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ホットミルク


おばさまの日記を見たのは昨日だ。それはただの偶然だった。
わたしは少し迷ってそれを見て、今日、一日でおばさまに叱られる回数の記録を更新した。
あの日記を見たときから、頭がうまく動かなくて、もう家事どころじゃなくなって。
お皿は割ったし、洗濯したカーテンは色落ちしてまだらの染みになった。
昼食は味付けを間違えて、紅茶には塩を入れた。
勿論おばさまはカンカンで、だけど、わたしはそれに頷くことも出来なかった。
わたしは、ただのわたしだと、思っていた。
誰でもない、わたしだけのわたし。それだけがわたしの中の紛れもない真実だった。
でもそんなことが突然に、一瞬でがらがら崩れてしまって、平然としていられる人がどこにいるだろう。
わたしは、「わたし」一人じゃない。
おばさまはわたしがその日記を見たことを知らないまま、わたしを叱っていたんだろう。
でも、おばさまは・・・わたしを。
わたしの事を何もかも知っていて、わたしを。
そう思うと、がみがみと怒るおばさまを前にしたわたしはあんまりにもどうしようもない気持ちになった。
あんまりに悲しくて、つらくて、苦しかった。
それはおばさまが持っている奥底のやさしさとか、いたわりとか、思いやりとか、
『彼女』の存在とか、混乱した感情とかが、ぜんぶ、ごちゃ混ぜになってしまったからだ。
たしかにあの日記には『会えない』、と書いてあった。
わたしはわたし。
だからこそ、彼女は彼女で、わたしは彼女に、『会えない』。
それをわたしは知ってしまった。彼女の存在を。わたしの存在を。
ねえ、おばさま。貴方はどうして、わたしを引き取ったの?
あなたはわたしの何を、そんなに頑なに、そんなに強く、護ろうとしているの?

ラッテ


















パノラマネグレクト#2


「・・・ん」
眼を開けると、いつもの見慣れた風景だった。
少し視界が薄らいでいる。思考も、甘い。
・・・寝ていたのだろうか。寝る、という行為を行うのも稀な事だというのに。
鈍く身体を起こす。空気は否に冷めている。何となしに窓を見れば、外は帳が落ちていた。
訪れた頃はまだ陽が昇っていた筈だ。随分、時間が経っている。
「・・・あれェ」
一向に醒めることのない頭に手をやれば、目線の先には死んだように眼を閉じている人影が視えた。
見慣れている風景の、見慣れている姿。
枯れ木のように細い体は丸まり、薄い唇からゆるく寝息が立つ。
自分が寝ていたときにはまだ起きていた、と記憶している。
いつの間に寝ていたのだろうか。
片手は何故か乱暴に投げ出されて、右腕の着物の裾に乗っていた。
穏やかだが、何処か歪んでいるような表情はあまり見ない顔つきをしている。
「(・・・随分、苦しい顔だ)」
今まで出会った時間の中、この男を自ら知ろうと思ったことは無かった。
それは知った所で何も産まれないと判っていたし、
無駄なことを進んでやる程、人好しでは無かったからだ。
だが、今、確実に、己の揺らぎに身を任せる感情はこの男の何か、を求めている。
過去か、未来か。傷か、支配か。或いは心、というものか。
不確かな哀しみを湛えた表情は、それを拒否しているようにも思えた。
起こしても構わないと撫でるように、掌全体で、男の頬に触れる。
ひどく冷たい。そして、ひどく温かい。
いつかあの鬼と交わることがあるならば、この傲慢な関係も崩れることになるのだろう。
その前に。・・・いや、優位を得ている地位を崩す必要が何処にあるのか。
万物は凡て、何時か終焉を迎える。それは記憶とて心とて想いとて、同じことだ。
ならば、最初から始めなければ良い。そうすれば終焉など、訪れることは永久にないのだ。
何を迷う。何を、怖れる。
ゆっくりと手を動かし、頬の温度を受け止める。
灯りの燈らない部屋は暗く、温室のように平穏だった。
矛盾の滲みていく身体に、まるで、似合いの。

淀鴨@ダース


















パノラマネグレクト#1


ごてり、とした身体だなあ、と私は思った。それはなんでもない一日の、夕暮れだった。
見慣れた炎が揺ら揺らとかげろうのような瞬きをして、疲れた私の眠気を誘っている。
いつもの迷惑な来訪者はいつもの迷惑な格好のまま、いつもと違う様子で眠りを求めた。
斜め左下の視界の、そこにある眼は閉じられ、黒衣はうずくまり、その姿はまるで、無防備だった。
濁ったオレンジの炎の光は穏やかな感情を表しているのだろう。
私は己の眠気に抗うことも出来ず欠伸をして、
だらりと机の上に上半身を投げ出し、柔和に沈んだ寝顔を横目に眺める。
同じ角度になって見つめる顔は、いつもの小うるささが消えた、妙に優しい顔をしている。
「(いつも、こんな顔なら、文句はないのだ)」
鈍くなっていく思考が下らないことを脳裏に浮かび上がらせる。
焚き火をしている時のような温もりが頬に当たって、あたたかい。
こうして見ると、やはりその身体は大きく写る。
なにもかもを容易く包容しそうでもあるその巨きさ。
眼を細め、今ここにある私の、おろかな想いの先に存在する当り前の拒絶を思えば、
醒めた皮肉の冷たさと相反する今のなだらかな温度はあまりに剥離していて、眩しい。
寝そべったままの格好で、相手を起こさないように投げ出された綿の着物を手の甲でなぞる。
ゆっくりと撫で付ける、皇かな感触。
まどろみに溺れていく中、その滑らかさは頑なな自分自身という心を促すような心地をしていた。
「・・・・、」
俄かに唇を開き、吐息のように口にする。やわらかに眠った顔が、苦悶するようにゆれた。
返答、だろうか。
私は眠りに落ちる寸前の意識で、自嘲気味に笑った。

淀鴨@鴨川


















服毒氷雨


雨が降っている。静かな部屋に、雨粒が散る音がへばり付く。
ざあざあ、ざあざあ、と流れているそれは頼りない溜まりを作っているのだろう。
そんな風に鴨川は思った。
外は灰に包まれ、厚い雲だけが窓を覆っている。冬の雨は寒く冷たい。
インクを付けた万年筆でガリ、と紙をなぞればそれも強い振動を起こして大きな音を立てた。
一瞬眼を細め、薄く作られたドアを見やる。薄汚れたアイボリーは何の沙汰も起きない。
ほんの少し息を付き、鴨川はその状況を呑み込んで紙へ文字を走らせた。
「・・・」
そうして、沈黙に守られた紙に綴られた文字が20行を越えた頃、僅かに音が響く。
地面に雨が叩きつけられるものとは違う、鈍い音だった。
集中していた意識が途切れ、鴨川は顔を上げて、惑いもなく窓を見る。
雨。灰。雲。それだけだった筈の景色が、何故か崩れていた。人影、だろうか。
雨の落ちる地面に何かが倒れていた。
研究所の裏庭に当たるその場所は、普通、研究員以外は立ち入れない。
ゆるく立ち上がり、覗き込むようにして鴨川は窓を見る。
雨が降っているせいか視界は悪く、
鴨川の視力が悪いこともあって「それ」が何かを確実に断定する材料は得られない。
しかし、よく眼を凝らせばそれが黒いものであることは判った。
雨に晒され、動く様子はない。
ぴたりと窓に張り付いて、鴨川は何故か上擦る心拍を抑える。
雨という水の中に、似つかわない意識が見えたためか。
「・・・・まさか」
呟く。息を吐くように。確かめなければ、と強く鴨川は思った。
二歩後ずさるとソファーにぶつかる。
机を見て、窓を見、身体を翻して走り、アイボリーのドアを乱暴に開ける。
裏庭は廊下の先を左に曲がったガラス扉の先だ。やや焦燥したように鴨川は足を速めた。
微かな違和感と不安。
わだかまりのように掠れたそれが扉に近づくたびに大きくなる。雨の音が狭まる。
廊下を折れるとガラスの扉が灰の空と地面を映していた。芝生の生えたそこに、倒れる影。
「・・・何故、だ」
理解の及ばないまま、重いガラス扉に駆け寄って鴨川はそれを開け、躊躇いなく外に飛び出した。
雨は、中で見ているよりも激しさを増して、ただ無表情に空と地を叩きつけていた。

鴨川


















甘く不埒な


ひとつ息をついて、男は静かに自室から出た。
なだらかさが微塵もない、規律だけを刻み付けたその動きはどこぞで崇められるだけの仕草だった。
いつもの様に手ぶらの格好で、醒めた空の色は今日も何処かが赤の色に染まっている。
黒い目の玉に写るのはそんな凄惨にして無残な名残ではなく、穢れを待つ白い凍結のみだ。
かつんかつんと美しい輝きを放つ床で音を鳴らす。崩れはない。
目的と行動は必ず伴っていなければならない、という持論の元に集う思考は一点に集中している。
それは己としての戯画であり遊戯であり逃避であり癒着であるのか。
仕立て上げた迷路の中、自ら迷いに行くように男は含み笑った。
何時か溢れる、極限まで抑え付けたその感情という名の天蓋。
遥か永劫の神話に似た星空。
そんなものは簡単に、流転することもなく燃え落ちていくに違いないのだろう。
後ろ手に組んだ指先を僅かに、そしてあくまで慎重に動かせば、
白いそれが真っ先に溶解していくさまを隅から隅まで想像する事が出来る。
炎が集う、そして無に帰す。
男はゆっくりと一つのドアを開けた。闇夜に続くその流線型。
ひとつ、ひとつ、確認するように階段を下りる。圧迫していく。窒息するように。
柔らかい感覚。
求めてはいない、と規律する回路はそうやってまた、一人の嫌悪を出迎え、ひとつの不幸を見舞う。

極卒くん


















遠距離


その時、彼女を見かけたのに話しかけなかったのは、ぼくが煙草を吸っていたからだ。
口にかかった煙草はまだ火といっしょになったばかりで、細い煙が伸びていた。
彼女が答えていたアンケートをまともに見たのはつい最近で、
それまでぼくはなんの疑問も持たずに彼女の前で煙草を吸っていたのに、
それを見たとたんその行為がひどく後ろめたいものに感じてしまって、
その時から、彼女の前限定でぼくは煙草を封印した。
彼女は今日もふわふわした黒い髪を揺らせている。
ぼくは彼女に話しかけたかったのに、ぼくの煙草はそれを静かに邪魔をした。
でも、そうだ、彼女はべつにこれが嫌いなわけじゃない。
これを吸う奴が、嫌いなだけだ。
ようするに、・・・ぼく、みたいな、だ。
「・・・」
彼女は控えめなほうであり、つよい意思表示はあまりしない。
だからこそあんな風に、仕方なく、アンケートに書いたのだ。
ぼくは苦く広がっていくニコチンの香りを肺におもいっきり溜めて、それをどうにか飲み込んだ。
彼女は、かわいい。かわいくて、可憐で、そして物憂げだ。
身体の奥に入り込んでいく煙は消化されることを拒んでいる気がする。
彼女の中のぼくと、同じように。

レオ(そしてさなえ)


















カニバリズム・ガーゼ


温度を知る、ということもなく、質感を知る、ということもなかった。
互いが互い、自尊心という浅ましいものを筆にして引いた勝手な線は最後まで破られることなく、
その関係は濃霧に消えた人影のように終わった。
平和な感触は低温な破局だけを残した。
単純かつ素直に、簡潔かつ粗暴に。
憐憫じみた感傷も涙という無様なものも浮かばなかった別れは、
砂で城を作りあげるような徒労と似る関係には丁度似合っている形だったし、
今では望んだような引き裂かれ方をしたとも思えるのだろう。
そこには慈しみも尊びも無かった。
一方では「閉鎖」というひとつの終焉を示され、それは現実世界では無言で讃えられるべき出来事だ。
全ては終わった。
機械のような拍手を受け、仕事の範疇を超えた思いはその通り望んだ結果を弾き出した。
訪れる平穏な時間と日々を願い、心から願い、失いかけ、しかし実現した。
「何もかも巧く行ったのだ」。
こころという不確かなものを同じように不確かな罵倒で殴りつけ、
ばらばらと剥がれた皮膚のような気味の悪いものが地面に散らばろうと、
それを脅えるように拾い集める様はただただ滑稽な遊戯でしかない。そうやって嗤う顔さえ判る。
だからこそ酷く掻き毟る仕草で理解するのだ。
今更、刻もうとしている姿形の濃淡。いろ。温度。質感。
浸透。侵食。見えない影を見えないまま喰われていくだけの、ゆるやかな消失。
それはこれ程、無意識な死だったろうか。
これ程無気力な、愛、だったろうか。

鴨川


















決意表明


「・・・おれ、やります」
約束の期日から2週間たったその日、おれはそうやって承諾した。
お偉いさんは一瞬目を丸くしたあとで、底のない、空っぽの顔で「よく言ってくれた」と笑った。
あいつに乗るのは1週間後だと告げられて、それまではレースに出なくても良いと言われ、
その言葉ごといちいち頷いていたおれは、最後に「上手くやれ」とか言われて、部屋を出た。
ばたん、とドアが閉めるとその音がずっと反響しているようにおれの耳に残る。
自分の命を差し出してまでする賭け。
結局、おれはそれに乗ってしまったことになる。
何故そんなことをしたのか、それは今イエスを言ったおれにも正直よく分からない。
ただ、あいつのごうごうと笑う顔はまるでおれを待ちわびていたような顔だ、
といったKKの言葉が忘れられなくて、一度だけあいつのシートに座ったその時の、
まるで、身体全体があいつの神経と結合してしまったような感覚を、
おれは脳に直接刻まれるみたいに覚えてしまったからだと思う。
「はぁ」
おれはため息をついて外へ出る。
1週間後におれはあいつに乗って、歓声か嘆息をあびて、生か死かへ放り出されるのだ。
「やるしか、ねえな」
赤い身体の死の悪魔。いかれた炎。それをおれの力で扱えるとは思わない。
けれどおれがおれの意志で決めたことだ。
火照る頬を乱暴にたたいて、おれは歯を食いしばった。
あとは、がむしゃらに、ただ進むだけだ!

ハヤタ


















冬眠の朝


吸血鬼は棺桶の中で目覚めた。
蓋が開いていたが、自分で開けたものか他人が開けたものかは思い出せなかった。
寝そべったままの視線には湿った灰をした天井が朽ちたようなかたちをして並んでいる。
身体が重い、と吸血鬼は気だるい思考で考えたが、何十年も寝ていたのだからそれも当然の話だった。
ばちばちと何度かまばたきをして吸血鬼は起き上がる。埃くさい空気が滞留している。
吸血鬼が寝ていた棺桶の、赤かったベルベットの生地は既にみすぼらしい色がかかり、
がらんどうになった部屋の中は椅子が頼りなく転がっているだけだった。
「・・・・・・・」
吸血鬼が眠りについた頃、部屋は吸血鬼が飾りつけた装飾品によって煌びやかに輝いていた。
寝ている間に誰かの手が入ったのだろうと想像したが、倦怠に満ちた吸血鬼の思考はそれを追うことはない。
棺桶の蓋を乱暴に端へ追いやり、吸血鬼は立ち上がる。
ぐらりと、久々の地上に身体が揺れた。
艶のある革靴で踏み抜く床は天井と同じような色をしており、
そこから響く妙に柔らかい感触は、床の素材自体が痛んでいることを表している。
すこし舌打ちをして、吸血鬼は久々に背の羽を大きくしならせた。
幾分昔に化物の住む城と湛えられたその場所で血の匂いは姿を見せずに笑い、
蝶番の外れたドアを避けた吸血鬼は、曇って白くなっている窓を横目に見つめた。
外は雪が降っている。吸血鬼の持つ銀の毛髪とよく似ている物質はどこか懐かしい楕円をして、
吸血鬼の瞳の中をざらざらと無節操に流れていく。
息をすれば、それも白く写る。
「・・・飛ぶか」
その白さは、いつも吸血鬼が吸ういのちの液体と真逆の無垢を成していた。
記憶の中にその白さを留めておかなければ、
ただの醜い、実際の化物になるだろうことを吸血鬼は理解していた。
ゆっくりと、眠る前に培った日々を一歩進むごとに手繰り、吸血鬼は屋上へと向かう。
生きてゆくことはそんなふうに面倒なことだと言った、誰かの言葉をおぼろげに思い返しながら。

ユーリ


















屋根烏の隣で


広い、広い、世の中と夜の中で、見つけられないものばかりで、
あなたは見つけないのをきれいですてきと言ったわ。
それは禁欲的・・・ストイックをどこまでも貫こうとするあなたの意思が見えたわ。
けれど私はそうは思わなかったの。
いいえ、思わなかったというよりは「思えなかった」と言う方が正しかったのかしら。
なぜなら、私は全てを見つけたかったのだもの。
私が好くすべてを、そして私を嫌うすべてを。
でも、あなたがとてもすてきな人だったことは私が一番よく知っている。
私を嫌ってくれないほかは、なにもかもすてきだったの。
とおく、とおくへ、あなたと行きたかったわ。
かざぐるまみたいにくるくるした、あなたといっしょに行きたかったわ。

トラウマミミ




























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