背に滴る


「はぁっ、はあっ・・・、・・・」
その日、雨に降られた鴨川は大きく、息を吐いた。
傘を持ち合わせていない状態で、走って研究所へ帰る破目になった成り行きは思い出せず、
どうにかIDAAへ滑り込んだ荒げた息とずぶ濡れの格好は受付の訝しい表情を誘った。
台風が近づく中での豪雨は余程激しかったのだろう、
水を吸い切った服を引きずってやっとの思いで支部長室のノブを回した鴨川は、
ひどく疲れているように見受けられた。
「・・・ン。嗚呼、学者様。・・・御帰りなさい」
扉を開けると同時に、赤い姿が見える。
現在の鴨川が尤も見慣れている姿。異形の炎。
ゆっくりと扉へ視線を向けた講談師は、珍しく直球に間抜けな鴨川の身形に大きく、顔を顰めた。
それに呼応するように、鴨川の髪から雫がぼたり、と音を立てて落ちる。
「ああ、ただいま」
ずるずると、床に雨の染みを残しながら部屋へ入る鴨川は、かすれた声で返事をした。
おかえり、という単語に尤も馴染む返事は、講談師の表情を益々崩れさせる。
心身共に疲労している鴨川にはそんな状態も目に入らないのか、
濁った顔つきのまま、講談師の横を通りすぎる。
手を袂に突っ込んだ格好で、講談師はそんな鴨川へじっとりと視線を巡らせた。
白衣ではなく、一張羅らしきジャケットを羽織った姿は中々に、物珍しい。
塗り込められた黒の色。
己と同様の闇の色を眺め、講談師の目は、細く、締まる。
「・・・で、如何されましたかね。酷い格好ですが」
「雨に降られた。だからどうした」
飄々とした声色をあくまで保つ講談師に負けず、鴨川は沈んだ声で素気なく口にする。
不満げな視線は床へ向いていた。
外で降り続く雨のように、ぼたぼたと無遠慮に雫を垂らし続けるジャケットを脱ぎ、
鴨川はそれを乱暴にソファーへ投げる。
いつもには決して見ることのない、投げやりで粗暴な仕草。
既に本来の重さより5倍は重くなった上着は、年代物らしいソファーの上に、愚鈍な音をして落ちた。
べしゃり、と響く音。
不愉快な顔を止めない鴨川はため息をつき、眼鏡を取って目の周りを手の甲で拭く。
肌に止め処ない模様を付ける水滴が、少しだけ取り払われる。
「・・・ヘェ。随分、・・・中々。愉しい事に」
舐るように、講談師はその様を横目に、繋ぎとめていた。
笑いごとのように、鴨川は頭の先からつま先までずぶ濡れだ。
藍の髪の毛は水分を含み、既に黒混じりの濃色に染まっている。
その一本一本は水分で固まり太い束となって、まだらの雨のように不規則な雫を落としている。
服も雨を吸いきり、肌にぴたりと張り付いて妙な色合いを遺していた。
本棚の横を覗き込む曲がった背骨がシャツに浮かび、でこぼことした線が顕わになっている。
濡れそぼった頬。疲れた顔つき、うつろな視線。
言葉に発したその通りに、講談師はそれを愉しい情景だと感じたのだろうか。
ゆっくりと、足を進める。
「・・・っ、う、わっ!」
「・・・ヘェ、冷たいですなァ。どれだけ濡れて居たんですか、アンタ」
這うような感覚が、鴨川に走った。
大声を上げる鴨川が振り返れば、いつの間にか真後ろに、講談師の姿があった。
冷やかに笑った顔つき。少しだけ、唇から漏れる蛍光色の舌先。
斜めに下がった鴨川の視線を辿れば、その首元に白い指先が伸びているのが、判る。
濡れた首筋に触れた人差し指と中指。
1本の線を描くような、繊細でひそやかな、震える感触。
「お、前っ、何をする!」
抵抗するように首筋を押さえた鴨川は、講談師へ詰め寄ろうと体勢を直す。
立った鳥肌がしばらく消えないだろうということは何となく判っていたが、
講談師の癖を考えれば抵抗しないわけにはいかなかった。
「・・・冷たい、と謂ってるんです。・・・嗚呼、全く。ずぶ濡れじゃアないですか」
それでも、ようやく視線に収まった講談師は予想と反して薄い笑いばかりを貼りつけたままだった。
いつものようなからかいの仕草も見せず、ただ、笑っている。
「・・・だ、から、・・・!や、止めろ!」
それは少なからず、鴨川を動揺させた。
絶えない寒気を払うように暴れても、まるで虚空を掴むようだった。
講談師はそれを理解しているかのように指先を落とし、片手の平で鴨川の背中をなだらかに弄り始める。
思わず鴨川は大きく声をあげ、肌に絡みつく不用意な感覚に顔を歪めた。
「・・・アンタは、濡れた方が好いですねェ」
「止、めろ、おまえっ・・・」
俯くようになる鴨川の、ゆるやかな束になった髪の先から雫が垂れる。
背に湿った水分が浸み込み、講談師の手袋を赤く染めていく。
今、鴨川のシャツが肌色に染まっているように、薄く、広く。
過剰に愉しむのでも、悦ぶのでもなく、講談師は鴨川の背から首筋を撫で続ける。
まるで、好い、という言葉を体現するように、その状態を褒めそやすように。
「・・・本当に、好い」
冷めきった体温を何度も確かめるような形。感触。
絶え間ないそれに鴨川は居心地悪く顔を背け、ゆるく、細く、呼吸をする。
背筋から這い上がる、寒気ともつかない妙な感覚と講談師の手つきを跳ね除ける力をゆっくりと奪われていく己を、自覚する。
「・・・、っ、」
講談師は手を止めない。
あまりに執拗な手つきで背をまさぐり、じっと鴨川を、背から見つめていた。
鴨川は片手をソファに預け、薄目のまま甘い感触から逃れるように思考を閉じようとする。
既に、身体は痺れるような寒さと感覚に溺れ、力で抵抗する術は失っていた。
「・・・珍しい、なァ。喚きもしないとはね」
薄い笑いを唇に貼りつけたまま、講談師は低く囁き、徐に手を離す。
「う、るさ・・・、っ・・・、!」
そして、己の胸と鴨川の背を合せるように互いの身体をぴたりと、密着させた。
限りなく赤色に滲んだ白の手袋はなめらかな仕草でその腰に回り、強く、力を込められる。
その行動を、鴨川は追うことが出来なかった。
漸く離れた感覚が、もっとひどい形で迎えられたことに思考がついてゆかなかったのかもしれない。
掠れた、甲高い驚きの音色だけが響く。竦んだ身体だけが、息だけが、ある。
「滲みますなァ。嗚呼、冷える」
独り言のように講談師は言う。
空気の停滞をちらつかせる声色は、それでもすぐにまた、滞留していく。
細く痩せた不摂生の肉体。まだらに染まる藍と紺。
言葉通り、実際徐々に着物は水分を吸い取って濡れていく。
互いの温度が、同時に行き交う。無遠慮な雫たちの、無遠慮な交配。
「や、・・・や、め、」
「雨の音が、五月蠅い、モンでね」
ソファに置いた鴨川の左手に力が籠った。或いは、抵抗、とも取れる動きだった。
目を細め、講談師は余った片手をシャツに伸ばす。
重みを十分に背負った、肌の色。
呟きながら、喉元に当たる濡れた髪の感触をしっかりと確かめ、顔を斜めにうずめれば、
そこには待ち構えていたように肉の薄く張りついた耳朶がある。
雨の音が煩いのだ。
窓を叩きつける豪雨は、彼らを密やかに、まやかしていく。
「・・・、!」
さすがに鴨川も、今度こそ憚ることなく身体を大きく強張らせた。
耳に、生暖かい息と舌とが一気に襲ってきたためだ。
背の両腕は胸と腰とに絡みつき、どう身を捩ろうと逃げ場はなかった。
わずかに耳朶を唇に含んだあと、講談師はそれを形造る軟骨のつくりをひとつひとつ確かめるように、
緩慢に歯と舌とで甘噛みをし、撫で、なぞり、吸い、口付ける。
ソファに預けた、既にふ抜けかけた身体全体を支える片手ががくがくとか細く震えた。
もう一方の手は絶えず襲う波に耐えるため、無意識に口全体に押し当てられている。
「・・・、どうせ聴こえやし無い、声位、出したら如何だ」
「・・・っ、・・・、」
それを見、鴨川の耳朶の形も味も身体に馴染ませた講談師は、唇を放し、横から覗き込むように口にする。
低く響く。甘く囁く。
抑揚のない、しかし高圧的な命令。或いは、誘い。
無理矢理視線を逸らし、鴨川は急激に巡る熱と止まらない鳥肌を立てる身体を持て余す。
肩で息をする。呼吸は時間を追うごとに乱れ、激しさを増していく。
講談師の言葉を呑む気力はなかった。
それに、一度その手招きに乗ってしまえば、もう抑えられないことも判っていた。
拒むように首を振る。遅い動き。
舐めるように逐一の動きを追いながら、講談師は己の口を塞いだ鴨川の手に自分の手を這わせた。
「強情だ。・・・其れが好い」
ゆるく指の間に絡む指。同時に耳から顎のラインに舌を移す。ぬめる。骨の感覚が伝う。
舌で骨を感じることが、講談師はこの上なく好きだった。
とがった舌ととがった骨が切っ先で交わり合い、首筋へ落ちる。
何度目か、鴨川の身体が弱々しいままびくりと跳ねた。
痕を残すように唇を窄めた感覚が、伝わったためだろうか。
雨水に滲みた欲望の欠片。
それは窓の外で降り続く豪雨のように、流れ出て止まらない熱情だ。
何度浴びても足りない、とでも言うように。
講談師は、鴨川の首筋に落とす唇を増やしていく。時折、その舌先を交えながら。
「・・・は、・・・っ、う、」
息づかいに雑じって浮かび上がる鴨川の声は、衣服と同じように湿っていた。
自分の手の平に呑まれていく、拙い音。拙い呼吸。
そこへゆるく絡む講談師の手は、ゆっくりと、指先の間に絡んでいく。
「・・・全く・・・、アンタは、弄り甲斐が、ある、」
視線だけを持ち上げる講談師は、唾液に汚れた首に歯を当てたまま、零す。
いちいち舌や唇や歯に反応する鴨川は、どれだけ見ても飽きないように思えた。
もっと、と無意識下に浮かぶ欲望を掬いあげるように、
胸に絡めていた手をゆっくりと下腹部へ降ろせば、そこには焼けそうな熱だけがある。
「ぁ、!」
「・・・へェ、」
大きく、講談師が抱えた身体は跳ねた。
心底愉しそうに、講談師は笑みを浮かべる。唇を舐める。
布に混じった強張りを探すのにこれ程手間が掛からないことが、可笑しくてたまらない。
この、身体という、愚かなまでの実直さが、可笑しくてたまらない。
もう一方の片手を張りついたシャツの中へ滑り込ませれば、
下腹部の熱に侵されていない冷ややかな肌に触れる。相反する温度。
「随分、感じて居るじゃ、無いですか」
「っ、あ、・・・ダー、ス、」
濡れた髪に口付けをし、見せつけるように問う。
どれほど言葉が空を舞おうとも、なんら意味はないと告げる。
既に力の入らなくなった鴨川の四肢は、だらりと講談師に凭れたままになっていた。
大きく息をしながら、鴨川は己の身体をまさぐる両手を緩やかに掴む。
抵抗に届かない行為は惰性に満ちており、力はない。
掠れた声だけが辛うじて確かな存在となって、部屋に響く。届く。
「・・・もっと、呼んで、欲しいなァ」
「・・・! ・・・っ!」
吐息混じりに名を呼ばれたことが思いの外心地良かったのだろうか。
講談師はただ下腹部へ触れていただけの手を離し、ズボンの隙間に、それを突っ込んだ。
ぬるく濡れた心地は雨のものなのか、弱い刺激によるものなのか判断はつかない。
鴨川は講談師のつけた手袋の感触に不快さを抱きながら、
求めていない直接的な接し方に息を呑む。慣れない快楽は暴力的だ。
「喘ぐ、だけじゃア、詰まらない」
「う、ぁ・・・!や、め・・・」
「止めません、欲してるのは、アンタの方だ」
だからこそ、講談師はその暴力を止めない。
常に道化の格好ばかりを取る講談師の言動が、いかに手ぬるいものであるのかを、
鴨川は、こんな時ばかりに実感する。
硬くなった性器を握る指先。容赦のない手つき。
無意識に、鴨川の視界は濡れてぶれた。暑いのか寒いのか、良く判らなかった。
ただ掴み取れない快楽だけが高速で自分の身体を巡ることは、
何度か経験していたとしてもやはり強い恐怖だった。
講談師はそんな鴨川の震える身体を丸めこみ、その恐怖をも食らおうと手を早める。
自らの行動に罪悪など全く抱いていない、欲望を滲ませる。
痩せた鴨川の骨や、肉や、感触を感じることだけを思う。思う。
片手であばらを撫で、人差し指に引っかかる突起を摘んだ。
「!」
「・・・ったく、はは、好く、感じる」
雨だか、汗だか、唾液だか、もうよく判らない肌のぬめりの中で、
覚束ない情欲に鴨川は流されそうになる。呼吸を繰り返せば、余程震えは強まる。
収まることのない性器への刺激ばかりでなく、胸にまで伸びる手が考えることにも邪魔をした。
「ふ、ぁ、・・・あ、・・・、っ!」
絞り取るような喘ぎが大きくなる。
ああもう限界なのだろうな、と講談師は思った。
見下げるように覗き込めば、細まった目が焦点なくうつろっている。
赤らんだ頬がだらしない口元と一緒にゆるまっている。
手を早め、講談師は目の奥に閉じ込めるように、その光景ばかりを、見つめる。
「っあ・・・! っ、・・・、ぁ、あ、はぁ、ぁ、」
ふやけた身体が一瞬、止まった。
そして一際大きな声をあげると、がくり、と力をなくして鴨川は講談師の胸へ背をうずめる。
動きを止めた講談師の手には、精液が吐き出されていた。
「・・・早い」
手袋越しの体液の感触は全く心地良くないものだと講談師は眉をしかめる。
不満げに、ズボンから手を引き抜けば白濁の液がずるりと鴨川の腹をかすめた。
「はぁ、っ、あ、はぁ、」
尚、それに感じるように鴨川の身体は震えていた。
呼吸ばかりを繰り返し、甘えるように身体を講談師に押し付けている。
随分長い間鴨川に体重を掛けられていたため、そろそろこの体勢が面倒に思えていた講談師は、
ずるずるとソファに鴨川ごと雪崩れ込んだ。
「学者様ァ」
「ん、う、ぁ、・・・何、だ・・・、」
互いに掠れ、上ずった声。うつろな視線。
べたべたと不愉快な質感の衣服はもうどちらがそうしたものか判らない。
ソファに凭れ、浅く息を繰り返す鴨川は、黒い羽織りを脱ぎ、床へ捨てる講談師をぼう、と眺める。
その表情は逆上せていた。
学者様、と告げる声自体、ひどい熱を持っていた。
そんな鴨川の思考を読んでいるかのように、
講談師は下から覗き込むような姿勢で鴨川との距離を詰める。蛍光の舌が、ちらりと掠める。
「・・・舐めて下さい」
「は・・・、?」
「汚れて、しまったモンで」
発された科白を聞き、一瞬、意味が分からない、と鴨川は思った。
しかし、目の前に粘液で汚れた手袋が差し出されているのを見て、
朦朧ながら、目の前の男を酷い倒錯者だと思った。
拒絶するように身体を引けば、有無を言わせないように、着物はひっ付いてくる。
「・・・ねェ、学者、様ァ」
「・・・っ、う、」
隙間を持たないほど密着した講談師は、上目のまま、ゆっくりと右親指を鴨川の唇につける。
精液に塗れた手袋ごと、そのまま、唇の奥に割り入り、指を突っ込んでいく。
鴨川の目は驚いたようにたわみ、きつく細まった。
「綺麗にして、下さいよ、」
「ふ、っ、・・・う、ぁ」
咄嗟に、伸ばされた腕を鴨川は掴む。
だが講談師の親指は有無を言わさず、その口腔へ深く入り込んできた。
舌に苦い精液の味が広がり、鴨川は咳き込みそうになる。
それでも、講談師の甘く乱暴な手つきは下らない欲を掻き乱した。
指に舌を絡め、求められるがまま、精液を舐め取る。
親指は人差し指に代わり、中指に代わり、薬指に代わっていく。
息を荒くしながら、講談師は夢中で己の指を舐める鴨川の表情に、俄かに溺れていた。
薬指が小指に代わり、もうその手に残るものがただの唾液の他なくなると、
講談師は静かに指を引き抜く。
「はっ、ぁ、・・・」
「(・・・物欲しそうな、目を、する)」
ぬるり、とした感触。手袋が拙い糸を引いた。
小指の腹が鴨川の舌を通り過ぎる。それを、鴨川は視線で追う。
そして、それを講談師は見ていた。
嫌悪や困惑や情欲がない交ぜになった瞳は中々、言葉にしがたい、良さがある。
「はぁ、ハァ、・・・、」
「良く出来ました。ほら、随分、綺麗になった」
湿った息を続ける鴨川に見せつけるように、講談師は手を広げた。
既に、唾液で湿り切った手袋は薄く赤い色に染っている。
まだ舌先に残っている苦さを口腔に転がし、鴨川はじっとその色に目を落とした。
褒めるような講談師の声色は甘い。
それは、鴨川がこんな行為に興奮する性質だということを、知っているからだろうか。
「(・・・、身体が、熱、い)」
知っているからかも知れない。
何せ、欲望を抜いた筈の身体は歳に見合わずまた、火照っている。
痩せた身体に乗った講談師はそれを充分存じているだろう。
満足そうに笑んだ表情が、その証拠だ。
指先で一度鴨川の唇を撫でると、鈍い仕草で手を戻し、口で手袋を引き抜いていく。
「・・・満足、か、」
最中、吐息で消え入りそうな声で、朦朧と鴨川は呟いた。
それに反応し、講談師は手袋を半分手に引っ掛けたまま視線を揺らし、鴨川を見る。極めて遅い仕草。
弄るような視線だ、と鴨川は思う。身体が震えた。
唇から手袋を外して、講談師は口にする。
「・・・満足、ですか?」
珍しい、と。講談師も、思った。
自らの欲望を僅かながらでも口にする鴨川を。
見下げられた鴨川の瞳は細く締まり、窺うような、媚びるような色を見せている。
濡れた感情を隠さない、明け透けな視線。
呼応し、講談師は焦らすように問う。誘うように尋ねる。
再び手袋に口をつけ、引き抜くまでの間、返答を追うように見上げた。
鴨川は呼吸だけを続け、ゆるんだ思考を持て余したまま、そんな講談師を見つめていた。
まるでその唇が解放されるのを待ち兼ねているように、
まるで、その唇から発せられる言葉を、待ちわびているように。
「・・・御返事して頂かないと、・・・ねェ?解りませんよ」
それを理解している素振りで、僅かに講談師は身を乗り出した。
視線を合わせ、首を傾げるように曲げて、顔を近づける。
あと10センチすれば口付けも出来そうな距離。
鴨川は、かすかに怯んだが、浮ついた思考は支配を離れ、より強く暴れていく。
凡てが挑発だと気付いているのに、欲望は尽きない。
先を、先を、と望む喉。舌。指先、粘膜、身体。
満足か、と自ら問いを投げ掛けた唇を、鴨川は震わせた。
「・・・、甚、振って、くれ」
「・・・どんな風に」
講談師の目が光る。その言葉に、蕩けた目つきが、一匙分の狂喜を得る。
講談師は、この、鴨川の物言いを殊の外、好いているのだ。
欲しい、だの、もっと、だのという単語ではなく、
甚振る、という尤も自分の欲に忠実な言葉で求めてくる男の姿。
マゾヒズムに支配された強欲な弱者として、自らを憚らずに、傅いてくる。
「手酷、く」
「壊れちまう位に」
「・・・、ああ」
何度でも裂かれるように、鴨川は、なぞる言葉、なぞられる言葉に、鼓動を早くする。
自らの欲を吐く過程は狂おしいほどに強く甘い。
震えて抑えの利かなくなる声を、伝わるものにすることに必死だった。
「・・・アンタにしちゃあ、上出来、だ」
「っ!」
玩ぶ視線で鴨川を見ていた講談師も、その過程には中々愉しいものを感じていたようだった。
掠れた声で呟くと、程なかった距離を詰め、目の前の唇を塞ぐ。
無理矢理ねじ込むように、すぐ舌を割り入れれば焦げた視線がゆるく締まる。
反応は早かった。
口内を弄ろうとした先端は鴨川のそれと絡みあい、無様な濡れ音を遺す。
「あ、・・・っ、う、はぁ、」
「・・・はぁ、ぁ、」
歯、歯茎、粘膜、舌の裏側。
支配しようと頑なになる感情が暴れる。声が漏れる。息が濡れる。
唇を離しては、また啄む繰り返しが続く。
忙しなく開閉する瞼が、互いの感情を緩慢に煽っていた。
講談師は鴨川の身体に密着し、頭に手を回してより深く舌を挿し込む。
押し込まれた舌が呼吸を邪魔した。鴨川は目を開く。
「・・・、! ・・・!!」
抵抗するように身体を捩れば講談師の力で黙殺される。
息が出来ず、唾液を飲まされる。
暫くそうされた。無作為な圧迫は苦しく、鴨川は講談師の背を何度か叩いた。
唇に、その振動が襲ってきて少しだけおかしな気分になった。
目尻に意図していない涙が滲む。拭おうとしても、身体は押さえつけられたままだ。
講談師はそれを見て、一度、鴨川の首筋を撫でた。
肌が跳ねる。と同時に、唇は離れる。
「っ、はっ、はぁ! ・・・っ、は、はぁ、はあ」
「・・・は、はは、手酷く、と、謂われたモン、ですから、ね」
必死で酸素を求めるように、鴨川は大きく口を広げて喘ぐ。
口から、溜まった唾液が腹に落ちた。糸を引いた。それを不器用な仕草で、鴨川は拭った。
目尻の涙のことを思い出す余裕はないようだった。
講談師は、鴨川と同じように息を荒げ、口を拭い、掠れた言葉を紡ぐ。
拭った手を唇の端で止め、だらけた視線を鴨川はそんな講談師へ放った。肩で息をしていた。
口付けの最中に距離が詰まったため、まだ、互いの身体は密着している。
濡れた皮膚は熱かった。
どうあれ、お互いは興奮していた。
たかだか口付け程度のことであれ、結局は、感情が上乗せされている。
そう、無様で、下劣で、それでいて妙に気高い、愛情、とかいうものが。
「・・・も、っと」
「ン」
鴨川は唾液を拭った手をだらりと垂らした。
それが講談師の肩に乗った。
怠惰な力を持て余していた五本の指は、その着物を見つけ、甘えるように、食い込んだ。
「・・・好い返事だ」
「・・・、う」
滲みた指先は、講談師にとってこの上なく満足のゆくものだった。
素肌の右手を持ち上げ、鴨川の涙を乱暴に拭う。
痩せた輪郭に乗った肉が、ゆるくたわんだ。鴨川は居心地悪そうに顔を顰めた。
「謂わなくても、ブッ壊して、やるよ」
「っ、・・・、」
重なった熱が何を呼ぶのかは判らない。
布に食い込んだ指、肌に食い込んだ指。そのふたつは刺さったままで、
震えるような恍惚だけを残す。抱く。高まっていく。
講談師は再び、鴨川に唇を重ねた。
不器用でも器用でもない、そうするのが当然だとでも言うようなやり方だった。
雨は降り続き、音は止まない。
手酷いやり方でその凡てが満足に甚振られるまで、決して、已まない。


淀×鴨川







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