水の詰まったビニールが、袋の口を閉じて手に提げるための、やはりビニール製の紐を、掴む指の引き受ける、重力への抵抗を失って、落下する。
滑り落ちたそれは、水風船のように弾けるでも、死体のように潰れるでも、なく、開いた口から半端に水を溢してアスファルトをじんわり濡らしている。ビニールの内側では赤い魚が二匹、跳ねている。
金魚袋を離した、冬花の手は、はっきりと意思を持っていた。明王は彼女を咎めたように記憶している。

「だってうちに、水槽は、ないもの」

冬花はいつものあの、抑揚の少ない声で、事も無げにそうひとこと云ったきりだった。
それで、明王はそれ以上、彼女の行為に言及するのをやめた。
彼女と彼女の父親の暮らす家にはきっと、水槽も、鳥籠も、犬小屋も、ないのだろう。彼はなんとなく思った。閉塞と埋没。気味が悪い。得体の知れない疲労感を覚えて、思った。深入りするべきじゃない。
透明な袋の内部、足りなくなった水の中で、呼吸を求めて魚が喘いでいる。
冬花は赤い浴衣を着ていた。その姿に、真っ先に金魚を連想したことを、明王は思い出していた。


迫る夕闇の雑踏に立つ、冬花を見つけて明王は立ち止まる。立ち止まったことではじめて、彼女に声をかけるか否かの逡巡を、自覚して、彼は眉を顰めた。ここで声をかけようがかけまいが、とりわけて不自然でも不都合でもなかったが、彼らの関係上にあるそういった選択の自由性はどういうわけだか、彼よりも彼女のほうに、より強く握られているのが常であるように、思われて、それは泥濘に足を取られているような錯覚を、しばしば彼に抱かせる。行き交う人の群れの中で、ひとり、冬花の存在は、いやに異質に浮かび上がって見えた。しっかり両足をつけているくせに、ふらりふらり輪郭は定まらない、彼女の佇むさまはまるで亡霊のそれだ。底の視えない、深く澄んだ紫水晶の眼球が、あらゆる光と景色を弾き返している。
不意に、雑踏の波が肩にぶつかり、押されるようにして、明王は泥濘から足を出す。いつのまにか、彼の意識から遠ざかっていた喧騒が、戻ってくる。彼女も、また彼自身も、喧騒を形成する無数の記号の一部に過ぎないのだという、正常な認識が戻る。少しずつ色を濃くする夕闇。太陽も、人々も、夜へ足早に逃げて行く。急になにもかもが、ばからしくなって、明王は踵を返した。返した瞬間、やや肥えた中年の背広の男が、冬花に声をかけるのが、視界に映り込んだが、明王は振り返らなかった。

明王の数歩前を親子連れが歩いている。まだ若そうな後姿の母親は、左手に買い物袋を、右手に子供の手を、握っている。何に興味を惹かれたのか、手を握られたまま駆け出そうとする子供の、その手を、制するように引いた母親が、バランスを崩して、買い物袋を取り落とした。明王はぎょっとして足を止める。どさりと落ちた袋から、いったい何を作るつもりなんだか、野菜だの果物だの、規則性のない食材が転がり出るのを呆然と眺めていた。慌てたようにしゃがみこみ、袋の中身を拾い始める母親の背中の向こうから、子供が、突っ立ったまま動かない明王を見つめている。目が合う。幼い少年の、その深く澄んだ眼差しに、軽い眩暈を、起こして、逃げるように彼は子供から視線を外した。母親は、野菜だの果物だの、拾い集めた食材を再び袋に詰め直す作業に没頭している。手伝うつもりなどさらさらないのだから、こんな場面、さっさと通り過ぎてしまえば良い。そう思うのに、目も、足も、動かせない。眩暈は頭痛さえ伴っていっそう酷くなる。口の開いた袋から覗く、刺身のパックの、赤身を見て、明王は今度こそ吐きそうに、なった。

明滅しながら逆流する世界の幕間で金魚の布が揺れている。瞳の名は青。青の水に赤い魚を放さない。
きまぐれにこわされた子宮から、滲み出す羊水、呼吸のすべを失ってひからびてゆく胎児を、思った。
あれから彼らはどこへ行ったのだろうか?
舗装の道端ではまさか土に還るもあるまい。そう大方、野良猫の痩せた腹にでも、収まったに、違いない。




溺れる魚のまなざし




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