じり、
真実を掬いあげることが極めて難しくなるのだ。
(しかし、憎いことに興奮でもしないとこいつは真実を語らない)
私は知らず知らず乗り出した身体に気づき、姿勢を元に戻す。
「そうする事で鬼はヒトの心から放たれ、形を成す。そうなりゃア、後はあたしの仕事です」
「・・・鬼を、ブッ殺す、のか」
「エエ、ええ!外に追い出した処で其れが消える訳でも無いのに、
 ヒトは満足しちまうから、あたし等が後始末を付けるんですよォ、学者様ァ!」
「お、お前、・・・声が大きい」
荒げた声で、講談師の炎が青に染まった。
こいつの色が青になると、見境が完全になくなる。
私は直した姿勢をすぐに崩して、目の前の馬鹿を宥めようと腰を浮かせた。
しかし、講談師は過剰なほど手ぶりを使用して、大げさに暴れる。
・・・まさか、・・・こいつ、酒でも飲んで酔ってるんじゃなかろうな・・・。
「好いじゃア無いですか、あたしは努力して居るんです!
 頼まれもしちゃ居ないのに、態々結界迄張って淀川の手から此処を護ってるんですよォ!」
「‥・・・は?・・・い、今、なんて言った!!淀川!?ジョルカエフかっ!?」
宥めかけた手が、講談師の荒げた言葉によって着物の襟に伸びる。
気付いたら、ぐ、と片手で、私は目の前の着物の襟を勢いよく掴んでいた。
構わず、講談師自身は暴れている。
「ジョルカエフですよ淀川ですよォ!あたしが如何して淀川を鬼、と呼ぶか御判りですか学者様!
 淀川こそ、自らの鬼に心を喰われた悪其の物だからですよ!
 其れであたしが奴を見事に仕留め損ねた大間抜けだからですよォー!
 アー、思い出しただけで腹が立つ、あの蒼い下衆野郎がァ!!!」
「・・・・」
飛びこんでくる科白は、どれも非常に重要なようで、私の脳はフルで活動する。
だが一気に獲るべき情報が多大すぎたためか、一定まで達した情報の取捨選択に私はとまどい、
結局、ぽかん、とした呆けの表情を取るしかなくなった。
自然と力も抜け、襟を離し、
いつの間にか興奮によって立ち上がり、今にも支部長室を破壊しそうな講談師を見るにとどまる。
この、場合・・・、
私は、何と言うべきだ・・・?
「アー、今度こそブッ殺して遣る、覚悟しろ淀川ァ!!」
「・・・お、おい・・・、ダース・・・」
「何ですかァ学者様ァ!」
「あー・・・、ええと・・・、あの・・・、な、何だか、守ってくれてるようで・・・あー・・・ありがとう、な?」
「‥・・・」
定まらない思考のまま、とりあえず、思いつくことを言おう、と思った。
そうでもしなければ事態が悪化すると感じたからだ。
半分は考えながら発そうと思った科白だが、半分は今現在何を喋っているのかも判らない科白だ。
宥めよう、と。
この馬鹿をとにかく宥めよう、と、私は思ったのだ。
・・・後から、思えば。
私の言葉に、今度は講談師がぽかんとしている。
「さっきいろいろ言ったのは、す・・・すまない、と?思っている、うん・・・、
 私たちの為にああしたことを行っているとは、だな・・・全く考えていなかった、というのが正直なところで・・・」
「・・・・」
「だ、だから、もうちょっと、だな・・・気を、確かに・・・、・・・っ、うわっ!?」
自分の発言に首を傾げながらも、黙り始めた姿に安心し始めていると、
突然、ぐい、と身体を強く引っ張られた。大声を上げると反転した視界に放り投げられる。
鈍い衝撃が伝わって、やがて消えた。目を開けば、目の前が真っ暗だ。
・・・?
「学者様ァ!アンタから感謝が訊けるだなんて!!あたしは今、猛烈に感動して居ますよォ!!!」
頭の上から声が飛ぶ。
歓喜にひれ伏した、であろう講談師の声だ。
どうしてこんなに声が近いのだろうか。黒。・・・おい。・・・まさか・・・、
「ギャアっ、離せ!!!」
己の考えに絶望して暴れれば、より強い力で諌められる。
間違いない、私は今、この馬鹿に抱きしめられている!
ローテーブルの横から腕を伸ばし、引っ張ってきたに違いない。
待て待て、こういう展開を望んで私はわざわざ感謝をこいつに与えたんじゃないぞ、
とにかく・・・、・・・え?・・・感謝?
感謝、って、言ったか?おいダース?
「有難う、なんてアンタに尤も似合わない単語だってのに・・・何でしょうねェ此の感動はァ!!」
「‥・・・」
二度目、今度は「ありがとう」、だ。
・・・私が?言っただと?ありがとうと?お前に?・・・、嘘だろ・・・
考えどころか、この現状に絶望する。
私は稀代の馬鹿に見当違いの感謝を捧げて、あげくに抱きしめられたのだ。
・・・。嘲笑したいならすればいい。私も、私自身を指差して高笑いをあげたい気分だ。
「お、ま・・・、・・・と、と、突飛だ!突飛!いい、から、・・・は・・・な、せ、このっ!」
それでもここから脱出したい、という気持ちだけは消えない。
声だけを張りあげてなんとか身体を捩る。
少し、押さえこまれた腕の力が緩んだ。そこを狙って身を引く。
すると、ソファーに身体が落ちた。スプリングが跳ねて、いつもの景色が視界に戻る。
荒げた息のまま顔を上げれば、晴れ晴れしく微笑んだ、講談師が居る。
「いやァ学者様ァ・・・やる気が戻ってきましたよォ!此れで快く節分を迎えられそうだァ!」
「貴様っ・・・!まず謝罪だろうが、謝罪!!」
「あっ、否っ申し訳無い、未だ暦に印し付けるのを忘れて居ましたな!」
「聞けェ、馬鹿者!」
ぱん、とまるで軽やかに手を叩くと、思い出したように講談師は机から赤いペンを取り、
カレンダーに足を進めて1枚めくり、2月3日の日付に丸を書く。
「此れで好し、今年の節分も安泰だ!」
「・・・もう、嫌だ・・・」
カレンダーから「1月」の表示が見えたことで、まだ今が1月であり、
節分まで1週間も期間が残っていることを私は悟り、3度目に絶望して片手で顔を覆った。
真剣に泣きたい気持ちになったが、なんとか自分を抑えて、
胸元のボールペンを取り出し、さっき講談師が口走った情報を忘れないように左手に書きとめる。
講談師が、節分に執着する、その理由。
これが今日の、この余りある疲労の、唯一の対価だ。
もう仕事をする気になどなれない。
私はずるりとソファーに身体を預けて、視線を動かした。
頭がぼうっとしている。
慣れない抱擁・・・、だのを、受け、感謝を・・・言ったから、だろうか。
手が覆った頬が熱い。ああ、もう何も考えたくない。
揺らした視線の先では、講談師が楽しげに笑っていた。
そのあまりに嬉々とした表情を見たことに私は改めて居たたまれない気持ちになり、
今度は両手で、顔を、覆った。


後日、受付嬢に聞いたところやはり奴は酒を飲んでいたらしい。
「所内は飲酒等を禁止しておりますので、押収致しました」と言って、
受付カウンターの下から、半分残った日本酒の一升瓶を取り出した時は、さすがに呆れた。
いや、むしろその事実を先に言って欲しかったと心底感じながら、
あの時言われた「お気を付けて」にはそういう意味も含まれていたのか、と、
私は苦虫を噛み潰した顔をして、受付嬢の笑顔を受け止めたのだ。




淀と鴨川















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