ゴジツ談


無茶な話、なんて、そんなものはいつもの話だと、目を細めて私は思った。
私たちが暮らしているこの世界はあまりに突拍子がなくて、乱雑で、暴力的なぐらいに眩しい。
どんなに身構えようと、私たちがそれに対応できることなんて本当に稀。
だから、せめて被害が最小限になるように、私たちは努力する。精一杯、どうにかしようともがき続ける。
・・・それなら、この今の私の行動はその努力に当たるのだろうか?
ふらふらと辺りを見回せば、そこはまるで変わりのない、いつもの景色だ。
変わっているのは、私の自宅には決してない、野菜ジュースが目の前にあること。
私の自宅の冷蔵庫の中に、まるで当然のように、居座っていること。
「(・・・嫌、じゃ、ないのかな)」
私は今日、これを貰った。
1リットルの、紙パック入りの野菜ジュース。今日のハロウィンによく似合う、黄色のもの。
別にラッピングなんて丁寧なことはしていない、そのままのもの。だから冷蔵庫の景色にはピッタリハマっている。
野菜ジュースを飲む気にはなれなくて、ぱたん、と扉を閉める。
これを贈ってくれたのは同級生だ。あまり仲良くはないけれど、彼自体はクラス内で有名人の、お調子者。
贈られた理由は、・・・こういう時は「分からない」とか「忘れてしまった」なんて言うのがきっと格好いいのだろうけど、
残念ながら私の記憶力はそんなに悪い方じゃない。
だから、その理由も、なぜ贈り物がこの野菜ジュースだったのかも、すべて私は分かってしまっている。
「もう1年、だよ」
家族が寝静まった夜半に、呟く。そう。もう、1年。
1年前の日常のお返しに、彼は今そうするのが当然だとでも言うように、私に1リットル分を贈った。
私があげた250ミリ分を、ぜんぶぜんぶ、気持ちを足して完璧に返すみたいに、1リットル分を彼はくれた。
「(・・・何で、今更?)」
冷蔵庫の扉を撫でる。つるつるしている。
私は、こういうのに慣れていない。夢やあこがれと、現実は違う。
そういう夢やあこがれみたいに、私はうまく立ち回ることが出来ない。だから。
だから、私は、この野菜ジュースを飲めない。
ため息をついて自分の部屋へ戻る。
今日一日は、まぼろしみたいに素敵な一日だった。
いろいろな人が、いろいろな方法で自分という存在を認めて、この日を祝っていた。
午後にブラスバンド部が体育館で演奏していた曲を、なんとなく、ベッドに座って口ずさむ。
この素晴らしき世界。
私たちの世界を無垢に讃えるうたを私は歌って、身体を横に倒して、ベッドに沈む。
「(本当に、暴力的なぐらい、眩しいじゃないか。)」
まぼろしみたいなあの瞬間を、私は確かに、当事者として見ていた。
目を閉じる。自分が透ける。
・・・ああ、そうだ。・・・そうなんだ。私は、あの一瞬さえも、素晴らしいと、思ったんだ。
「・・・・・・」
目を開ける。自分がいる。
まだ野菜ジュースは飲めない。けれど、私の喉は縋るように、マンゴーの味を求めていた。
泣きたくはない。叫び出したくも、悩みたくもない。
だから、ただ。
私はただ、彼に会いたかった。
何もかもをしっかりと曝け出した彼のように、私も何もかもをしっかりと曝け出したいと思った。
あの素晴らしい一瞬を、嘘のまぼろしに、しないために。


サユリ


















失して尚、


見たことのない部屋だ、とエッダは思った。
ずきずきと頭が傷んだ。
男の家へ放り込まれ、タオルを投げられ、シャワーを浴びろと言われ、 命令にも等しい言葉のひとつひとつを受け止めて、すべてをぎこちなくこなしたあと、 再び、部屋の中へとエッダは放り込まれてここに居る。
熱い湯を浴び、ようやく寒さの治まった身体は幾分自由になっている。
まだ頭の奥がおかしな熱を持っていたが、すぐに治まるものだということが彼には判っていた。
譜面が床という床に散らばり、壁という壁に貼り付けられている部屋を歩き、暗闇の中、エッダはその光景を見回した。
月明かりに照らされた呪文のような音譜たちのすべてが、他人であるエッダを見つめている。
音譜たちのすべてが、密かに、エッダの存在を異物として認識している。
浅く呼吸を続け、こんな部屋は知らない、とエッダは思った。
消えることのない音譜の視線を感じながら、ゆっくりとベッドに腰を下ろす。
スプリングは随分古くなっているようで、ギシギシと頼りない音が鳴った。
乾いた金属音。身体がそれに呼応する。
「・・・・」
隣の、広い部屋では男が自分の寝床を探しているのだろうか。
エッダは醒めた己の感情を乱暴にまさぐりながら、あの男が自らに触れたことを今更、認めた。
腕を見、手首を見る。
音譜がエッダのすべてを凝視している。一挙一動を、観察している。
牢獄だ、と。
エッダは、男に触れられた右手を左手で撫で、男が音に殺されているように感じた。
毎日この音譜の監視を受け、毎日この音譜を監視し、尚飽き足らずに新たな支配を自らの手で増やしているのだ、と。
正体のみえない宿り木に、エッダ自身が支配されているように。
異常な状態を保つ部屋を、不思議とエッダは居心地悪く感じなかった。
四方を譜面に支配された息詰まる感覚も、逆にエッダにとっては心地よさをもたらした。
男がエッダをそう捉えたように、エッダも同じく、男をそう認識したのだ。
『異種である同種』、と、本能的に。
じっとりと、胸に広がる初めての甘い苦さを、エッダは誰にも邪魔されることなく噛み締めた。
己の腕をとり、己の無を望んだ男のことを、ただひたすら、考えた。
その間にも音譜は男の手で生み出された鋭利で凶暴な姿のままじっと佇み、エッダのこころを見つめていた。
失われた言葉を内で育み続ける、エッダの海綿状になったこころを、見つめ続けていた。


エッダ


















自己同一


細く、十まで数えて、前を見据えた。
生きているのだと、呼吸を自覚した。
身体が重いのは、それまで所持していたそれと今のものがまったく異なる造りをしているからだろう。
脳がまだ、自分自身を把握していないのだ。
何度か瞬きをすれば、先程までと何ら変わらない視界が戻ってくる。
ゆっくりと、俺が俺を認めていく。
既に俺ではない俺を、意識がこの世界に順応させていく。
「・・・、ん」
その時不意に、右手に感触があるのを知った。
限りなくそのままの神経が通っていくのを感じ、右手を視界へ持ち上げる。
・・・そこで、右手にあったものが何かを知る前に、俺はその肌の色に改めて異なる己を叩きつけられた。
完璧なまでに黒く染まった肌。まるで墨を流し込んだようだ。
腕の太さも5割は増されていた。
身体が重い、確かに、間違っちゃいない。
ため息をついて、ようやく右手を見る。
そこには名刺大のメッセージカードがあった。ゆっくりと手を開き、それを読む。
『お前が望む姿をお前が望む形で。日々の安穏と、幸福を祈る』
文字のひとつひとつが細胞のすべてに浸み込むまで待ち、顔を上げる。
俺がそれを望まなかったために、今、目の前には誰もいない。
砂塵と岩肌が広がる、無骨な光景ばかりがある。
これが、俺の、望んだものだ。
これが、俺を、受け入れるものだ。
刻むように見た。
確かめるように見た。
俺の世界。俺が辛うじて生を繋ぎとめることの出来る場所。
それを与えてくれた男が遺した言葉を、俺は静かに太陽へと翳した。
俺が俺であった証明はすべて消え、俺自身だけが残った。
「俺が望んだ姿が、俺の望む生であるように」
乳白色のメッセージカードが太陽の光を柔らかく受け止める。
生きているのだ、と再び呼吸を自覚した。
これから俺は生きていく。この世界で、この俺を享受し、生きていく。


ファットボーイ


















昏黒飛行


寝た、ふりをした。
ひとの気配が背後からにじりよってきて、それがあの人のことだっていうのは、すぐに、わかった。
できるだけ不自然にならないように息をたてる。
寝ている、という、息づかい。
すべる足音はソファーのうしろで静かに止まる。
不自然な空白。
うっすらと目を明けて、その理由に気づく。・・・楽譜。
おれが、あの人のいないときに持ち出したもの。
しばらく足音はじっと固まっていたが、いくぶんの時間のあと、キッチンへ向かう。
寝たふりをしているのが気づかれていないようで、息を、つく。
・・・。
いつかから、おれはあの人のゆびを追っていた。
ざらざらと楽譜に音を書いて、それをこっぴどくぐちゃぐちゃにするゆびを追っていた。
そうだ。
ゆびだけじゃなく、おれは、あの人を追っていた。
あの人を、ずっと、見ていた。
キッチンの奥でがさがさいう音が聞こえる。
なにかやっているんだろう、と思う。
なにをやっているのか気になって、視線をあげようとすると、足がこっちに来るのが見えたのでぐっと目をつぶった。
起きているのを知られるのは、嫌だった。
あの人の奥のほうにあるものに踏み込もうとしていることを、今、知られるのは、嫌だった。
「・・・」
足音はまた、ソファーの上で止まる。
・・・コーヒーの匂いがした。
そう考えていると、ゆっくりと空気が動く感触がひびいて、頬に、なにかが、ふれた。
「・・・!」
息をのむ。
あたたかいもの。
・・・手、の、甲。かもしれない。
身体が固まった。
手は、静かに、おれの頬をなでる。
ざらざらして、おおきなゆびが、ふれている。
なんで、と思う前に、おれは寝ているのだと気づいた。
このままじっとしているのは、おかしい。
とっさに、うめき声をあげる。
「ん・・・」
ゆびが止まった。
やさしく頬に置かれたゆびが止まって、動いて、・・・はなれる。
あたたかい温度が消えていく。
少しだけ、おれは、今すぐ起きあがって、はなれたゆびを掴みたいと思った。
でも、それはできない。
そのうち、すぐ近くにあったコーヒーの匂いは遠くに消えて、足音と気配も、消えた。
「・・・」
おれは、目をあける。
暗い部屋の中で、さっきまで、そこにあった体温。
目線のさきには、なんとか読みとこうとした楽譜がある。
ずるりと起きあがって、おれはそれを手にとって丁寧にひろげた。
あの人が書いた、音。
どうしようもない気分になって、楽譜を頬におしつける。
今感じた温度が、少しでもこの楽譜にとどくように。


スモ←エダ


















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