003 贖罪
贖罪(しょくざい)という言葉の意味を、皆さんはご存知ですか?
ネットで調べますと、
大辞林 第三版の解説
しょくざい【贖罪】
( 名 ) スル
@金品を出したり,善行を積んだりして,犯した罪をつぐなうこと。また,刑罰を免れること。
Aキリスト教で,人々の罪をあがない,人類を救うために,イエス-キリストが十字架にかかったとする教義。和解。
このように出てきます。
私にとっての贖罪は「生きること」です。
――私が18歳の頃のこと。
大切な家族が一人、本当にひとりぼっちに、逝ってしまいました。
自死でした。
そのきっかけの一因に、私の行いがあったのだ、と、今でもそう思っています。
どんなに他人にそれは思い過ごしだ。など、私に非がないと、たとえ神様にそういわれても、
私に重くのしかかったその“自責の念”は一生消えないでしょう。
ただ、はっきりとした前触れのようなものは、ありませんでした。
しかし、生活や仕事の面で精神的に追い詰められていたことは確かで、今更後悔してももう遅いのです。
だから私は生きることで罪を償うことにしました。
たとえどんなに、どんなに辛い希死念慮に襲われても、
一方で生きなきゃという気持ちが、逝ってしまった家族の顔が、浮かんでくるので、私はその度に重苦しい気持ちになりながらも、少しずつ少しずつ前へ、生きていくのです。
突然の死から、もう10年が経とうとしています。
けれど、夢に見るその人はいつも、
どこからともなく、ふらっと家に帰ってきます。
ある日は長期の入院から。
ある日は長旅から。
またある日は突然生き返り。
そうして、私たちの元に姿を見せてくれる。
ふっと目を開けると、それが夢だったことに気付かされて、私はひどく疲れそして、こらえきれずに泣いてしまいます。
それは未だに、です。
いつになったら、解放されるのか、それは分からない、どころか、一生この重荷を背負っていくのでは、という思いしかありません。
でも、あの時こうしていればなんていうのは、後の祭りです。
今年も、ひとりでこっそりと命日にお墓参りに行ってきました。
こっそりとしか、行けません。
どうしても家族に、大きな声では言えないのです。
何故か、お墓参りに後ろめたさを感じてしまいます。
だけどいつか、ちゃんと言おうと思います。
大好きな、大好きな、あの人のことを、今でも大事に思っているよ、と。
けれど、今はまだ。
こうして、エッセイにするのにも、だいぶ長い間何度も何度も推敲しました。
でも少しだけ、少しだけ、気持ちを吐き出せる、そんな気がしたので、勇気を出して公開します。
あの人に届くかどうかなんてわからないけれど、
今でも、想いは変わりません。
大好きだよ、ありがとう。と。
頑張るよ、私。と。
だから、
私は、
死なないよ。
死ねないよ。
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