2006




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「ん……」
 鴨川はゆっくりと目を開いた。斜めになった視界から日光が差し込み、その瞳をちかちかと刺していく。どうやらあのまま眠ってしまったらしく、身体が強張っている。否応なく射しこんでくる光に鴨川は何度もまばたきを繰り返して視界を確保しようと、身体を起こした。
「!」
 その瞬間、鴨川は息をのんで起こしかけた体勢を固まらせる。目の前に、この部屋には決して存在しないはずの、「他者」が鎮座していたからだ。
「御早う御座います、学者様」
 赤い炎が、目の前でゆらゆらと自由に揺れている。和装の服。黒衣を羽織り、中は灰の着流し。それが、ソファの前にどかりと座っている。声は低く、また妙に穏やかだった。
「……どうして、ここに」
 見慣れた、というのは早計だが、その容姿は1日2日で忘れられるものではない。なにせその頭部が炎で構成されている異形なのだ。鴨川は自身がおかしな体勢をしていることも忘れて尋ねる。その声は寝起きからか微妙に、濁っていた。
「明日、と仰ったのはアンタでしょう」
 ダース淀。確か本人は自らをそう紹介していた。この異形の、名前。一瞬はこの男のことを考えていた昨夜からの自分の妄想かと思ったが、呆れたような顔つきが的確な言葉を発するのを見、鴨川はこれが現実なのだと思い知った。
 明日。
 ずれた眼鏡を無意識に直し、ずるずると滞っていた姿勢を正して鴨川は昨夜の言動を思い返す。……確かに、明日とは言った。言ったが。まさかその言葉で、起き抜けに当人が目の前に現れると思う者は一人としていないだろう。鴨川は予想だにしない寝起きの衝撃から、強制的に覚醒してしまった頭をもたげる。
「それは、そうだが」
「其れなら宜しいじゃア御座いませんか」
 ゆるゆるとした肯定に、にこり、とダースは満面の笑みで微笑む。当惑する鴨川などまるでお構いなしの風体だ。感情はつかめない。形なく揺れる炎の中に表情があるせいか。いや違う、そのひとつひとつは鮮明すぎるほど鮮明だ。
 ひとしきり笑うと、ダースは身体の全体をソファに預けていた格好を解き、黒衣を払って鴨川に向き直る。
「……改めて。御返事を頂きに参りました」
「……、」
 その一言で、ダースの雰囲気が一瞬に変わったことを、鴨川は悟った。瞳の色に決して譲ることのない、挑むような光が混じったためだ。こちらを射抜くような鋭い視線は、人間と離れたその存在を顕わにする。わずかにおどけているかのような音色も、今や真剣なそれに変わっていた。鴨川は口にたまった唾を飲み、その視線に負けないようにと視界を据える。
「……、昨日にも、言ったが。IDAA全体での、協力は出来ない」
「……ええ。存じております」
「他の職員や研究員は関係ない。私だけが、貴様の要求を呑み、この関係を築く」
「ええ」
 身体が少し震えている気がした。心臓も、いつもより大きな音を立てているような気がする。それでもその心はどこか躍動していた。これから先、この男がなにを差し出すのか。なにを、見せてくれるのか。その期待へ傾く、自分の返答はもう決まっている。